第七章 仮初
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こんなことなら、もっと上物を身に付けるべきだった。後悔先に立たず、とはよく言ったもので、まさに現在の綾鷹を表している。ここまで走ってくれた車夫に軽く礼をして、地面に降り立つ。勿論、目の前に広がるのは、そんじゃそこらじゃあお目にかかれないような、立派な入り口。紛れもなく、料亭「白鷺」である。
「……緊張しとるん。」
「当たり前です。」
むしろ、なぜ北様は緊張すらされていないのか。不思議でならない。つっけんどんな態度で返したが、当然である。全く、心の準備くらいさせて欲しいものだ。拗ねてしまった綾鷹の様子に、ふむ、と一つ考え、北は口をひらいた。
「上の接待で何度か来た事があんねん。……俺1人で使こうた事はあれへんけど。」
じとり、と左斜め下から嫌な視線が突き刺さる。納得してくれたのか、してくれなかったのか定かではないが、とりあえず綾鷹は何も言わなかった。
豪華絢爛。そんな言葉は似合わない。しかしながら、そこには疑いようもない気品と歴史があった。数多くの賓客が踏みならしただろう石畳を、今は北と一緒に歩いている。無造作に見えて、綿密な計算の上で配置された木々や花々。空気は澄み渡り、落ち着いた雰囲気にもかかわらず、どこか神聖ですらある。侵しがたい空間。一歩踏み入れれば、そこは別世界であった。無意識に呼吸が深くなる。
「お待ちしておりました。」
三つ指を立てて頭を下げる。初老の女性が私たちを出迎えた。大変小柄だが、纏う空気は一流。確かな自信。有り余る経験。そんな印象を受ける。節くれだった手だが、そこには努力の跡が見て取れた。
「女将、急ですまへんなあ。」
「とんでもございません。北様直々のお頼みです。断るはずがございません。」
綾鷹は隣で黙って会話を聞く。数回のやりとりで、2人の関係を想定付けた。
「今日は連れがおんねん。」
そういうと、後ろで控えていた綾鷹を側へ引き寄せる。座って出迎える女将は見上げるようにして綾鷹と顔を合わせた。
「俺の妻や。」
「……綾鷹と申します。どうぞよしなに。」
とくとく、と心臓が軽く跳ねる。北の”妻”という響きが身体中を駆け巡った。軽く会釈をし、妻らしく挨拶をする。女将は呆気に取られたような表情だった。
「これはこれは……ご挨拶が遅れました。白鷺亭二代目女将をつとめます。まさか北様に奥方がいらっしゃったとは知らず。失礼いたしました。」
人の良さそうな笑顔は、「呑んだくれ」の女将と変わらない。しかし、どこか居心地の悪さを感じる。一瞬の出来事であったが、綾鷹には十分に伝わっていた。北は気づいているだろうか。いや、この調子だと私にだけだろう。所謂、女にしか分からない何かだ。
「すみれの間をご用意しております。お座敷のすぐ側に小川が流れておりますので、蒸し暑い今宵も幾分か涼しく感じられるかと。」
「ありがとうございます。」
「おおきに。」
履き物を脱ぎ、女将の案内のもと部屋へと向かった。
「本日は夏の味覚を楽しめるお品書きとなっております。」
「そりゃあ楽しみや。」
すみれの間は丁度2・3人程度が座れるこじんまりとした一室であった。まあ、こじんまりと言っても13畳とちょっと。食事をとるため”だけ”に13畳だ。長屋暮らしを経験した身としては十分広い。しかし、これでもここでは狭い方に入るのだとか。漆塗りの座卓に、北と向かい合うようにして腰を下ろす。ぐるりと目だけを動かして、部屋の中を改めて見た。至って素朴。丸く切り取られた窓からは、中庭がチラリと窺え、どこからか水の流れる音がする。調度の類も落ち着いた色合いで品があり、高級料亭にふさわしい空間を作り上げていた。
「では後ほど、お料理をお持ちいたします。どうぞごゆるりとお過ごしください。」
綾鷹を出迎えた時と一寸変わらない所作で頭を下げ、女将は部屋を後にする。音も立てずに障子が閉まると、2人だけが取り残された。
「……急に連れ出してしもうて、悪かったな。」
北が湯飲みに手を伸ばしつつ口を開く。
「まだ外に出せへんけど、2人なら問題あらへんやろ。……どや、あそこでの暮らし。何か不自由しとることはないか。」
