第七章 仮初
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「痛っ。」
ちくり、と指先に感じた痛みに集中が切れる。布下から手を出し、太陽の下へかざして見ると、ツヤっと光る小さな血玉が。キラキラと輝くそれは、今生きている実感を不意に綾鷹へ与えた。
「……風が気持ちいいこと。」
綾鷹は家の縁から足を下ろし、自家菜園を眺めながらそう呟く。贅沢にも平和すぎる。思わずいつもの癖でため息が漏れた。
「お帰りになるのは夕方ごろのはず。……今の内にある程度片して置きたかったのだけれど。やはり、慣れないことはするものじゃないわね。」
ほつれた部屋着を脇にやって立ち上がる。ぐっと大きく背伸びをして、徐に歩き出した。
この屋敷へ移って早1週間が経つ。半分、拉致の様な形でやってきたのだが、その辺は多めに見よう。彼らのおかげで今の暮らしがあるのだから。丁度、引越しを考えていた頃でもあったし、色々と都合が良かった。それに、会いたい人にも会えたのだから。初めてこの屋敷へやってきた日の事を思い出す。
求めていた温もりが、ふと遠ざかる。かと思えばそっと肩口へ誘われ、もたれかかる様な体勢で落ち着いた。無言で頭を撫でられる。心地の良いそれは、現実逃避に丁度良い。
「梶。大使が来るのに、もう時間があらへん。」
「確か、水無月の頃でしたね。」
「そや。後、一月あるかないか。……俺なりに色々と考えた。」
桜の宿での話。綾鷹自ら力になりたい、と名乗り出たものの、北はそれを渋った。北が姿を消したのは、それからしばらくして直ぐのこと。どうやら、その間に色々と対策を練っていた様だ。
「本当なら、もっと早くに会えるはずやった。気になることもあったし、何より、俺の精神が保たへんからなあ。」
「北様の精神……。」
キョトリ、と不思議そうに顔をあげる。それを見て北は苦笑した。
「俺も人の子や。禁断症状の一つや二つあっても可笑しないやろ。」
言の意を理解して、ポッと赤くなる。久しぶりに感じるふわふわとした居心地に、堪らず顔を背けた。クスクスと笑われた気配がしたが、それすら咎める余裕がない。
「可愛いなあ。ほんまに、可愛い。」
「やめてくださいませ。この歳にもなってそんなっ。」
「別にええやろ。年の功言うんは所詮、言い訳や。可愛いもんは、幾つになっても変わらんやろ。俺にとって、梶は可愛い以外の何者でもない。」
一月以上の時を経て、真っ向から食らう北様節。やっと耐性ができてきたと思っていたが、どうやらまだまだ甘かったらしい。攻略の糸口を再び見失った事が悔しいのか、それとも懐かしいやり取りが出来て嬉しいのか。全くもって訳がわからない。意気消沈とは、まさにこの事。
1人勝手に落ち込んだり、恥ずかしがったりと忙しい綾鷹を、これまた北は微笑ましく眺めていた。肩に縫いつけた女が百面相をしている間も、頭を撫でる手は止まらない。それすらも気づかない様子に、人知れず一種の満足感を得る。
「お、お戯れが過ぎる気がいたします。」
「そないなことはあれへん。」
己の言葉一つで右に左にと翻弄される。可愛いと言った事に嘘偽りはこれっぽっちも含まれていなかった。自分でも笑ってしまうほどハッキリと否定する。綾鷹はそれ以上、何も言う事はなかった。
「そんな可愛い梶に、一つお願いがあんねん。」
「何でしょう。」
「……一月の間だけでかまへん。俺と……夫婦のふりをしてほしいんや。」
ふう、と一息ついたのち、綾鷹の目を見て北が言う。優しい瞳は変わらないものの、そこに幸福感などは無く。代わりに、仕事へ向ける真撃な眼差しと、一種の緊張感が窺えた。ピンと張った空気に、綾鷹は瞬時に気が付く。瞬く間に甘い雰囲気など消え去り、事の詳細を聞き出すべく姿勢を正した。
「説明を求めます。」
嗚呼、と北は密かに残念がった。居場所をなくした右手が宙に残る。なんと切り替えの早いことか。いや、綾鷹の性格を知っていれば当然なのだろう。昔から”優秀”だったのだから。もしも彼女が自分の部下だったなら、きっと褒めていたに違いない。しかし生憎なことに、目の前の女は部下でも友でもなく、己が愛してやまない人だ。ようやく手繰り寄せた甘美な時間はあまりにも短い。自ら仕向けたはずなのに、堪らなく名残惜しかった。
「……大使の暗殺を企てとる輩の話。前にしたのを覚えとるやろか。」
「勿論でございます。忘れるはずがございません。」
「上出来や。黒幕が黒幕なだけに、現行犯逮捕以外認められん。」
公家が相手となると、裁判なんて機能しない。いくら証拠を揃えたって、踏みつけられて、チリカスの様に捨てられるのがオチだ。一将校、一軍隊の力なんぞ所詮はこんなもの。
「そこでや。どうやら奴さん等、大使をもてなす宴会の席で勝ち鬨をあげるつもりらしい。」
