第七章 仮初
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それは予備動作も助走もなく、突然であった。
「……まるで容赦がございませんこと。」
「仕方あらへんやろ。文句言うなや。」
人生で初めて乗った馬車なる物は、それはそれは最悪な乗り心地であった。ガタゴト、ギシギシと鳴る車体もそうだが、向き合って座る男にも原因がある。
今日もいつもと変わらない。至って平和な一日だった。最後のお客を見送り、店仕舞いをして、1人で帰宅する。夜だと言うのに蒸し暑く、ちょっとでも動けば汗が吹き出す。そんな帰り道を虫の音だけが貴重な涼を運んでくれた。それも気休め程度でしかないのだが。粋人のように、この季節を楽しめる豊かさがあれば良かった。生憎、そんな余裕、綾鷹は持ち合わせていない。一刻も早く我が住処へと戻りたいところ。自然と足取りも早くなる。
あともう少し。雨の日も風の日も、雪の降る寂しい夜も変わることなく、独り佇むガス灯を目にして、僅かに安堵する。ここを目印に小道へ入れば我が家はすぐだ。足の速さを少々緩め、古びた鍵を荷物の中から取り出すと、躊躇なく解錠する。そして、唖然と立ち尽くした。
「遅いっ。」
そう不満そうに言い放った男は、無遠慮にも寝台へ腰掛け、偉そうに腕を組みながら綾鷹と対峙する。その隣にはかなり申し訳なさそうな顔をして、アランが立っていた。
「こない時間まで仕事やったんか。お疲れさんやなあ。……そして、ほんまにすまん。」
抱えていた荷物を落とさなかっただけ褒めてほしい。いや、それよりもまず、早急に状況の説明を要求するのがここは正しい判断か。
「おい。何突っ立っとんねん。」
「こらっ、侑。お前は何様や。」
戸を開けたままピクリとも動かない女に対して、侑は益々不機嫌に声を荒げる。すかさずアランが咎めるが、本人はどこ吹く風だ。
「梶さん、ほんまに堪忍なあ。理由はあとできちんと説明したるから、そのお、一先ず中に入ってくれへんかな。」
そう言われて、ハッと我に返った。慌てて周りを見渡し、戸を閉める。気のせいだろうか。最近、招かざる客が多い。しかも、簡単に侵入されている始末。あまりの頻度に、そろそろ引っ越しを検討するべきだろうか、と一瞬脳裏をかすめた。怒る元気はもう無い。ピタリと締め切ったことで、暗闇が部屋を支配する。定位置にあるオイルランプに灯りを灯すと、再び2人の姿が浮かび上がった。
「……言いたいことは山程ございますが、とりあえずお尋ねいたしましょう。……何用でございますか。」
「ハッ。なしてお前に教えなあかんねん。」
「侑……。お前はもうええから黙っときい。」
まさに無秩序。天を仰ぎみるアランが哀れだ。
「詳しく話したいんは山々なんやけど、今は時間が無いねん。梶さん、悪いけど今すぐ荷物をまとめて欲しい。」
全くもて理解できない用件に、綾鷹は小首を傾げた。
「あんたには、嫁いでもらう。」
そして冒頭へと話が戻るのだ。あの後、訳もわからず荷造りをし、あれよあれよ言う間に手配された馬車へと乗せられた。御者はアランが引き受け、車内には侑が同乗する。ここまで約一時間とちょっと。おそらくだが、世界一、早い嫁入りではないだろうか。
「で、私をどこへ連れて行くおつもりですか。」
「着いたら分かる。」
なんと無愛想な顔だこと。これで少しでも不細工なら、思わず一発くらいは殴っていただろうに。
「では、私はどなたの妻になるのですか。」
「……。」
「それも、”着いたら分かる”のでしょうか。」
「……そや。」
ため息が出た。そもそも、こんな奇天烈な状況において、なぜ私は落ち着いていられるのか。誰もが疑問に思うであろう。結論を言えば、華夜叉で培った度胸と、振り回されっぱなしなアラン身を案じて、とでも答えよう。今の所、命が危険曝されることは無い。ならば事の成り行きを見て、身の振り方を考えても問題は無いはずだ。
侑に何を尋ねてもロクな答えは返ってこなかった。なぜだがヘソを曲げているようで、綾鷹はこれ以上の会話を諦める。馬車の中は灯り一つ無く、ただただ悪い道を走っている様子だけが窺えた。本来なら窓から車窓なるものが見えるはずなのだが、残念ながら、黒い布で覆われ、何処を走っているのか分からないようになっている。それが暗に、今から向かう場所が秘されなければならい、と示していた。
体感にして二時間ほど。馬が蹄を数回踏み鳴らす音がして、目的地に到着したのだと知る。前方からアランが飛び降り、馬車の扉を開けてくれた。
「着いたで。お疲れさん。」
「ありがとうございます。」
備え付けてある簡易式の階段を降ろし、片手を添えながら綾鷹の下車を手伝う。いつだったか、お客の誰かが西洋の文化について話していた。女性優先(レディーファースト)とか言う馬鹿げたモノがあるとか無いとか言っていたが、これは良いモノだ。少なくとも、侑とか言う餓鬼のせいで荒んだ心が、スーッと穏やかになる。完全に両足が地面へ着くと、続いて侑が順番に降り、出した階段を畳んで片付けた。改めて前を見る。
「ここは……。」
「詳しい場所は言えへんけど、帝都から少し離れた場所や。」
目の前にあるのは一軒家。しかも、それなりの大きさで、立派にも庭がついている。
「さ、中に入ろか。あいつを待たせたらアカンからな。」
アランが前を向きながらそう言うと、綾鷹を前後に挟むようにして三人は門を潜った。