第六章 始動
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どのくらい時が止まっていたのか。なんと言葉にして良いかわからない。そんな空気が二人の間には存在していた。それぞれが互いの動きを牽制しつつも、頭の中では別のことを考えている。
「懐かしいなあ……。」
突然の呟きに綾鷹は小首を傾げた。
「これは軍人の性なんやろうか……あんたらを見てるとな、なんや懐かしい気がして堪らんねん。もどかしいともちゃうし、こう、遠い昔に捨ててしまった何かを拾いに行きたなるような、そんな気持ちになんねん。」
脈略の読めない話に、綾鷹はさらに戸惑った。そんな彼女を他所に、黒須はひと呼吸おいて語りだす。
「ずっとずっと、追いかけとった女がおってな。そいつとはえらい出会い方をしてしもうて。一生忘れられへんやろな、と諦めとんねん。」
「それは……。」
「はは。今となっちゃ、それが青い春っちゅうヤツやったんやと。」
乾いた声で笑う。自傷気味に聞こえてならない口調に、自ずと話の結末が明るいものでないとわかった。
「……けど、良い思い出やった、と片付けるには重くて。だからと言うて、大切に閉まっとくにはちんけで。どうしようもないねん。」
分かるような、分からないような。近いような、遠いような。根拠のないふわふわとした既視感が、ブワリと綾鷹を包み込む。
「それは、一体どなたの話でしょうか。」
既視感にのまれてしまった綾鷹は、そう尋ねなければならない、と思った。
「……嬢ちゃんも、よう知っとるお人やで。」
少々、意地の悪い顔をして答えた。私が知っている人。一体、誰の事を言っているのか。眉根を寄せて記憶の棚を漁る。目の前の男について、綾鷹が知っていることはわずかである。少なくとも、直接顔を合わせたのは、今夜を合わせてたったの二回だけだ。彼の年齢や職歴、そして数少ない選択肢を取捨選択し、一つの可能性へとたどりついた。
「妓楼の女将。」
黒須は何も言わなかった。真相は判断がつかない。しかし、そう考えると色々とあの頃に思った疑問たちが、次々と消えて無くなるのだ。太い客でもないのに、一足飛びに楼主と面会が出来たのも。軍という権力を隠そうともせず、堂々とあの街へ入れたのも。極め付けは、二人の勝手知ったる口調も。何もかもが上手くいく。
「俺もな、何も人の心が無いわけやない。特に北を始め、あいつらの世代は何かと関わりがあんねん。仕事に私情は要らん。けど、あいつらを預かっちゅう身としては、できることはしてやりたいと思うねん。」
「……失礼ながら、黒須殿。ご家庭はお持ちでしょうか。」
「いいや。独り身やで。……なんか、俺はあいつらの親にでもなってしもたんやろか。」
歳を取ったもんや。まいった表情で再び丸椅子へと腰を下ろした。
「嬢ちゃん……。北はええ男やで。」
会う人会う人。皆、別人だが、口を揃えてそう言う。そんなことは綾鷹が一等よく知っていた。
「ええ。十分に存じております。」
「……そか。」
ただ、黒須が他の奴らと違ったのは、そこから先のセリフを言わなかったことだった。
この部屋に唯一ある小窓から、空を見る。外は未だ暗い。夜が明けるまで案外時間がある事に素直に驚いた。黒須は本当に感謝の言葉を残して部屋を出て行った。だがしかし、外界と繋がる戸口に手をかけた時。一言、綾鷹へ伝言を残す。
「近々、迎えがくるやろ。……準備しいや。」
数人の気配が通りに消えていくのを確認する。そして、何度目か分からない謎解きを目の前に、ようやく水の入った湯飲みに手を伸ばした。
「……全く。準備の良いことだ。」
チャプリと揺れる水面に顔を近づけると、微かに甘い匂いが鼻腔を刺激する。常人なら気づかないだろう。実際、綾鷹も”今”気付いたのだから。
当人の意思に反して、夢へと誘うその甘美な飲み物を、綾鷹は再び受け入れた。