第六章 始動
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パチパチと火鉢の中で音を立てる炭に、今し方手にしていた薄い半紙をくべる。上質でもないそれは、ボワッと勢いよく燃え上がり、黒々とした煙を少しだけ吐いて消えた。
夜久が退店した後、やはりお客は1人も来ず。淡々と店仕舞いをして綾鷹は帰宅した。今、彼女は自宅にてヒヨリからの文を読み終わったところだ。情報を残す事は自殺行為に等しい。そう教え込まれたが故に、部屋には手紙など一枚も存在しない。此度の文も例に漏れず、内容を確認して早々、灰にした。習慣というものは突然変えることなど出来やしないのだ。例え中身が……
女子会がしたい、というちんけな内容であったとしても。
「……とりあえず、一発殴っておこうか。」
初夏も過ぎた太陽が、影ひとつ残さぬ勢いで照りつけるお昼時。藤色の番傘の女は聞き取れないほど小さく呟きながら歩みを進めていた。顔は傘で隠れ、外から見る事はできない。しかし肩下から覗く上品な着物と凛とした立ち姿だけで、この女が稀に見る面の持ち主であると誰もが確信していた。すれ違い様にふわりと香る、これまた品のいい匂いに振り返らない人はいない。まさかそんなお人が、殴るだのと物騒な事をぶつぶつ呟いているとは想像もしないであろう。化粧なぞ、久方ぶりという言葉でさえ忘れそうになるほどに久しく施した、。紅をひき、パリッと張りのある着物に袖を通し、髪も丁寧に結い上げる。タラタラと汗が滴る茹だるような暑さの中、綾鷹がこうも着飾って出かけなければならない訳は、これから向かう場所に答えがあった。
「クソ女、一体どういうつもりであの店を選んだんだ。」
今は帝都駅と真逆の方向へ歩いている。かつて大遊郭のあった跡地を過ぎ、その先にある立派なお社の前を横切ると大きな橋が見えた。そこを渡りきるとガラリと街の雰囲気が変わる。この辺りにある店は、所謂、高級店だ。何代も続く老舗の呉服屋から、天下の将軍家がご贔屓にした甘味処。最近流行のハイカラ屋まで。下々の者には縁もゆかりもない世界が広がっている。そう言えば北様が下さった紅茶の茶葉も、この近くに店を出していたはず。改めて思い出すと、えらい物を頂いたのだと鳥肌がたった。
ここは昔から旗本の家が立ち並ぶ区域である。四民が実質的に撤廃され、侍などとうに消えたのだが、名残は深い。その証拠に周りを見渡すと、ツンとすまし顔の、いかにも武家の御婦人方がこれ見よがしに上モノを身につけ優雅に歩いているではないか。道の両脇に佇む家々は、競い合う様に重厚な門を構えている。幕府が解体されたあと、職にあぶれ、お家は火の車だろうに。ちっとも生活を切り詰める様子が窺えない。その姿が過去の栄華に縋り付いている様に見え、綾鷹は思わず顔を顰めた。見栄ばかりが一人歩きする町。こんなとこ、頼まれたって住みたくもない。
ひたすら黙々と歩き続けると、目的の場所が見えてきた。店先には看板も暖簾も出していない。しかし、どこからか甘い香りが仄かに漂う。飲み屋「呑んだくれ」とは比べ物にならないほど洒落た戸を引くと、期待通りの店内が広がっていた。
「お待ちしておりました。『藤野様』でいらっしゃいますね。」
「ええ。」
給仕服を着た男が腰を深くおって出迎える。宿屋のような作りのこの店は、知る人ぞ知る高級和菓子店だ。
「お連れ様がお待ちです。お席までご案内いたします。」
「そうして頂戴。」
傘を折り畳み、優雅に笑って見せた。男の口元が微かに震えたのを見て、一先ず上手く紛れ込めているとほっとする。体の横に下ろした手に、ぐっと力をこめ、殴る準備を密かにする程度の余裕はある様だ。
案内役の後ろを静かに着いて歩く。遊郭で生活をしていた頃、太い客がお気に入りの女宛によくこの店の菓子を贈っていたものだ。まあ、その多くが本人の口に入る事はない。お付きの禿か、もしくは同じ店の少女たちに分け与えるのが常だ。勿論、そうしてやると彼女たちが喜んでくれるから、というのもあるのだが、稀に変なものを紛れ込ませてくる奴も居るもので。いわゆる毒味をさせられるのだ。この店には悪いが、あまりいい思い出はない。しかし、それさえ抜きで話をしてしまえば、非の打ちどころがないほど甘味は美味い。文句の付け所など一つもなかった。名前すら表に出さずとも、お客が入る。いずれ大将の店もこんな風にーー。
「こちらでございます。」
「っそう。……どうもありがとう。」
無意識のうち物思いにふけっていたらしい。気づけば到着していた。障子で区切られた向こう側には、全ての元凶がいる。最後に労いの意味を込めて、案内役の男へと微笑みかけた。
「でっ、ではこれで。」
本日、二度目の追撃にとうとう頬を赤くして去ってしまった。勘違いをしなければ良いが……。とボンヤリ考えつつ、慌てた様子の男の背中を見送る。え、ひどい女ですって。そんなこと知ったこっちゃない。誰かが「魔性や」と言っていた気がするが、私には関係のない話。