この度のみならず、外国からの来賓があった場合、どの国でも必ず歓迎の宴を開く。その多くが西洋式のダンスパーティーで、普段では屋敷の奥で大人しくしている令嬢達も、ドレスを着て夜会を楽しむのだとか。
「好機は一度きりや。」
「その夜会で取り押さえなければ、全てが水の泡なのですね。」
無言で頷く。そこでふと、話の本題を思い出した。
「ん。では、その夜会と今回の偽装結婚。一体、どの様にして繋がるのでしょうか。」
すると北は少々決まりが悪そうな顔をする。しばらく思案するように目をふせ、再び綾鷹に視線を戻した。
「パーティーには必ずパートナーが同伴せなあかん。」
「ぱーとなー。……あの、北様。大変失礼ですが、その”ぱーとなー”とは如何様な意味でしょうか。」
「通常、二人一組になる時の相方のことを英語でパートナーと言う。夜会の場合やと、ダンスを踊る相手だったり、隣に居ってもらう人のことやったり。一般的には恋人や配偶者を連れてくる事が多い。」
「……つ、つまり。」
「……梶には俺の妻として相方を務めてほしいと思うとる。」
それは転じて、彼女が社交界の場に赴かなければならないと言うこと。北の妻として露出することを意味していた。思わず苦虫を噛んだように表情が歪む。なぜなら梶綾鷹は”華夜叉”であるからだ。過去に使用人に化け、目標に近づいたことはあれど、己を晒すなんてとんでもない。ましてや人妻など以ての外である。顔を知られてしまう事は、人を殺めることよりも抵抗があった。そして何よりーー。
「私では役不足です。」
「そないな事はないやろう。」
「いいえ。私にはその場にふさわしい作法など、西洋の踊りなど、齧ったことすらございません。それに、妻と名乗るには、私では話にならない。調べられてしまっては終わりでございます。」
戸籍のない綾鷹にとって、結婚など到底無理な話だ。愛人ならまだしも、正しい過程を踏んで妻として同席するには、身分証明が必要不可欠。少し考えれば簡単に予想がついた。
「妻として同席しなくとも、私なら簡単に潜り込む事ができます。」
綾鷹は必死に妥協策を講じる。焦るその姿とは裏腹に、北は至って冷静であった。
「梶。」
「でしたら、館の使用人などを装って機会を伺うこともできます。」
「梶。」
「それでも不安でしたら、せめて妻などではなく従者の1人としてーー」
「梶っ。」
一際大きく声をあげる。びくりと肩を震わせ、今一度北を見た。
「北様……。」
ギラギラと熱を秘めた瞳。怒っているとわかると、途端に全身の力が抜け、立ち上がりかけた膝がペタリと地面に降りた。
「梶、いい加減にせえ。往生際が悪いで。」
図星であるが故に、綾鷹は黙る。
「極秘のこの件には、黒須閣下を長に俺が信頼する部下数人が担当する。その中で夜会に参加できるのは、正六位以上の位階からや。つまり、少佐の俺と少将の閣下。この二人のみ。閣下に夫人はおらん。それは上流階級の間で既に周知されとる。それに比べて、俺はまだ上の連中に顔が知れてない。言うてること、分かるな。」
物分かりが良いことも、こんな時には厄介でしかない。黒を白に変えるのは骨が折れるが、白を黒に染めるのは簡単だと言うこと。現行犯で捕えると言う事は、少なからず、その場で殺傷沙汰になると言う事。大使を守りつつ、容疑者達を押さえる事ができる実力が求められる事。そんな条件を満たす人物、それも女性で。探したところで、そうそう見つかるまい。自身がいかに適任であるかを、綾鷹は十二分に理解していた。しかし、どうしても許せない。彼の隣に立つのは、私ではいけないからだ。これ以上、夢を見てはならない。じゃないと、その先を求めてしまう。
「……対策は充分にとってある。」
「対策。一体、どんな。」
「……梶は明日から、黒須閣下の養女になる手筈や。」
「……。えッ。養女っ。私が黒須殿の。そんな勝手なっ。」
「黙って準備を進めたんは謝る。せやけど、ほんまに時間があれへん。身分について、俺は全く気にしてへん。せやけど、表に出るのなら話は別や。梶を守れへんくなってまう。」
思ったよりも事が進んでいる。初めて耳にする事実に、綾鷹は開いた口が塞がらなくなっていた。
「これは黒須閣下のご好意や。……前もって話はつけてある言うてたけど、何も聞いとらんのか。」
その言葉で数日前の夜を思い出した。
「近々、迎えがくるやろ。……準備しいや。」
いやいやいやいやっ。それだけじゃあ分かりませんってっ。どこをどう受け取ればそうなるんでしょうか。予知能力やら読心術やら、人ならざる力が無い限り無理な話ですよっ。
「……身に覚えがございません。」
「そか。……そやったらビックリするなあ。」
頭を抱えそうになりながら、やっとのことで返事をした。