第七章 仮初
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武家屋敷だ。
静かに大男2人に挟まれながら真っ直ぐ玄関へと続く小道を歩く。その途中、視線だけで大まかな間取りを捉えて気がついた。武家屋敷は武家屋敷でも、元々は中・下級武士の屋敷のようで、ご立派にも右手に薄ら池が見える。建てられて大分時間が経っているようだが、庭にはきちんと砂利がまかれ、丁寧に整備されていた。なるほど、ここが所謂”新居”のようだ。随分と準備が良い。
「足元に気いつけや。ここ、段差になっとる。」
「ありがとうございます。」
通されたのは来客用の玄関で、ランタンを地面に近づけて知らせてくれた。アランの気遣いに素直に礼を述べる。土間で三人仲良く履き物を脱ぎ、板張りの床に上がる。武家屋敷に決められた間取りはないものの、どこも似たような部屋の作りをしているのが特徴だ。外向けの玄関から招き入れたと言うことは、私は客人。屋敷の主人は表座敷で待っているのだろう。
再びアランと侑の間に挟まれ、まず「次の間」と呼ばれる畳の部屋へ通された。
「……イ草の良い香りですこと。」
「せやろ。張り替えたばっかりや。」
自慢げに話す男の背中を見つつ、無意識に深呼吸する。真新しい新緑の香りが胸いっぱいに広がった。この屋敷へ足を踏み入れてから常に思うことは、本当によく手が入れられていると言うこと。柱や床板は古く軋みさえすれど、壁や障子、畳などは新品に取り替えられていた。この控えの間も足袋ごしに感じるつるりとした感触に、思わず感心する。
「感謝しいや。あんたを迎え入れるために、俺らがどんだけ苦労したか……。」
今までずっと黙りを決め込んでいた侑が久しぶりに口を開いた。
「なして俺らがこないことせなあかんねん。」
「こらこら侑。もう終わったことや。今更ぐちぐち言うなや。」
「……これらは全て、侑様達が準備して下さったのですか。」
「せやで。全く、肉体労働には自信があってんけど、慣れないことをする言うんはそれだけで苦労したわ。なあ、侑。」
驚き桃の木山椒の木。なんと、屋敷の改装を手掛けたのは彼らだったのだ。もしかすると、全ての部屋を整えてくれたのだろうか。中・下級武士の屋敷といえども、それなりに部屋の数も広さもあろうに。一体、どうしてここまでしてくれたのか。そう考えていると、頭上から声が掛かった。
「さ、ここや。中に入ってくれ。」
ここでアランが体を横にずらす。目の前から障害物がなくなり、初めて視界が広くなった。目の前に続くのはこの家で一番広い座敷。主賓をもてなすための室の奥には、明かりがぼんやりと灯っている。
「連れてきたで。」
部屋の中へと声をかけ、今まで綾鷹を隠していた2人が一歩後ろへ下がった。それを合図に、奥から懐かしい声が聞こえてくる。
「ご苦労やった。もう下がってええで。」
無言で一つ頷くと、ポンッと肩を押される。視線だけで辿ると、侑が顎をしゃくった。
「俺らは近くで控えとる。……あの人に変なことしてみ。すぐに叩っ斬ってやるからな。」
「……心得ております。」
もう一度顔を前へ向け、今度こそ広間へ一歩、歩み出た。
「久しぶりやな。梶。……元気にしとったか。」
一歩、また一歩と近づくにつれて、だんだんと姿が見えてくる。オイルランプを畳の上へ直接置き、その近くに胡座をかいて座る人物へ返事をした。
「何も変わりなく。……北様は少しお痩せになりましたか。」
「そうやろか。……なんや、自分じゃあ気付かへんなあ。」
一月半。恋人でも夫婦でもない私たちにとって、その時間はとりわけ長い訳でもなく、決して短い訳でもなかった。だがしかし、今、一つ言えることは、この瞬間が堪らなく嬉しいと言うこと。少なくとも、綾鷹は人知れず待ち望んでいたのだ。
「色々と急でビックリしたやろ。」
「全くです。北様は一体、部下にどんな教育をされていらっしゃるのか。」
「ははは。そりゃすまんかった。あいつらには後で強く言っとくわ。」
その言葉に、侑の不満そうな顔が容易に想像できる。北につられて、綾鷹も初めて笑顔を見せた。
着流姿の北と相対する形で腰を下ろす。綾鷹が座ったことで、真ん中にあるランプの火が微かに揺れる。2人とも長い睫毛を伏せ、しばらくそれを眺めていた。
「ありがとうなあ。……ここまで何も言わずについてきてくれて。」
口元に微笑みをたたえて北が礼を言う。綾鷹は何も言わず、じっと次の言葉を待った。
「アランからは何て。」
「……嫁いでもらう、と。それだけでございます。」
絶句する。それに次いで、少々不安げに綾鷹を見た。
「それだけで、ここまで来たんか。……なんや、少しおもろないなあ。相手が俺やなかったらどないすんねん。」
「ふふふ、よく仰いますこと。」
光源が近い分、顔にかかる影が濃い。いつもなら気づかない微かな表情の変化も、今なら顕著にわかる。それが何だか怖くて、綾鷹は北を直視できないでいた。
ピッタリと閉められた障子の向こうには、これまた綺麗に手入れされた庭が眺めることだろう。しかし、今夜は生憎楽しめそうになく、サワサワと木の葉が囁く音のみ。本当に聞きたいのは、こんな音じゃない。想い始めると、言葉が濁流の様に体の中を流れる。
何が一体どうなっているのでしょう。
嫁いでもらうって、どう言うこと。
今まで、どこで、何をなさっていたのです。
どうして突然、見えなくなってしまったの。
一言相談があっても良かったではありませんか。
それよりも、お元気そうで何より。
無事でよかった。
あなたの声が、もっと聞きたい。
一呼吸置き、意を決して深く閉じた目蓋を開く。渇望した姿がそこにはあった。
「……お会いしとうございました。」
涙こそ出ない。目の前の女が、そんな姿を晒すはずもなく。しかし、なぜだろうか。北には愛しい人が泣いている様に見えたのだ。一つ強く鼓動が打つ。そこから先は考える余裕すらなく、長く離れていた身を引き寄せた。