第一章 再会
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「なあ、大耳。赤なら否、若葉色なら是ってどう言う意味やと思う。」
北はとうとう堪られず、隣に座る男へ問いかけた。
「なんやそれ。えらい謎掛けみたいやな。誰に聞いたん。」
酒を煽りながら一緒に考えてくれるこの男とは、つい先日、花街へ乗り込んだ仲だ。梶と別れた後、自分なりに考えた。が、答えは出ない。あの話の返事には違いないのだが、如何せん、その意思が疎通される状況が想像出来ないのだ。
「梶に言われた。」
誰やそれ、と訊かれ、あの時の女や、と答えると目を大きく開いて驚かれた。
「お前、尾けとったんとちゃうんか。……まさか、ばれたんか。」
正直に頷く。そしたら、もっと驚かれた。
「はあ、あの女相当やりよるわ。お前がしくじるなんて、考えられへん。」
あの時の事を思い出す。変装は割と自信があった。尾行も初めてじゃなかったし、今までそれなりにこなしてきたからだ。元々派手な顔つきはしていないし、目立つ身体的特徴もない。人混みに紛れ込む時間帯も完璧だった。
「俺も驚いた。別に絶対的な自信があったわけやない。けど逆に、あの短時間で気づかれる要素も同じ様に無かったはずや。」
正直、あの時は動揺していた。つい近くにあった理由を持ってきて誤魔化したが、幾らなんでも無理があっただろう。その証拠に、えらく彼女の機嫌を損ねてしまった。それと引き換えに面白いものが見れたのも事実だが。
「いやあ、お手並み拝見やと思うとったが、敵に回したくない相手やな……。」
そう大耳が呟いて、慌てて話を元に戻す。
「それで、赤か緑かの話やな。ううん、単純に考えて赤なら協力出来ませーん、緑なら手を組みましょ言う事やろ。しかしなあ、向こうの文化か何かやろうか。俺ら帝都に出てきてまだ日が浅いやんか。」
枕詞みたいなもんかなあ……。それならお手上げである。元々、地元で生活していた時も、郭で遊んだことなんかなかった。士官学校を卒業して後も、何かと忙しくして、そう言った関係とは縁がない。ましてや、日ノ本一の遊郭街なんか仕事以外で出入りする事なぞ皆無に近いとさえ思っていた。当然、そう言った男女の遊びから生まれた文化なんて知る由もない。この計画はそもそも他言無用であるし、大耳や黒須大佐が知らなければ、聞くアテがないのだ。
「ううん、ほな、それとなしに嫁に聞いてみよか。」
大耳が悩み抜いた末、そう呟いた。この男、こう見えて結婚している。陸士への編入が決まってすぐ、許婚と一緒になった。
「あいつは元々、帝都の生まれや。俺らが知らんことも、もしかしたら知っとるかもしれへん。」
あまり良い手とは言い難いが、今は謎を解きたくて首を縦に振る以外選択肢がなかった。
翌日、隊舎の廊下を歩いていると、早速、大耳に声をかけられた。
「何か分かったんか。」
その問いに、自分よりも幾分か上にある顔が口籠る様子を見て、ああ、何か収穫が有ったんだなと分かる。しかし、随分話し辛い内容らしい。
「いやあ、分かったことは分かったんやけどな。なんて言ったらええか……。」
ゆっくりでええよ。決して焦らす様な真似はしない。慎重に、確実に、欲しい情報を手に入れるには、此の手が一番の近道だと北は知っている。意を結したように、大耳の顔が何か覚悟を決めた。
「あんな、気を悪くしたらすまん。嫁が言うには……その、今夜はええよ、の意味らしい。」
二人の間に沈黙が流れる。何がええんや。何が。
「いや、だからな、その……あああああっ。もう。どうして俺がこない恥ずかしい話を北にせんとあかんのやっ。」
発狂した。あの赤と緑の話は何やら恥ずかしい事らしい。二十歳を過ぎた大の男が頭を抱え、顔を赤くしてもがく姿を見ながら答えを待つ。
