第七章 仮初
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無言の攻防戦が続く。いつにも増して折れる様子のない北に、綾鷹は目に見えて困惑していた。強いこだわりを通り越して執着とすら言える。その姿に、この時初めて病的な怖さを見た。引き寄せられる力に抜かりはない。ほとんど伸びきってしまった己の腕に焦りさえ感じる。剥き出しにされた二の腕に羞恥する余裕など甚だ無く。得体の知れないモノから逃れるようにして、黙して抵抗する以外に方法は無かった。殺意とも違う。迫るような空気に尻込みしそうだ。
「そない難しい話やないやろ。」
「そ、それは……そうですがっ。」
「ちょっとだけ。ちょっとだけ砕けたように呼んでくれるだけでええねん。そうやろう。」
「え、ええ……。」
「簡単な話や。ほら、呼んでみい。」
限界はもうそこまで来ている。固い布の感触が指先に触れた。不本意に北の腹へと到達してしまった手は、最後の抵抗を見せるようにその体を押し返す。じわりじわりと近く顔。直ぐそこまで迫った吐息。ほら、早く。と催促する声は至極優しい。ねっとりとした甘ささえ含んでいた。
「はよせんと料理がきてまうで。」
「し、しかし。」
「ほら……。」
「ひぃっ。」
「なあ……。」
「ヒュッ。」
「早く……。」
「あ、ああ……。」
「……綾鷹……。」
もうだめdっーー「失礼いたします。お料理をお持ちいたしました。」
助かった。凛とした声に、ハッと我に返る。いつの間にか卓上に体の半分を乗り上げていた。座卓の縁に腹が食い込む。甘く毒のような空気がゆるりと揺らぐと、北の気が一瞬緩んだのが分かった。その隙に細い腕を捻り、熱すぎる熱から逃れると、何事もなかったように再び腰を落ち着かせる。チッ、と舌打ちが聞こえた気がしたが、不服そうな男の顔はあえて見ない。
「……入ってくれ。」
障子の向こう側へ一言、簡単に投げる。彼の合図に音もなく戸が開くと、女将を筆頭とした女中達が入ってきた。迷いなく、感心する手際の良さで料理を並べていく。
「旬のお野菜をふんだんに使ったお料理です。奥方様のお口に合えばと思うのですが。」
「ありがとうございます。大変美し彩ですこと。」
ほほほほほ。と万人が好む外向けの笑顔を浮かべる。膝上へ隠した手がジンジンと鈍く痛んだが、努めて、気づかないふりをした。
カラカラカラ……カラカラカラ……。
直ぐ下の車輪が回る。程良い風が耳元を通り抜け、熱帯夜を幾分かマシにさせた。どうせなら、隣の人の機嫌もマシにしてくれないか、と切に願う。
あの後、私たちは一言も言葉を交わしていない。菜はどれも素晴らしく、腹は大満足だ。加えて一流のもてなしを受けた上に、久しぶりに人様の作った料理を口にした。本来なら、その余韻を二人で楽しんでいる頃なのだが、現実は真逆だ。原因は話すまでもなく己にある。謝るのが一番であるとわかっていた。しかし、彼の切迫した様子に気づいてしまったのも、また事実。
自覚が無いわけじゃない。北が真撃であることは、百も承知だ。想いを伝える時に嘘偽りなどあるはずもなく、いつでも本気である。しかし、それを綾鷹が認めることは無い。幾度となくあやふやにされ、挙げ句の果てには、受け取れない、と返される。律儀で義理堅い男だから、その度に身を引くしか方法が無く。また、綾鷹の言い分は北にとって諦める理由になり得ない。不憫も不憫。彼も人の子である。いくらモノの引き際がわかっていたところで、情は募る。詰まるところ、己の自業自得なのだ。暑い夜だが体が冷えてはいけない、と車夫が用意してくれた膝掛けを無意識に握りしめる。結局、屋敷へ戻るまで現状を打破することは叶わなかった。
「この辺でええ。」
「へいっ。」
ゆっくりと速度が落ち、丁度よく屋敷の門前で停車する。ほどよく汗をかいた車夫に金を払い、北は無言で表門を潜った。綾鷹も黙って後を追う。夕暮れ時を少し過ぎた空は、だんだんと夜の天幕を下ろし、薄暗くなっていた。
軽い砂利を踏む音がなんとも虚しい。意識しなければ足音が消えてしまう綾鷹にとって、それは北から言われた数少ない頼みでもあった。だからこそ、ますます物悲しく思える。
「あ、あの、北様……。」
「……どないした。」
玄関の戸に手をかけた時、消え入りそうな声で彼を呼ぶ。穏やかな返事であったが、振り返りはしなかった。
「……ありがとうございました。その、お料理、大変美味しゅうございました。」
「……そか。喜んでもらえて、俺も嬉しいわ。」
しん……。とその場が静まり返る。蜩の声だろうか。嫌に上品な鳴声だ。綾鷹の心に変わって、まるで泣いている様である。胸が張り裂けそうだ。ギュッと力強く両眼をつむり、気づかれないよう息を吐く。意を決して一歩、北へと近づいた。
「怒っておいでですか。それとも、意気地のない私に呆れてしまいましたか。」
我ながら大胆である。振り返らない事を良いことに、闇に溶け込み始めた紺色の裾を掴んでいた。ピクリッと男の肩が震える。
「どうか。どうか、罵ってくださいませ。なんなら手を挙げても構いません。……ですから、お黙りになるのだけは、やめてくださいまし。」
沈黙こそ、一番恐るべきモノだ。意中の相手なら尚更である。ああ、この私がよもやこんな顔をする日が来るとは。
「……馬鹿な事言うなや。出来るわけないやろ、そないな事。」
ため息混じりのそれに、己の眉間のしわが更に深くなる。体が冷えてまう、と北は中途半端に手をかけていた戸を今度こそ開いた。するりと抜けてしまった裾を追うこともできず、屋敷の奥へと消えゆく背中を見る。ああ、このままでは消えて無くなってしまう。これまでの全てが。
ダメ……、そんなのイヤっ、イヤ!嫌!
突然背中に感じた衝撃に、北は思わず肩越しに振り返った。