第六章 始動
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「玉露のお茶なんて、何年ぶりかしら。」
この部屋の誰かが呟いたか。ふうふう、ゆらゆら、と白く絹のような湯気が吐息で漂う。その虚無を自然と見つめていた。あの頃は常に口にしていたものだ。客をもてなすのが仕事だった街は、今もなお深く深く我々の心に根を下ろしている。幼いながらにして、一級品の茶を飲み慣れてしまうというのも、どうなんだと思うのだが。それしか知らなかったのだ。しばらく四人で懐かしい味を堪能する。
「……お話はある程度ヒヨリさんから聞いています。」
そう初めに口を開いたのは紅緒であった。今日まで、日本各地を飛び回り商売をしてきた、と以前に聞いた事を思い出す。
「そう。それは好都合だ。説明の手間が省けて良い。」
湯飲みから顔を上げず、上目気味に本人を見つめる。しかし、その声色は至って冷ややかだった。
「此度の話、私にとっては願ってもない機会です。」
「と言うと。」
「ぜひ、ご一緒させていただきたい。」
再び沈黙が流れる。その間、春日とヒヨリは茶漬けに手を伸ばしていた。
「……戸籍か。」
ある種の確信を持って紅緒に尋ねる。彼女は躊躇う様子もなく素直に頷いた。そこから切実さが読み取れる。大方、行商をする中で、必要性を強く感じたと言うところか。
「商いを舐めていたわけではありません。しかし、それが有るのと無いのとでは大きく違う事を実感しています。」
「下手をすれば、あの頃へ逆戻りだ。この件にはコレ(戸籍)以上に目ぼしい魅力は無い。……それでも良いと言うのか。」
此処へきて初めて紅緒は目を伏せた。その様子から、この話が割りに合わず、予測を超えた危険性を孕んでいる現実を、彼女の中の天秤にかけているのが分かる。結論を急かすわけにはいかない。しかし、そのもどかしい胸の内が、知らず知らずのうちに指先へと伝わる。綾鷹の湯飲みを掴む手に、微かな力が宿った。
「……綾鷹さんは、どうしてこの話をお受けになったの。」
今まで静寂を守ってきた春日が口を開く。今度は綾鷹の目が伏せった。
「……お助けしたいと、思える方ができた。」
ヒヨリは既に北の存在を知っている。しかし、4年ぶりに顔を合わせた二人は初耳だったようで、驚きを隠す素振りも見せなかった。
「あなや。これは一体……。五葉の中でも、とりわけ色恋沙汰とは無縁だったあなたが。どう言う風の吹き回しでしょう。」
まるで天変地異を目の当たりにしたかのような。そんな言い方。我が身が一体どんな風に見られていたのか。全く知らなかったわけではない。しかし、こうも露骨に驚かれてしまうと、なんだか居心地が悪くなる。ヒヨリに打ち明けた時もそれなりに負傷したが、今回もそれ相当の痛手だ。
「ふふふ、驚きよねえ。あの綾鷹様が、助けたい人だなんて言うんだもの。」
相当上機嫌なヒヨリがニタニタ顔を隠そうともせず茶茶を入れる。もう何も言うまい。
「それは……どなたかお聞きしても。」
「いや、ーー「軍人さんよ。ぐ・ん・じ・ん・さ・んっ。それも中々の上玉よお。」
この女っ。人の言葉を遮った上に、誰の許可を得てぺちゃくちゃと話しているのか。今回の茶会と言い。前回の彼女の振る舞いといい。色々と言い淀んでいた鬱憤が爆発する。いよいよ我慢の限界だった。
「イタタタッ。痛いっ痛いっ。」
ほとんど無意識のうちである。気づけば彼女の背後から腕を回し、正座で天井を向く足裏を思いっきり抓っていた。突然襲った痛みに、半分涙目になりながら飛び上がる。
「ちょっとっ。突然何するのよ。」
