第六章 始動
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やられた、と思った。まさか旦那を遣わすだなんて。想像すらしなかったからである。目の前に腰掛ける男、改め、夜久衛輔殿は何くわぬ顔で大将の料理を堪能していた。
「いや、やっぱり美味い。前回食った茶漬けもよかったけど、この海鮮丼も堪らん。」
ホカホカと湯気の立つ炊きたての白米に、すし酢の甘酸っぱい香りが仄かにする。丼を持ち上げ顔へ近づけると、より一層食欲をかき立てた。主役である盛られた赤身もプリッと身引き締まっている。磯の独特な臭みも無い。まるで、ほんの少し前まで泳いでいたと錯覚するほど新鮮だった。こんな料理を出されては、夢中になるなという方が無茶である。うまい、うまい。と相槌を打ちながら食べ続ける夜久の姿を見て、綾鷹はふと考えた。小柄と言えどもやはり男性で、豪快で漢らしい食べ方は見ていて気持ちがいい。治様とはまた違った快感がある。またまた女将が好みそうなお客だ。刹那、ほっこりとしてしまいそうになったが、すぐさま気を引き締めた。まだ気を緩めてはならない。綾鷹の心中は穏やかではなかった。理由は数十分前に遡る。
「紹介が遅れました。俺、夜久衛輔と言います。……ヒヨリは俺の妻です。」
差し出された文をやっとのことで受け取った。何とか動揺は隠せたものの、二の句が告げない。
「ヒヨリに親友がいると聞いた時は驚きました。何せ、あいつとはロクな出会い方をしていないもんで。」
ちゃんと妻の遣いが果たせたことで気が緩んだのか、夜久は満足そうに口元を緩めた。
「そう……ですか。私も正直驚きました。まさか、こんなところでご縁が繋がるとは。」
真っ赤な嘘である。ヒヨリとは数週間前にジックリ一晩かけて話をしたし、あるところまで旦那の事も聞いていた。容姿を尋ね損ねたのは失態だったが……今更悔やんでも致し方あるまい。
「随分長い間、連絡が取れなかったと言っていたので。相当嬉しかったようです。何せ、俺に文まで頼むんですから。こんな事、今まで一度もありませんでした。」
「左様でございましたか。それはお手数をおかけしてしまったようで、申し訳ありません。」
「いやいや、気にしないでください。ほら、さっきも言ったでしょう。俺は俺でこの店に用があったんです。……そう言えばお名前をまだ聞いていなかった。妻は”友”としか言っていなかったので。」
お通しとして出された黄色い沢庵をポリポリと噛みながら、夜久は上機嫌に尋ねる。
「梶綾鷹と申します。ヒヨリとは幼い頃から一緒でした。」
「綾鷹さんか。うん、覚えた。俺の事は自由に呼んでくれ。」
彼の為人がだんだんと見えてきた。さしずめ夫婦似たもの同士と言ったところか。ヒヨリと同じく社交的な性格で、あまり気負ったことが好きではないようだ。普段、第一印象が冷たく受け取られがちな綾鷹にも、名前を教え合った瞬間から砕けた喋り方へと変わった。
「ありがとうございます。では、夜久殿と。」
「”殿”なんて硬い硬い。どうせなら、呼び捨てにしてもらっても構わないさ。アイツの大切な人なら、俺も仲良くしたいし。それに同い年ぐらいだとも聞いている。」
片眉を上げながら無言で迫る。さあ、呼んでみろ、と。理由は様々あるが、あまり深い関係にはなりたく無い、と言うのが本音だ。しかし、ここで意地を張っては面倒な展開になる予感がする。こういう性格の人間は特に。まあ、腐っても”友”のご主人だ。面子を潰すわけにもいくまい。
「…では夜久様でーー。」
「硬いっ。」
「……で、では、夜久さん、でいかがでしょう。」
ううん、と暫く思案した後、まあいいか、とお許しが出た。これから先、彼を呼ぶ際は「夜久さん」と言わなければならないらしい。もしくは、ソレ以上の親しみを込めて。願わくば、このあたりで勘弁して欲しいところだ。
綾鷹の胸の内で一悶着あった後、大将の料理が運ばれ冒頭に戻る。
「ところで、ヒヨリとは一体どこで。真面な出会いではなかった、とおっしゃっておりましたが……。」
まるで汁を吸うかのように海鮮丼を口へとかき込んでいた夜久は、綾鷹からの問いに手を止めた。
「ああ、そうだな……。」
その日を思い出すような仕草を見せながら、継ぎ足した茶を啜る。食べるのにひと段落した頃合いで彼は話し出した。
「アイツから聞いているかもしれないが、俺、薬師なんだ。ここの通りを駅へ向かって歩くと川が流れているだろ。そこの大橋を渡って反対岸へ行くと、ここら辺程じゃないが栄えた場所がある。その一角に店を構えてる。」
