第七章 仮初
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「なんや……。」
その声は思いのほか冷静さを含んでいた。けれども、心中は甚だ平和とは程遠く、混乱を極めている。なぜなら、あり得ない事が己の身に起こっているからだ。
「……梶……、どないした。」
糊の効いた張りのある背中に、柔らかい重さが伝わってくる。顔を埋めるように張り付いた姿は、まるで、親に縋る子供のようにも見えた。放すまいと軍服を握る手元にシワが寄る。それを改めて目の当たりにして、「おお……」と不穏な心中が瞬く間にときめいた。
「……い……てか…いで……。」
「ん。なんやて。」
はっきりと聞き取れず、今一度尋ね返す。
「……おいて……置いて行かないでくださいましッ。」
ブワッと音が鳴る勢いで綾鷹が面を上げる。表情は悲観そのもの。夕暮れ時の西日が濃い影を顔に落としていた。その目元が異常にキラキラと輝き、場違いにも美しいと思ってしまったのは、最早不可抗力でしかない。己がどんな顔をしているのか分かっているのだろうか。そう思うと同時に、ゾワゾワと腹の底から迫り上がるナニかに、北は唾を飲み込んだ。
「俺がいつ梶を置いていったん。」
くるりと向きを変える。行き場を失った小さな手を包み込んだ。今度は自身の胸で彼女を受け入れる。
「教えてくれや。俺がいつ梶を放っておいたん。」
「だって、だってっ。北様が何にもおっしゃらないからっ。わ、わたしっ、もう、用無しになってしまうのかと。このままじゃ、わたし、せっかく北様のお力になれるとーー。」
んんんんんッ。可愛いッ。
これがいわゆる”胸キュン”というものか。堪らず天を仰ぐ。全身全霊で訴えかける姿に、申し訳ないが庇護欲しか湧かない。これを彼女に言ってしまうと、きっと傷ついてしまうから口にはしないが。とりあえず、この女は本気でそんな事を心配しているのか。この俺が。梶を置いていくだと。あるはずがない。喉から手が出るほど望んだ女だぞ。今更手放せと言われても、放してやるものか。頼まれても御免だ。いよいよ泣き出しそうな彼女を北は静かに見下ろす。その間も綾鷹の口は止まらない。
「もうっ、苦しくて苦しくてかないません。私はどうしたら良いのですかっ。」
おそらく彼女は、北に抱きとめられている事にさえ気付いていないのだろう。こんなに近くで見つめ合ったのはきっと初めてだ。
「北様のお気持ちに応えられないのに、思いだけは募ってゆきますっ。あんなにおよしになってとお願い申し上げたのに、諦めてくださらない。わたくしは一体、どうすればっ。どうすれば楽にーー。」
さて、こんなにも想いを伝えているのに。いや、もうここまでくると伝えるを通り越して、投げつけてさえいるのだが。ひとまず、一向に振り向いてくれない彼女をどう治めようか。と考を巡らせている時であった。聞捨てならない言葉に、両眼をこれでもかと開く。
「ちょっと待て。今、なんて。」
「えっ。で、ですから今後の計画に支障がーー。」
「ちゃう。その前や。」
「……およしになってとお願い申し上げたのに。」
「いいや、もっと前や。」
「ええ……。」
一瞬、冷静に己の言葉を思い返す。そして、はたと失言に気がついた。
「あ、ああ……。」
動揺を隠す余裕すら無い。
「言うたな。”思いだけは募る”て言うたな。」
それすなわち。綾鷹自身も北を好いていると告白したのも同然。
「あ、あの、それ、それはっ。きききき、き北様のき聞き間違いでは……。」
「何回”き”言うねん。……俺は確かに聞いたで。」
間違えるはずがないやろ、と迫る。先ほどとは違った意味で青ざめた。言うつもりなどこれっぽっちも無かったはずだ。何なら、墓場まで持っていく覚悟だったはず。それを、こんな間抜けな理由で洩らしてしまうとは。阿呆以外の何者でもない。
「それは、そうゆう意味なんやな。」
「わわわわわわわっ。」
「俺が思うとるのと変わらんのやな。」
「ンンンンんんんっ。」
「梶っ。何とか言ったらどおや。」
「うううううううっ。」
言った。言ってない。のバカらしい攻防戦が続く。ここは押し切った方の勝ちだ。側から見れば何とも言えない状況なのだが、当事者の二人は大真面目であった。各々、冷静沈着、挙1反三(キョイチハンサン:優れた能力と理解力があること。一つのことを聞くと、そこから三つの事を理解できるという意味)が取り柄である。が、今は自己同一性が見事に崩壊していた。声を張り上げ、必死になる姿は、彼らを知る人間を至極驚かせるだろう。
「いい加減認めえ。往生際が悪でっ。」
「いいえ、いいえ。認めませんっ。」
「なしてやッ。」
「どうしてもですっっ。」
押し問答も押し問答。このやり取りに一体どんな生産性があると言うのか。意味の無い言葉の応酬は、北の堪忍袋の緒が切れたことでおさまった。が……
「このっ、ヘンコ(頑固)がっ。」
「ふえッ。」
ギュッとその柔らかな頬を思い切り片手で挟む。その勢いに任せて飛び出た唇にかぶり付いた。どたどたと床がなる。突然の感触に、綾鷹はほぼ無意識で両手を北に突きつけようと前に出した。しかし、距離をとるはずだったそれは、あっという間に捕まり、さらにその勢いを利用されて男の元へと引き寄せられる。逃げ場はないか、と体を逸らしたのが最後。壁に叩きつけられ、さらに深い所へと北の侵入を許してしまった。髪留めが拍子に床へ転がる。
「ふァっ……んんン……やぁあ……。」
首を振ろうが、顔を逸らそうが、逃れることはできない。北信介という人間からは想像もできないほど、獣のように貪った。股の間に片足を入れられ、手首は縫い付けられたように動かない。せめてもの抵抗で、カリカリカリと壁の和紙を引っ掻く。容赦などこれっぽっちも無かった。
「ハぁn……。」
鼻につく声が間近でする。これが誰のモノなのかなんて、考える時間さえ与えられない。深く押し付けられたかと思えば、舐るように離れてゆく。上唇を捉え持ち上げると、すかさず舌が上歯をなぞった。経験した事もない感覚が全身を駆け巡る。逃げろ、逃げろと頭は訴えるが、体は溶けていくようだった。