「とんでもございません。確かに外へ出られないのは不便ですが、慣れてしまえば良い話です。お屋敷も丁寧に整えていただきまして。……聞いた話では、アラン様や侑様が手を加えてくださったとか。」
い草の香る爽やかな我が家を想う。確かに、以前の暮らしと比べると、管理しなければならない部屋は増えた。けれど、それを踏まえても尚、今の生活は得るものが多い。広々とした自室に心地の良い縁側。立派な炊事場や家庭菜園。不自由などしようがない。極めつけは私的な風呂と厠が敷地内にあるということ。これ以上の贅沢があるだろうか。
「知っとったんか。……なんや、おもろないなあ。家主より先に種明かししたらあかんやろ。今度強く言っといたろか。」
「そんな薄情な。北様が教えてくださらないからではございませんか。」
カラカラと軽く声を転がして笑う。伏せ目がちに茶を一口含み、再び正面の綾鷹を見た。
「なあ。……そろそろ、その”北様”言うの止めへんか。」
「え……。」
「曲がりなりにも夫婦やし、それ相応の呼び方でもええんちゃう。」
期待の籠もった瞳が綾鷹を捕らえる。今は私も”北”なのだから、北様呼びは妻としてどうなんだ、ということ。つまりは、「お前様♡」とか「旦那様♡」とか。本来なら、そう言った風に彼を呼ばなくてはならない。その事については、綾鷹も頭では十分理解できるし、納得もしている。今のうちから慣れておいたほうが、後々楽なことも重々承知だ。しかし、如何せん、矜恃が許さない。愛らしく、いかにも普通の女のように、甘い声で北を呼ぶ己を想像する。鳥肌が立った。
「……迷惑やったやろうか。それとも呆れてしもうたか。」
「えっ、あの、北様っ。」
軽快な雰囲気は一瞬にして鳴りを潜めた。代わりに現れたのは、困ったような笑みだ。
「なんや俺には遠慮してるように見えんねん。」
「決してそのようなことはーー。」
慌てて首を左右に振った。紛れもない本心である。
「……1週間や。仮初でも夫婦になって1週間経つ。……そろそろ、甘えてくれてもええんちゃうか。」
北は窓から見える青々とした木々に向かって、小さくため息をついた。いくら理由があれど、強引であれど、無理やり婚姻を進めたとして、それを申し訳なく思っていたとしても。彼も男である。好いた女と一緒になることに胸が弾まないはずがない。表に出さなくとも、大変嬉しかったのだ。それに、彼の見解では、綾鷹自身も己に対して少なからず好意を抱いてくれていると確信していた。だから期待もしていたのだ。もっと深く、お互いに歩み寄れるのではないか。心を開いてくれるのではないか。夫として、彼女の人生に存在する事ができるのではないだろうか、と。しかし、現実はどうか。対して変わる様子もなく。夫婦らしいことも今一つ叶わない。己だけが無様に舞い上がっているだけではなかろうか。途端に虚しくなる。いっそ、目の前に座る女が、張りぼての人形であったなら。こんなにも心を掻き乱される事などなかったろうに。ぎゅうぎゅうと胸のあたりがキツくて辛い。
「私にはもったいない事ばかりなのです。」
「……。」
「初めての事ばかりで、戸惑うことも多くて。」
深緑を映していた色素の薄い両眼が、今度は綾鷹の姿を鏡のように縁取る。
「よ、呼び方に関しましても、その……ち、近いうちには、きっとーー。」
「あかん。今や。」
突然に訪れた右手の温もりに、最後まで言い切ることはできなかった。ギュッと握られたソレを不覚にも視界に入れてしまう。大きさの違う二つの手は、漆塗りの座卓の上で異様に浮いて見えた。綾鷹を完璧に捉えた男の顔は、真剣以外の何者でもない。ドドドドッ、と心臓が暴れだした。いつ白手袋を外したのか。涼しげなお顔に似合わず、男らしい節の大きな素手の感触。全身の意識が集中した右手は、まるで感度の良い機械か何かになってしまったようで、左手中指と小指にできた剣ダコすらも見つけてしまうほど。ますます鼓動を速める原因になった。
「今すぐ呼んでや……綾鷹。」
ヒュッと息を飲む。ほとんど条件反射だった。引っ込めようとした手を、そうさせまい、と力強く反対側へ引かれる。己の腕が力の入り具合を表すかのようにプルプルと震えていた。勘弁してくれ、と頭は悲鳴をあげる。しかし、綾鷹の意に反するように、北はますます引っ張る力を強めるのだ。微動だにしなかった腕が、ずるずると男の元へと近づいていった。