その川とは正しく、北と花見をした場所に違いない。予想外にここから遠くない距離に内心驚いた。そして、少々気まずくなる。灯台下暗しとはまさにこのことか、と。
「確か、三年ちょっと前だったかな。真夜中に隣の爺さんが起こしに来て、怪我人がいるから見てくれないか、ってね。で、その怪我人があいつだったってオチだ。」
三年前と言えば、丁度、花街が焼失した時期と重なる。あの日、私とヒヨリは不幸か幸いか、別件で動いていたため顔を合わせていない。彼女との連絡はそこで途絶えていた。当時の事は今でも明瞭に思い出すことができる。元々朱い風景がさらに赤く、脅威をもって輝き、全てを飲み込んだ。燃え盛る街並みを唖然とした表情で眺めるしかできない。無力で無意味な私も一緒に、一つの画として強烈に記憶されている。
「ひどい火傷でさ。ひと目見て堅気の人間じゃないと分かった。」
「……面倒だとは思わなかったのですか。」
そう尋ね、しまったと口元を覆う。今の一言で気分を害してしまったか、と心配になったからだ。恐る恐る夜久を見る。怒っているかと思ったが、意外にもその表情は大らかであった。
「いいや、ちっとも。ソレよりも俺じゃあ力不足だってのが悔しかったかな。俺は医者じゃないから。外科的処置は期待できない。」
怒るどころか、悔しがる様子さえうかがえる。不思議な光景を目の当たりにしていた。
「……夜久さんは、ヒヨリの正体をご存知で。」
「いいや、よく知らない。アイツがどこで生まれて、どこで育って、どうしてあんな怪我を負ったのか。今も昔も。……けど、困ったことなんか一度もなかったさ。だから一緒になったんだ。」
理解できるようで、できない話。おそらく、こんな男はそうそういない。珍獣中の珍獣。厄介極まりないが、同時に、こんな男に捕まったヒヨリを羨ましくも思う。ああ、今日は不思議なことばかりだ。結婚なんて憧れるもんじゃない、と思っていたのに。ましてや出産・育児などありえない。
「……綾鷹さんはアイツと長いのか。」
「ええ、まあ。それなりに。」
「はははっ、何だよそれ。」
1人、得体の知れない感情に沈んでいると、今度は夜久がポツリポツリと話し始めた。
「ずっと気になってたんだ。……俺と一緒になって以来、ヒヨリはあまり外出しない事に気づいた。もしかしたら、友と呼べる人もいなくて、寂しい思いをしてるんじゃないだろうかってね。……けど、安心したよ。あんたがいてくれて。」
「それはそれは……左様でございましたか。」
チクリ、と胸の内が痛む。綾鷹の表情は切なそうに歪み、無意識のうちに襟元へ手を添えていた。
さて、一瞬、2人の間で哀愁漂う雰囲気になったが、ここで読者の皆様に一つ残念なお知らせがある。誤解を招いてはたまらないので、きちんと説明しておかねばなるまい。
今、梶綾鷹という女は、罪悪感に押しつぶされそうになっていた。なぜなら、こんなにも一途に友の身を案じてくれる殿方を目の前にして、真実を口にできないジレンマを抱えているからである。言いたい。言ってやりたい。いっそのこと、ついこの間、彼の奥方と話た内容を、今この場で全てぶちまけてしまいたい。
ーー俺と一緒になって以来、ヒヨリはあまり外出しない事に気づいた。
いえいえ、夜久さん、違います。アイツは夜な夜な抜け出しては、酒を飲み歩いておりました。おそらく、お得意の飲み屋など何件もございましょう。
ーー友と呼べる人もいなくて、寂しい思いをしてるんじゃないだろうかって。
いえいえ、夜久さん、これも違いますとも。アイツの元には月一でやってくる、元華夜叉の同僚がいますし。何なら、私の方が友好関係皆無につき可哀そ……いえいえ、苦労したものです。
そんなコト、口が裂けても言えるはずもなく。綾鷹は全身全霊で隠し通す事にした。幸にして、夜久はそんな綾鷹の心中を知る様子もなく、穏やかに腰掛けている。
「これから妻が世話になる。どうかよろしく頼むな。」
「勿論でございます。私の方も宜しく、と彼女にお伝え下さい。」
「ああ、確かに伝えよう。」
終わり良ければ全て良し。そんなやりとりを最後に綾鷹は厨房へと下がる。その後、夜久は女将の用意したそこそこ強めの焼酎を数回あおり、店を出た。帰り際、夜久は大将と女将に向かって「ごちそうさま」と飛切り爽やかな笑顔を向けたのだが、無論、女将は問題なく落ちたのである。
彼女の惚れっぽさには光源氏もとうとう敵いますまい。