第七章 仮初
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「こんなところで、何しとんねん。」
ハッと気づいた時にはもう遅かった。真後ろで聞こえた声の主を振り返る。
「北様っ。お、お帰りなさいませ。」
「……おん。ただいま。」
庭の池に片手を突っ込み、ぼけっと座り込む妻を見て、さぞかし不思議に思っただろう。慌てて手を引っ込めると、さりげなく袖口で水気を拭った。
「そんな熱心に覗いたりして、池の中に何かあるんか。」
「いえ、そういうわけではありません。……ただ、あまりにも涼しげな様子でしたので。」
「確かになあ。最近はますます暑なってきて、ほんま堪らんわ。」
そう言うと、同じく屈んで池の中を覗き見る。軒のように伸び、背後から眺めたものだから、自然と綾鷹の体は北の影に収まった。ドキドキと憎らしくも心臓が鳴る。それを知ってか知らずか、深めに被った軍帽を脱ぎ、きっちりと閉じた前襟を目の前で緩める。衣替えしていない紺色の軍服は、熱を持っていた。決して気のせいではない。寝食を共にするようになってから、北はえらく綾鷹の側に寄りたがる。今も隙間が無いほど近い。夫婦という間柄、咎めることもできず。慣れない距離間での触れ合いに悩まされていた。これでは、生きた心地がしない。
「……気に入ったか。」
小さく囁くように言った。独り言ではない。近すぎる顔に覚悟を決めて視線を向けると、まっすぐ射るような瞳が彼女の返事を待っていた。
「……勿論でございます。こんな立派な錦鯉は見た事がございません。」
「そか。……郭にもなかったんか。」
「池はございましたが、中身は何も。酒の入った馬鹿な客が入水することもありましたので、生き物など飼えません。」
「そりゃあそうや。」
あはは、とご機嫌に笑う。相変わらず心臓は激しく拍子を打っていたが、軽快な笑いと共に揺れる背中は綾鷹の微笑みを誘った。
2人並んで玄関まで歩く。家族用の土間で靴を脱ぐと、足元に空気が通った。一気に涼しくなる。北は軍靴(ぐんか)を、綾鷹は軽く引っ掛けた下駄を揃えて脇へよせる。
「こうしてみると、なんや胸の近くがむずむずするわ。」
仲良く揃って置かれた二足。不覚にも家族という単語が思い浮かぶ。
「ははっ。梶、お前の足、えらい小さいなあ。」
「軍靴と下駄を比べないでくださいまし。」
編み上げの靴は隣にある丸い下駄の2・3倍はある。戦場で兵士の体を守る物だから、その見た目もたいそう武骨だ。余談だが、軍靴をひっくり返し、その裏をみると、踵に鋲が数個打たれている。これは靴底の消耗を防ぐためのもので、ほとんどの軍靴に施されていた。そのため、歩くたびにザリザリと金属の擦れる独特の足音がするのだ。
「今日はだいぶ早くお帰りになられたんですね。……まだ八つ時にもなっておりませんのに。」
いくら庭先で時間を潰していたとはいえ、一時間も二時間も気を抜いていたわけじゃない。この男の帰宅が特別に早いのだ。。
「おん。夕餉の支度が始まってからじゃあ遅いな思うて。」
はて。今晩、何か急ぐような予定があっただろうか。そう考えつつ首を傾げた。
「あの、何かお急ぎの用件などございましたでしょうか。」
一足先に奥の間へ歩き出した北へ尋ねる。
「ああ、急ぎっちゃあ急ぎなんやけど……。」
振り向きざま、そう言ってすぐ口を閉じる。言葉を選ぶ素振りを見せ、再び綾鷹へ向き直った。
「梶、出かけるで。」
突然の外出宣言に、綾鷹は過去最速で準備をする。行き先は聞かなかったが、とりあえず外向けの着物に着替えた。汗でヨレた化粧を直し、髪も椿油を使って整える。この屋敷を出るのは1週間ぶりだ。たかが1週間。されど1週間。たった七日程度しか経っていないにもかかわらず、出歩き方を忘れてしまったようで、荷物は何を持てば良いか、格好は変ではないか、ともたついた。一方、北はというと、白の詰襟シャツに鈍色のパンツ姿と非常に簡単な出立で、早々と準備を済ませ、綾鷹をじっと待っている。自分の一言で、あたふたと小動物のように動き回る目の前の女を、この上なく愛らしく思った。そういえば、彼女が粧しこむ様子をみるのは、これが初めてだ。2人で過ごしたことはあれど、その姿はどれも完成した後で。目の前の光景が大変新鮮であった。女性の身支度を嬉々として見るだなんて、紳士の風上にも置けないが、致し方あるまい。なんせ惚れに惚れているのだ。邪な感情を悟られてはいけないと分かってはいるものの、微笑まずにはいられない。
「お、お待たせいたしました。」
少々息は上がっているが、無事、準備し終わった。部屋の隅で一連の様子を見ていた北の所へ向かう。
「ほな、行こか。」
再び玄関へ向かおうと立ち上がる。すると、ピョンっ、と揉み上げから後毛が出ているのに気がついた。せっかく整えた髪が、慌てて駆け寄ってきたことで崩れてしまったのだろう。それを見て、ますます表情を和らげると、優しく耳へかけてやった。
いつの間に呼んだのか。表門から一歩外へ出ると、二人乗りの人力車が一台待っていた。並んでそちらへ乗り込むと、車夫が行き先を尋ねる。
「白鷺亭まで頼む。」
「ええっ。」
思わず隣の顔を仰ぎ見る。それもそのはず。帝都の人間で、その名を知らない者はいない、と言われるほど、そこは有名な料亭である。この間、ヒヨリ達と会った老舗茶屋よりも更に格式高く、下手すれば官僚階級が御用達にしている、なんて噂もあるほど。そんなところに、なんの御用があるというのだ。あらゆる可能性を頭の中で思い浮かべては消し、思い浮かべては消し。とうとう何も思い浮かばず、走り出した車の上で、北の顔を凝視する。
「なんや。そない複雑そうな顔して。」
「なんや、ではございません。白鷺亭など大層な場所に、一体何の御用が。」
鬼気迫る様子で訴える綾鷹に、北はしばらくポカンとしていた。そして、彼女の性分を思い出し、破顔する。
「料亭へ行くんはただ一つやろ。」
今度は綾鷹がぽかんとする。
「夕飯、食いに行くで。」
北の口からサラリと出た言葉に、驚きの声さえもあがらなかった。