さて、気を取り直して。ピタリと隙間なく閉ざされた戸を、音も立てずに引いた。ふわりと香る玉露の匂いに乗って焼き菓子の甘さが鼻を掠める。
「……久しぶりじゃない。『藤野様』。」
「そちらもお変わりない様で。『月島殿』。それとーー。」
座敷に足を踏み入れた途端、ヒヨリがニヤニヤ顔で話しかける。内心、ブワッと苛つきが加速したが、今はまだ表に出すわけにはいかなかった。なぜなら、彼女の隣に腰掛ける人物への挨拶が未だ済んでいない。視線を横に動かすと、僅かばかりピリッとした緊張感が肌を刺激した。
「お久しぶりです、『藤野様』。息災でいらっしゃいましたか。」
「久方ぶりです。再びお会いできて嬉しい限りです。」
「『紅羽(くれは)』、『柚月(ゆずき)』も。元気そうで何よりです。」
紅羽と呼ばれた女は綾鷹よりも幾つか年下に見え、柚木と呼ばれた女はヒヨリと同じ年齢だろうか。ひとまず、彼女たちの態度から、この場所で最も尊ぶべき相手が綾鷹であることがお分かりいただけるだろう。軽く会釈をし、再び表を上げる頃には、一つだけ不自然に空けられた席へ綾鷹は腰を落ち着かせていた。
一部屋丸々、座敷にしてしまうあたり、さすが名の知れた店だ。今いる部屋は畳の広がる和室仕様だが、どうやら一部屋一部屋、その様式も置かれている家具も違うらしい。廊下を移動しながら通り過ぎていく戸を横目で観察していて気がついた。まるで己がどこに居るのか分からなくなってしまう。そんな不安が胸をよぎったのは私だけだろうか。
「さて、みんな揃ったところで乾杯といきましょうか。」
「おい。ここは酒の席じゃないぞ。……さてはお前、昨夜飲んだな。」
張り詰めた空気もヒヨリの一言で、一瞬にして飛散する。まあ、もう華夜叉でもないのだ。今日も本当に、ただただ女子会をしたかっただけなのも嘘ではない。しかし、この面子を前にしてそんな悠長にもしていられないというもの。
「……それで、なぜ茶になど誘ったのか。」
「あら。そんなこと決まっているじゃない。春日(かすが)と紅緒(べにお)に会いたかったのは他でもないあなたでしょう。」
そう。この場にいるのは紛れもなく元華夜叉の一員。それも、各部隊の第蟲(四)席と第五席という実力者だ。そして、わざわざ若奥様のふりをし、高級店で何の変哲もない茶会の場を装ってまでここに足を運んだのも、すべて、協力者を得るためであった。
「それにしたって、わざわざココにする必要などなかっただろうに。そこら辺の茶屋なら、こんな面倒臭い準備をせずとも良かったものを。」
「良いじゃないの。たまにはこういう刺激も必要だわ。それに……一度、来てみたかったのよねえ。」
大方、最後のが本音だろう。ため息など隠す気も起きなかった。目の前に座る2人も苦笑を隠せない。
「綾鷹さん。そう怒らないでくださいませ。ほら、手間をかけただけ良いこともありますから。」
不機嫌全開の綾鷹を慰めたのは、短髪が似合う色白の女だった。巷で流行のモガ(モダンガール)である。
「春日。お前は何にも思わんのか。急に呼び出されたかと思えば、「女子会しましょう」と言われ、指定された場所が知る人ぞ知る名店。したくもない化粧をし、反吐が出るような格好で道を歩かねばならん。」
言い終わるや否や、チッ、と一つ舌を打つ。春日と呼ばれた女は眉をはの字に下げ、困ったように左隣の女と顔を見合わせた。
「しかし、この席を設けなければ、我々は二度と会うことなどなかったように思います。これも、何かのご縁かと。」
「紅緒、お前もか。」
どうやらこの場に、綾鷹を味方してくれる奴はいないらしい。ふふふん、と得意げにすますヒヨリを今一度睨んだ。
「ほらほら、2人もそう言ってくれてるんだから。いつまでもヘソを曲げないで頂戴。それに、女同士の話をするなら丁度良いでしょう。此処は。」
ぐるりと目線だけで部屋を見回す。出入口となる障子が取り付けられている面以外、この部屋は漆喰の壁で覆われていた。日本家屋によく使用される漆喰は、その表面に細かな穴が開いているため、通気性に優れている。そのため、湿気多いこの国では重宝された。それと同時に、音(すなわち空気の振動)を吸収する性質も併せ持っている。それ故、漆喰で作られた壁は天然の防音壁となり、自ずとその部屋も天然の防音室と化すのだ。どうしてこの店か。どうしてこの部屋か。ヒヨリが言わんとしていることは、普通でないが為に言葉にしなくとも分かってしまう。ふわふわと頼りなく見えても、侮ってはならない。さりげなく設けられたこの場所が、計算の上に成り立っているこ事を嫌でも思い知らされる。
「それに、此処はお武家の奥方達のお気に入り。まさか、こんな場所で集まろうなんて、誰も想像しませんでしょう。」
確かに。誰がどこで聞き耳を立てているか分からない。念には念を。
「……わかった。感謝しよう。」
そう口にして、綾鷹は初めて肩の力を抜いた。