「大耳、落ち着け。ここには俺とお前しか居らん。この件も、明日が過ぎればどうでもええ話や。」
だから話せ。と静かに訴える北に冷静さを取り戻した大耳が、やっとのことで口を開いた。
「つまりな、赤なら今夜は気分やない、緑なら抱かれてやってもええよっちゅう意味合いで、向こうの女達が常連の客に使う一種の意思表示みたいやねん。で、そないこと堂々と口にしてまうと評判に関わるから、そっと下着の色にしたり、窓に括り付けておいたり。」
なるほど、上級の遊女にもなると客を選べるようになる。同時にヤる・ヤらないの自由も認められていたのだ。だが、それを言葉にしてしまうのは憚れると言うもの。彼女達なりの配慮というわけだ。そして、その意味を知っているか、知らないかで客を値踏みしてもいるのだろう。それにしても……。
「なるほど、俺は値踏みされとるんと同じっちゅうわけか。」
好戦的だと思った。梶という女は結構な負けず嫌いらしい。
「さしずめ、俺のやったことへの仕返しやな。」
顎に手を当てて結論に至る。してやられたなと、少々悔しさを覚えるのと同時に、早く彼女に会いたいとも思った。どうやら、知らず知らずのうち、梶綾鷹という人に興味が湧いたらしい。その様子を、不思議そうに見る大耳に礼を言い、仕事に戻った。
戌の刻もそろそろという頃。北は約束通り、街の入り口である大門へ足を運んでいた。先日とはまた違った装いをしている。彼女の指示に従ってこの街を縦に走る大通りを、これから迷いなく歩かなくてはならない。行き先は突き当たりにあるという神社だ。通りの真ん中を闊歩するわけにはいかない故、少し右寄りで進むことにした。朱色に塗られた格子から細く白い手が伸びる。むせ返える様な香と白粉の匂いで少し酔ってしまいそうだ。道ゆく人々は楽しそうに群れて歩いていたり、時には女を侍らせていたり。好みの遊女を探しているのか、真剣な顔で店の中を覗いていたり。禁欲的な生活から開放されて、一時の自由を謳歌しているように見えた。目線を少し下へ向けながら歩いていると、右の袖を何かに掴まれた気がして、手元を見る。
「ねえ兄さん、うちでゆっくりして行きなんしよ。」
例に漏れず、細く白く、朱の世界によく映える手が北を引き留めていた。その蕩けた顔をじっと見つめる。その間も、女は喋り続けた。
「今日は週末でありんすえ。明日は仕事も無いでありんしょうから、上がってくんなまし。もしかして、ここに来るのは初めてでありんすか。それなら、わっちが優しく教えてあげんす。」
そこまで聞いて、その手を離した。
「結構や。もっとええ男に声かけえ。」
少し不満そうな顔をしたが、意外にもすんなり諦めてくれた。ほっと胸を撫で下ろす。こんなところで油を売っている暇はない。現在時刻を大まかに把握するため、空を見上げた。約束の時間を少し過ぎたあたりだろうか。再び前を向いて歩き出す。そして、己の数歩後ろを注意した。
何時からだろうか、尾けられている。
ある程度、その可能性も考えていた。しかしながら、このまま神社へ向かうわけにもいかない。だからと言って、彼女の指示を無視することもできない。現状を抜け出す策が見つからないまま目的地は近づいている。いっそのこと、引き返すか。もしくは、どこか店へ入るか。そう焦りが見え始めたとき、正面へ衝撃が走った。
「すまん、怪我はーー。」
ぶつかってきた女の顔を見る。その襟元を見る。そして後ろを見る。時間にして一息であった。二人して縺れ合うように脇の路地へ飛び込む。
「ん……んん。はあ、ふ……」
