第六章 始動
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「邪魔するで。」
その一言だけで、全て救われる。手を伸ばすなと言う方が無体だ。
ハッと一際大きく息を吸い、勢いよく体を起こした。バクバクと痛いほど鳴る心臓を無意識のうちに鷲掴む。久しぶりに夢を見ていたのだと気づいたのは、暫くしてからだった。北の顔をさっぱり見なくなって、もう一月半になる。だからだろうか。夢にまで見るほど、心は彼を欲していたい。
水を飲むべく、彼が買ってくれた食台の上へ手を伸ばす。しかし次の瞬間、湯飲みを掴む前に綾鷹は寝台から飛び退いた。
「誰だっ。」
食台を挟んだその向こう側。暗闇に溶け込むようにして腰掛ける男が一人。カッと両眼を開いて、その人物を見極める。全身の血が瞬く間に沸騰し伝播した。
「いやいや。起こしてしもうて堪忍なあ。」
毛を逆立て、怒った猫のように殺気を飛ばす綾鷹を目の前に、男はのっそりと立ち上がる。身の丈からして170ちょっと。北よりも少し小さいか同じくらい。体格はさほど大きくないが、その落ち着いた声色とドッシリとした貫禄から、齢の頃を予想する。一体何者か。いや、それ以前に、いつから此処にいるのか。なぜ、侵入に気がつかなかったのか。めまぐるしく綾鷹の脳内を駆けた。
「まあ、そうカッカせんといてや。何も、あんたを襲うつもりは毛頭ないねん。」
まあ、楽にしいや。そう言いながらコツコツと靴を鳴らしてこちらへ近づく。楽にしろ、だなんて無理な話。至って自分は正しい反応を示している。寝台のすぐ側までやって来て、ようやく男の顔が見えるようになった。
「あんたは……。」
「ん。流石は鬼や。嬢ちゃんと会うたのは4年も前やのに、よお思い出したなあ。」
軍帽をとると、キレイに撫でつけた前髪と額が露わになる。私はこの男を知っている。
「やっぱり、女性の部屋に勝手に入るゆうんは、あまり気持の良えことやないなあ。嬢ちゃんもえらい驚きはったやろ。本当に堪忍な。」
「ならば、時間を選んで戸を叩けば良いだろう。何が目的だ……黒須殿。」
ニヤリと口角が上がる。未だに構えを解こうとしない彼女の手には、使い古された短刀が握られていた。一層穏やかに口を開く。軍服に所狭しと並んだ勲章の数々が、彼の動きに合わせてチャリチャリと音を立てる。綾鷹は夜目を使い、彼の官位を知った。
「……お偉いさん自らがいらっしゃるなんて、ただ事ではありませんでしょうに。ろくにお付きの者も近くにつけず。」
「まあな。積もる話があんねん。あいつらに聞かれんのも、どうかと思うてな。」
そう言いながら、脱いだ軍帽を食台へ置き、帯刀を解くと、同じようにそこへ乗せた。腰の脇にあった挙銃もそそくさと外してしまう。武装を解いていく様子を、綾鷹は不思議そうに見ていた。
大方、体から武器を取り去り、黒須は再び彼女に顔を向ける。そして軽く両手を上げ、敵意がないことを示した。
「今日は礼をしに来たんや。」
「礼……。」
「せや。……どう言う形で嬢ちゃんの耳に入っとるかは知らんが、北から何か聞いてるやろ。」
なるほど。彼のその一言で、頭の中の相関図が完成されていく。今まで、点と点だったモノが確かなる直線で結ばれていった。
「北様は、あなたの指示で動いておいでなのですね。」
「……その様子やと、ほとんど知っとるみたいやな。」
そう言葉にした後、黒須は黙る。自ずと静粛が訪れた。今夜は雲ひとつ無い。身を隠すには都合が悪いと思っていただけに、まさか来客があるとは考えもしなかった。まあ、今となっては、あっちが不都合なら、こっちにとっても不都合であっただけなのだが。
お互いに見つめ合い、いや、綾鷹が一方的に睨んでいるのだが。双方の視線が交わって、しばらくなる。遠くで犬の吠えた声が聞こえた気がした。それが合図になったのかは知らない。黒須が再び口を開いたのは、その遠吠えを聴き終えた後であった。
「北がな、渋っとるんよ。嬢ちゃんに力添えを頼むんのを。」
「ええ……存じております。」
「して、嬢ちゃんから良え返事してくれはったんやってなあ。」
言わずもながら、北様の依頼を二つ返事で承諾した事を言っているのだろう。肝心の北様は言葉を濁していたのだが。
「ホンマにおおきになあ。嬢ちゃんの事や。色々考えて答えを出してくれたんやろ。」
ふっとシワの寄った目元が柔らかく弧を描く。それを見て初めて、綾鷹は構えを解いた。短刀の鞘を枕下から抜き取り、黙って刃を元へ戻す。居住まいを正すと、乱れていた襟元を整えた。
「……何か勘違いをされておりませぬか。」
「勘違いやて。」
「そうです。……私は私のために北様の話を利用したにすぎません。」
「……そうは思えへんがな。」
「いいえ。黒須殿は私を買いかぶり過ぎです。……所詮は私も人の子。報酬に目が眩んだに他なりません。」
勿論、嘘である。戸籍に魅力などこれっぽっちも感じていない。己のために北への協力を申しでたのは、強ち外れたことではないが、それ以上に北への好意がそうさせたのだ。成功率を上げる為、わざわざかつての同僚と接触を図ったのも、少々強引な手で仲間へと引き込んだのも。全ては一つの想いのせい。しかし、この場でその感情を認めてはならない。なぜなら、綾鷹自身が北の弱点となってしまうからだ。目の前の男を、かつての北様の上司と見るのは、いささか不安が伴った。自分が彼の足枷になってはならない。それは誰も望んではいないのだから。
黒須はジッと目の前の女を見ていた。見れば見るほど、美しいものだ。初めて相対した時も、えらく印象に残っているが、年月が経った今、衰えるどころか時間の経過がさらに彼女をイイ女にしていた。仕事人間の北がまさか、と最初は驚いたが、今は納得以外しようがない。強ければ強い者ほど、この女に惚れてしまう。捕まえて、手懐けて、己の膝上で可愛がってやりたいと夢に思う。彼等の関係を思わず、かつての自分と重ねてしまう。黒須は重いため息を吐いた。
「それでもや。……これでも、酷い事をしてる自覚はあんねんで。」
チラリ、と人の心が頭を見せる。呼吸する微かな音が耳に飛び込むほど、あたりは静かだった。