第七章 仮初
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と、まあ、ここまでが事のあらましである。そして現在、北に上手い具合に説得され、綾鷹はこの屋敷に留まっていた。ちなみに、飲み屋の大将と女将には一月ほど北様と旅行に行くと言う設定で、治様が話を付けてくださったらしい。初め聞いたときは、いくらなんでも無茶な、と思った。ご夫婦もさすがに不審に思わないだろうか、と心配したのだが、どうやら私の思い違いだったらしい。治様曰く、女将は手を叩いて喜んでいたとか。深い溜息が出る。
とんでもない事実を知った後、何かと抵抗を試みたが、全て跳ね除けられてしまった。と言うよりも、私の悩みは北様の手によって、すでに対策が講じられていたのだ。
「身分については、これで何も問題ない。作法やら踊りやら、その他の事は俺が全部なんとかしたる。」
脳内で北様の台詞を再生する。あんな力強く言われれば、もう手の打ちようがないではないか。
「私の抵抗は、一体なんの意味があったのかしら。」
目の前に広がる自家菜園は、耕したばかりらしく、真新しい土が未だ掘り返されたままである。そういえば、ここに何を植えようか、と北様とアラン様が楽しげに思案していたなあ。慣れないことをするものじゃない、と言っていたのに。案外楽しんでいるようだ。残念ながら、私は畑仕事はおろか、土いじりさえした事がない。物心ついた頃には、すでに郭で姐さんの世話をしていたのだから。一応、この屋敷の女主人は私と言うことになっている。しかし、家庭菜園はアラン様達に全て任せよう。そうだ。それが良い。よし、決めた。
日の傾きから、おおよその時間を計る。お昼時を少し過ぎたあたりで、夏本番を間近に控える今時分は特に暑い。きっちりと纏めた結髪の、剥き出しの白い頸に、日差しが痛いほど突き刺さる。一月契約の婚姻とはいえ、一応、あなたは人妻なのだから、と装いを正すよう指示されたのは数日前のこと。渋々納得し、綾鷹なりに努力している。しかし、変わった所といえば小綺麗に身を整えるようになった程度。長屋で一人暮らしをしていた頃と大差はなかった。正直な話、どこをどういじれば良いのか分からない。化粧などしてみているが、来客があるわけでもないし、かと言って外出も許されていない。一日中、屋敷に閉じこもって、さっきのように針仕事をするのが日常であった。時間を持て余す事がこれほど苦痛であることを、綾鷹はこの短い間で知ったのだ。
「……散策でも致しましょうか。それとも、久しぶりに体でも動かして見ましょうか。」
誤解を招いてはいけないので、一言加えておくが、やる事が全くないわけではない。放棄してしまった裁縫は未だ終わっていないし、もう少しすれば夕食の支度を始めなければならない。今日のように天気が良い日には洗濯をして、無駄に立派なこの屋敷の掃除だって妻の務めだ。さすがに庭仕事は職人任せだが、花の水やりくらいは自分でする。世の奥方達は決して暇ではない。加えて綾鷹の場合、夜には北様に舞踏の稽古と西洋式のお作法を習い、また明日の早起きのため、そそくさと就寝する。見ての通り、探せばいくらでも見つかるのだ。ただ単に、綾鷹のやる気が少々おきないだけ。
蟬の声もいよいよ勢を増し、それそのものが鳴き声であることすら、聞き分けるのが難しくなっていた。今年は猛暑だろうか、と人知れず姿の見えない暑さに、今の内から益々気分が沈む。
ふと顔を上げると、ひらけた場所に出ていた。少し視線を移せば、その端に表門が見える。
「あら、気づかないうちに庭先まで来てしまったわ。」
外出の許可が未だ降りない綾鷹にとって、この辺りは久しぶりに足を運ぶ場所だ。そういえば池があったなあ。あの時は辺りが暗くてよく見えなかったが、今なら近くへも行けよう。家の中も、それはそれは丁寧に修繕されていた。庭もちらりと見たところ綺麗である。ならば、池の状態も期待して良いはず。ひょっとして鯉の一・二匹、泳いでいるかもしれない。柔い芝生に膝をつき、顔を出して覗いてみる。
「……すっかり忘れていたわ。北様って一応、お偉い将校様だったわね。」
白・黒・赤・青・緑・黄・紫。一・二匹だなんてとんでもない。悠々と泳ぐ彼らに、錦の名を与えたのは一体どこの誰だろう。見事なまでの色彩。時折り綾鷹の視界を横切る黄金色の鱗なぞ、一体、幾らするだろうか。
「ざっと私の視界に映るだけでも、適当な家一つ買えそうだわ。」
衝撃というか、心の動揺というか。まあ、知っていた事ではあったのだが、改めて生きる世界が違うのだと。根本的なところを抉られる。
「……お前達は幸せね。こんな素敵なお庭で、素敵な人に愛でられて、一生を終えるのだから。」
チャプチャプと白い指先で水面をかく。餌と勘違いしたのか、数匹が側へ寄ってきた。
「ふふ。私もいっそ、売り物であればよかったのに。……そうすれば、いつかあの人が買ってくれて、ずっとお側に居れる口実ができる。」
華夜叉じゃなくて、普通の遊女だったら。幾度となくそう夢見た。しかし、そう思えば思った数だけ虚しくなるのだ。
お前は誰だ。
記憶の奥底に眠るしゃがれた声が、決まって問いかける。
「私は夜叉。華を守るが五葉。蘭組首席の梶綾鷹。」
心を落ち着かせる、魔法の言葉。私を縛る、呪いの言葉。
心地良い水が徐々に指先から上り、いつしか心の臓を冷たくする。
もう汗はかいていなかった。