第六章 始動
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足音でその人が分かるだなんて、浪漫だわ。
と頬を赤く染めたのは、どこの誰だったか。幼いながらに、くだらないと思った。なぜなら、そんな能力は華夜叉の訓練を受けていれば当たり前のことで。寧ろ、それができなければ身を守ることさえ難しいというのに。大人になって思えば、それだけその子には自由があり、夢があり、そして未来があったのだ、と無意識のうちに感じ取っていたのだと分かった。アレは単なる八つ当たりでしかなかったのだ。今、欲しい足音はどんなに耳をすませたところで、やっては来ないのだから。
北が店に現れなくなって、あっという間に一月近くが過ぎた。その間、気が向いた頃に治がやってきて、飯を食い、その流れで綾鷹を家まで送る。相変わらず、その飄々としている風貌に慣れる様子はない。常に彼とは一定の距離を保つよう心掛けていた。しかし、決してこの男が悪い人というわけではなく。時折、職場で見かけた北の様子を話しに来てくれるあたり、彼なりの気の使い方なのだろうと独り納得する。
「何だか、寂しいわ。」
今日は平日だ。元々、そこまで集客力のないこの店は、閑古鳥の巣と化していた。いや、今までが特別で、これが普通なのだ。女将の小さな呟きでさえ聞こえてしまうほど、店内は静かだった。
「……そうですね。」
どう言葉を返しても、虚し気に聞こえてしまう。その理由は、客が居なくて寂しいのではなく、北様に会えないのが寂しいから。わざわざ説明を加えなくとも、皆が分かっていた。
「治様も、今夜はいらっしゃらないのね。」
「その様ですね。」
北様も治様も「毎日来る」とは約束していない。再び沈黙が訪れる。二人揃って吐いたため息が重なったのは、もはや偶然ではなさそうだ。
「何だか、絵巻物を見ている様だわ。」
「絵巻物……ですか。」
「そうよ。まるで、一途に恋人の訪れを待つ深窓の姫君の気分。……さしずめ、小野小町か源氏物語の六条御息所ってとこかしら。」
頬に手を当て、辛そうに眉間へシワを寄せつつ、綾鷹を見つめながら興奮気味に話す女将に、当の本人は適当な返事以外返すことができなかった。まあ、小野小町は百歩譲って良いとしよう。六条御息所は光源氏への愛が行き過ぎたあまり、最終的に生霊となって彼の女性達を呪い殺していく。果たして女将のソレは、そこまで考えての発言であったのか。それならば直ちに、誤解を正しておかなければ。私の名誉のために。
ゴホンゴホン、とわざとらしく咳払いをして、女将に真相を確かめようとした丁度その時。やっと本日一人目の客が店の暖簾をくぐって現れた。
「いらっしゃいませ。」
二人揃って出入り口を見る。そこに立っていたのは、男性にしては少々小柄で、全体的に淡い印象を受ける人物であった。しかし、目元を見ると意外にも凛々しく、猫目がちなところが神秘的だ。その瑞々しい眼差しから、まだこの男が若いのだと気づくのに、少々時間を有した。
「お一人ですか。」
「ええ。」
ではこちらへ、と女将が勧めたのは、入口すぐ右にある4人掛けの席であった。この時間である。これ以上、客が増えることも無いと判断したのだろう。1人で使うには多少広々としている席へ案内された事に、男は疑問に思う様子もなく従った。その中でも一番奥へと腰掛け、帽子を脱ぐと机の上へ置く。一通り、その様子を綾鷹は厨房で茶を用意しながら見ていた。隣で早速料理の用意に取り掛かる大将や女将の反応からして、馴染みの客ではないらしい。その証拠に、すっかり夏ですねえ、なんて在り来たりな話声が聞こえてきた。
「少し遅めの時間ですが、構わないでしょうか。」
「ええ、ええ。大丈夫ですとも。今夜は特に暑いので、客足もゆっくりでして。大歓迎でございます。」
微笑ましいやりとりだ。どうやら男は、来店の時間が遅いことを気にしていたらしく、女将の歓迎の言葉にホッと胸を撫で下ろしていた。
「それはよかった。早速ですが、酒を一杯いただけますか。」
今日は平日。それも週末明けてすぐ。北様の習慣に慣れてしまったからか、週明けに酒を嗜んでも大丈夫だろうか、と考えてしまった。どうやら女将も似た様な感覚になったらしく、少し驚いた様子である。