できるだけ激しく接吻を交わす。顔を見られないよう、綾鷹を壁に押しつけるようにして立った。角度を変え、舌を入れ、細い腰に両手を添え。時折空気を入れるために唇を離し、またすぐに貪る。置いていかれまいと、綾鷹も両頬を手で引き寄せた。いやらしい水音を聞きながら、その柔らかさを堪能する。表を歩いている時は不快だった香も白粉も、何故か今は全部混ざり合って気持ちが良い。壁に背を預けながら、ずるずると座り込む綾鷹に続いて、北も追うように地面へ膝をつく。後をつけてきた男が離れていくまで、狂ったように続けた。
互いに肩で息をしながら口を離す。銀の細い糸が切れる前に額をくっ付け合った。落ち着くまで頸を撫で、頬を撫で、静かに呼吸を整える。最初に言葉を発したのは綾鷹であった。
「いつから尾けられていたの。」
「分からん。気づいた時には、かなりの距離を歩いとった。」
すまん、助かった。と礼を述べておく。白いシャツの胸ポケットから、これまた二つ折りの白い封筒を取り出し、若葉色の襟元へ刺した。
「男の情報や。その色、助けてくれるんやろ。」
口角を緩く持ち上げて見つめる。そこらへんの女とは違う、しっかりとした瞳に魅せられた。
「……上の意向に従うのが、私たちの仕事です。」
静かに視線を落とす。白い肌に、長くコシのある黒い睫毛が美しい。
「なんや、さっきはえらい砕けた話し方やったのに。もう、戻ってしもうたんか。」
ははは、と軽く笑えるくらいには余裕が出たようで、綾鷹の腕を掴みながら立ち上がった。空いた手で背中の土をはらってやる。
「ええ着物が台無しや。」
誰のせいで、そう聞こえたが触れなかった。あの時とは違い、今度は並んで路地を出る。表へ出た途端、その活気が再び二人を襲った。
「詳しいことは、そこに。物は残したらあかん。用が済んだら燃やしいや。」
周りの男女を真似るように、北へ寄りかかりながら大門へ足を進める。いわゆる、客の見送りを装った一芝居だ。その道中で北から忠告を受けた。素直にこくんとうなずく。それ以外は至って静かに歩いた。
街への出入りを一手に引き受ける、この朱色の門前で綾鷹は足を止めた。彼女が着いていけるのはここまでである。その先へはもう進めない。後を着いてこない彼女に気がついて、北が振り返った。
「……気をつけて、お帰りくんなまし。兄さん。」
ああ、そう囁いて目を細める。今日は週末だ。普通なら明日は休みであるが、上司への報告がある。あの時、北を引き留めた遊女に、俺は休みじゃない、と心の中で呟いた。自然と口元へ手を運んでいたのは、もはや不可抗力である。初夏とはいえ、まだまだ夜は肌寒い。ズボンのポケットへ両手を突っ込み、早足で帰路についた。
一方、北を大門前まで見送った綾鷹も店へ戻っていた。重い着物を脱ぎ捨て、普段着へ戻す。襟元から抜け落ちた封筒を持って、女将の元へと急いだ。その途中、再びヒヨリと出くわす。それと同時に彼女の姿に、少々驚いた。
「店に出たの……。」
おかしそうにする彼女を不審な目で見る。
「ええ。けど客を取る気は無かったわ。ただ、貴方の男をちょっと助けただけよ。」
どういうことだ。ますます不審な目を向けると、やめなさいよ、と呆れられた。
「尾けられていたから、少し時間をあげたの。彼、途中まで全然気づいてなかったから。」
そこまで聞いて合点がいった。あの時の遊女は、彼女であったか。
「……ありがとう、おかげで助かったよ。」
彼が優秀であることに変わりはない。だが、きっと若いのだ。これから多くを経験していく上で、感や技術は磨かれる。しかし、今回は私たちの方が上手であった。そのことに気分が晴れていく。今夜は少しよく寝れそうだと思って思い留まった。その変化に気づいたヒヨリが不思議そうに声をかける。
「どうしたの、急に。気まずそうな顔しちゃって。」
「いや、何でもないよ。それより、今から女将のところへ用があるから。」
そう一言断って、その場を後にした。
訂正しよう、今夜も眠れそうに無い。鮮やかに蘇る、あの生々しい感触をどうにか外へ追いやって、女将の部屋の障子を開けた。