「人の話を自分の事のように勝手にするな。」
ブスッと頬いっぱいに空気を含ませ、ハリセンボンのように不満を訴える。しかし、ちっとも怖くない。何を言われようと、この場は全て彼女が悪いのだ。冷めた目で何やら文句を言う目の前の女を見ていたが、容赦のない綾鷹には何の効果もなかった。
「綾鷹のケチっ。分からずやっ。」
「何がケチだ。お前がガバガバのゆるゆるなだけだろう。」
「あれくらい話したって良いじゃない。悪い事なんか一言も言ってないわ。むしろ喜ばしい事よ。」
そうでしょう。と黙って事の成り行きを見守っていた春日と紅緒に向かって、同意を求める。ズイっと勢いよく身を乗り出したものだから、二人とも仰け反ってしまった。どう答えたら良いものか、と両者、互いに目を向ける。
「よ、喜ばしい以前に、とても驚いてしまって……。」
「ええ、どう言葉を返したら良いか。」
こうなる事は考えずとも分かっていた。だから触れて欲しくなかったのだ。それをこの女はぺちゃくちゃと……。知らないうちに溜息が出る。
「私のことはもう良いだろう。それより、力を貸してくれるのか、くれないのか。……答えてもらおう。」
やっと本題に戻れる。再び腰を落ち着かせ背筋を伸ばすと、目の前に座る二人を見据える。一瞬にして空気がピンと張り詰め、緊張が部屋を充満した。先ほどまでふざけていたヒヨリでさえ、心臓を鷲掴みにされたと錯覚する。
「ははは……流石ですね。衰えを知らないと言うか、何と言うか。」
否、これは錯覚などではなく、本当に縛られているのだ。
「時間は有限だ。」
そう言葉にして、綾鷹は春日の方を向く。彼女からはまだ返事を聞いていない。どう答えようか。考えあぐねいている様子が手にとるように分かった。綾鷹の培った経験が、これは断り方を探しているのだと警鐘を鳴らす。スッと目元を細め、口を開いた。
「そういえば、お前は私に返すものがあるんじゃないか。」
ピクリと春日の眉が動く。綾鷹が言った”返すモノ”を記憶を遡って考えている証拠だ。
「お前を華夜叉に、とお隠れに話をつけたのが誰だったか。忘れたわけじゃあるまい。」
ゴクリと唾を飲み込む。手のひらに汗がジンワリと滲むのが分かった。何が言いたいのか。此処にいる全員が一瞬にして話の先を確信する。
「本当なら、足抜けを企てた男と共に消えていたはずなんだがなあ。」
お前が此処にいるのは、一体誰のおかげだと思っているのか。言外にしてそう圧力をかけた。一度クッと口角を引き締める。しかし、すぐ力が抜けてしまった。はあ、と大きく肩を落とし、今まで黙っていた口を開く。
「いやはや……お二人には、色々とお世話になりましたからねえ。本当に、何度、命を救って頂いた事か。」
「それでは、やってくれるのか。」
「ははは、そんな力強く見つめられては、断ろうにも断れませんよ。」
降参です。そう付け加えて両手を耳の高さまであげた彼女は、困った顔をしながらも、しっかりと芯の通った瞳をしていた。先ほどから深刻な顔をしていた紅緒も、決意をしたように顔をあげる。これで協力者は二人。いや、三人か。
「お前も、はっきりとは言わないが隣にいてくれるのだろう。」
うふふ、と嫋やかに笑うヒヨリに話しかける。忘れてはならない。彼女からもまた、協力の承諾を得ていないのだ。だがしかし、綾鷹の顔には笑みが浮かぶ。
「あら、当たり前じゃない。あなたがヤルと言って、私が断るわけがないわ。……それに、こんな面白い事。見す見す見逃したりしないわよ。」
「そう言うと思った。」
今、この瞬間。乙女達は再びあの時へ戻る事を決意した。