「かしこまりました。でもよろしいんですか。明日も平日ですが……。」
数秒、男は黙り女将の顔を見ていた。そして、彼女の言わんとしていることを理解したのだろう。合点のいった表情で笑う。
「……ああ、ご心配なく。明日は久しぶりにゆっくりできるんです。ですから、どうせなら少し強めのモノを頂けると嬉しい。」
どうもありがとう、と客は言葉を続ける。とんでもございませんっ、と女将が慌てて詫びを入れながら厨房へと飛んで帰ってきた。他人の予定を勝手に決めつけるのは良くない。しかし、ついつい、いつもの癖というのは出てきてしまうものだ。もし気前の悪い客なら、何だこいつ、くらいの事は言われていたかもしれない。しかし、彼はそう言ったお人ではないようで、むしろ、親しみやすく礼までしてくれた。人柄の良さが滲み出る。世の中では、彼の様な殿方を紳士と言うのだろう。
そうこうしているうちに茶が沸いた。1人用の湯飲みへ程々に注ぎ入れ、急須と共に盆へ乗せて運ぶ。広くはない店内だから、すぐ目当ての席へ着き、コトリと湯飲みを差し出した。
「どうぞ。お料理の用意ができるまでお待ちください。」
「ありがとう。……うん、美味い。丁度良い渋さだ。やっぱり当たりだったな。」
ズズズ、と控えめに一口茶を啜った後、男は感想を述べた。いつもなら、ありがとうございます、と適当に返事をして、厨房へと戻るはずである。しかし、男のふとした発言が気になり、動けなくなった。
「当たり、でございますか。」
「え……、ああ、これは失敬。独り言のつもりだったんですが、漏れていましたか。」
恥ずかしそうに頭の裏をかく。短く整えられた髪は手の動きに合わせて、少々乱れてしまった。
「いやね、実は数週間前にもこの店に来たことがあって。妻と久しぶりに出かけたはイイものの、公休日だったんで、開いてる店を探すのに苦労したんです。」
綾鷹は目の前の男に耳を傾けつつ、どこかで聞き覚えのある話だと記憶を巡らせた。
「お腹と背中がくっつきそうなくらい腹が減っているところに、この店を見つけて駆け込んだんです。そしたら、その時に食った茶漬けが最高に美味かったもんで。今日の仕事が終わったら、もう一度食いに行こうと思っていたんです。」
嬉しそうに話す姿は、疑いもなく彼が善人であると示していた。
「俺、こう見えて舌には自信があるんです。職業柄。滅多に料理で感動する事は無いんですけど、あの時は本当に動揺してしまいまして。けど、もしかしたら究極に腹が減っていたからかなあ、とも。」
「それで確かめに、もう一度ウチへいらしたんですね。」
確信を持って綾鷹が話の続きを先取りする。本日二度目になる頭を恥ずかしそうに掻きながら、面目ない、と笑った。
「これは貴方が淹れたのか。」
「ええ。お口にあった様子でよかったです。」
「うん。美味いよ。渋みも程々で、茶葉の持つ甘味もきちんと出ている。香りも良い。丁寧に淹れてくれたことが良くわかるよ。やっぱり、俺の舌は正しかった。それに、コレを用意してくれたのが、貴方みたいな麗しい人だと言うのだから、文句の付け所が無い。」
何だろうか、この感じ。既視感。恥ずかし気もなく、息をするかの如く褒めまくる。まるで北様みたいなお人だ。しかし、不思議と気まずくはない。冷静に俯瞰して、彼の言葉を受け入れている自分がいる。きっと同じセリフをあの人に言われたら、爆発して消えてしまいそうなほど赤くなってしまうだろうに。嫌でも彼人が己にとって特別なんだと認識した。
「恐縮でございます。」
営業用の笑みを貼り付け、落ち着いた声色で返した。
「そうそう、実はここへ来た理由はソレだけじゃないんだ。」
突然、何かを思い出したようで。男は懐を探りだす。どこへやったか、とブツブツと言いながら左袖から出てきたのは白い紙だ。折り畳み方からして文に見える。預かり物のようで、スッとその文を綾鷹へと差し出した。
「これを妻から頼まれていたんです。」
「……奥様、ですか。」
「ええ。どうやらアイツは貴方のことを知っているようだ。」
ここまで言われて、ハッとする。つい数週間前に会った女の事を思い出した。
「紹介が遅れました。俺、夜久衛輔と言います。……ヒヨリは俺の妻です。」
まるで雷に打たれたような、そんな気分になった。