第六章 始動
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明け方近くになってヒヨリは帰った。何だか最近、似たようなことがあったような、と無意識に考え込む。
「……嗚呼そうか、前は北様が。」
と思い出した頃、どこからか雄鶏が夜明けを告げる。客人をもてなすにしては素朴すぎる茶を片づけ、いそいそと寝る支度を始めた。忘れ難い再会から始まり、夢か実か分からない計画を話した後、彼女は何食わぬ顔でこの部屋を出た。動揺を顔に出さない姿は、さすが元華夜叉だけはである。内心、不安や緊張、その他複雑な感情の諸々をどう収めようか考えているはずだ。それでいい。そう仕向けたのは私なのだから。仲間は一人でも多い方が上手くいく。
「ふふ……我ながら酷い女。」
話を聞いたヒヨリがどう動くかなんて、目に見えているというのに。綾鷹よりも余程慈悲深い彼女のことである。間を開けずして春日と紅緒に接触を図るはずだ。そして、必ずあの二人は事の真意を確かめに私を訪ねに来る。あとはその日を待てば良い。
「……別に悪いことじゃない。あの頃に比べれば清すぎるくらいよ。」
そう自分に言い聞かせる。あの頃よりはマシ。まだ同情の余地がある。けど、なぜだろうか。胸の辺りがやけに締め付けられる。
「ご立派に罪悪感なんて感じちゃて……私も少しは可愛くなれたのかしら。」
普通の女のようにーー。吐き捨てるように呟いた。寝床を整え、乱れた着物のシワを伸ばし、寝巻きへと着替える。今夜も仕事だ。少しでも眠っておかなければ、店の営業に支障をきたすわけにはいかない。明かりを消すため、燃料が切れそうなランプのハンドルに手を伸ばした。その瞬間、北の顔が脳裏をかすめる。
もう、これっきりにしよう。
しっかりと明かりを消す。意外にも睡魔はすぐにやって来た。
治が借りた傘を返しに来たのは、それから三日後のこと。それも私服で現れたものだから、最初はどこの殿方だろうか、と気づかなかった。生意気少尉と双子なだけあって、無駄に様になる立ち姿に、女将が声にならない悲鳴を上げるのも無理はない。
「今日はいつもと違うお姿なんですね。」
「ん、ああ。そういえばそうやね。」
北様にもアラン様にも無い、独特の空気が治様にはある。お顔立ちがはっきりとしている割に、口調は緩やかで、いつも気の抜けたような返事が特徴であった。いい意味で凪。悪く言えば未知。綾鷹が知る北の取り巻きの中で、今のところ治が一番掴みどころがなく、解らない人物である。しかし、あの中では最も軍人らしい人だとも思っていた。
聞く話によると、銃の扱いが得意だとか。まだ士官になって日も浅いが、その腕前は古参の兵士からも一目置かれていると言う。以前、北様が誇らしそうに語っていた。大事には狙撃手として、彼は活躍するのだろうか。そう考えると、この落ち着き様も納得がいく。山の狩人は獲物を捕らえる時「木になれ」と教わるらしい。その言葉通り、この男の気薄さは呼吸さえも消してしまえそうだ。敵に回せば厄介な相手で間違いない。
「……そない見られると、なんや、恥ずかしいなあ。」
ハッと顔を上げる。無意識に治を見つめていたらしい。彼の声で深い思考から戻って来た綾鷹は、軽く腰を折って失礼を詫びた。
「申し訳ありません。ちょっと考え事を。」
「……ふうん。……ま、ええけど。」
掴み所のない声色。ほら、また分からない。怒っているとも違うけれど、だからと言ってどうでも良いと言うわけでもなさそうな返答。このお方の頭の中が解らない。北様は彼の事を大層お褒めになっていたが、その良さを己はまだ計りかねていた。そう言えば、今、計りかねると申し上げたが、治様の調子以外にも、綾鷹には分からないことがある。
「あの、治様。」
早速、大将の料理を口いっぱいに詰め込んでいた治が視線だけで綾鷹を見る。咀嚼に忙しそうだったが、その目が彼女の話を催促していたため、遠慮することなく尋ねた。
「北様はお元気でしょうか。」
綾鷹の問いに、少々驚いた顔をして、治は噛むのを一瞬止めた。しかし、直ぐにムシャムシャと再び運動を始めると、程なくしてゴックンと飯を飲み込む。そして、今度こそ隣に立つ彼女へ体を向けた。
「なんや、北さん。ここへは来てへんのか。」
「ええ……。もう五日になります。」
そうなのだ。匂い袋を拾った夜以来、北は一度もここへは現れていない。皆、表には出さないが、大将も女将も本心ではとても心配していた。五日も、と聞いて治は少々考える。
「……検討が付かへんわけやないけど、俺が話せる立場やないからなあ。……とりあえず元気やで。」
その言葉を聞いて安心する。どうやら北の身に何かあったわけではないらしい。治の言い様だと、職場には休まず顔を出しているようだ。だがしかし、店へ立ち寄らない理由が、その仕事に原因があるのだと同時に確信する。もう少々詳しい情報が欲しい。そこで、一つ探りを入れてみることにした。
「そうですか。それを聞けて少し安心いたしました。私どもはてっきり、体調でも悪くされたのかと……。」
「ははは。あの北さんに限って、それはありえへんなあ。」
「左様でございますか。まあ、元々大変多忙なお方ですし。……そうそう、多忙と申しますと、治様はもう大丈夫なのでございますか。」
急に話の矛先が自分へと向けられ、治は再び驚く。綾鷹はその表情を逃さなかった。
「ほら、前いらした時に仰ってたではありませんか。探しモノが見つからないって。」
ピシリと空気が凍る。幸にして、今日は治様の他に客はいない。一体何を探しているのだろうか。華夜叉と関係があるのだろうか。そして、それは見つかったのか。
「……良お覚えとるなあ。梶さんは別嬪さんやのに、覚えもええんか。」
「そんなことはございません。お客の話を覚えておくと喜ばれるので。自然と、ね。」
お互い顔に浮かべるのは爽やかな笑みだ。しかし、目の奥は冷え切っていた。治は内心舌打ちをする。そして己の言動を後悔していた。目の前にいる女が普通でないことは、重々承知していたはずだった。瞬く間に緊張が背中を駆け抜ける。
「仕事熱心で感心やね。……それで、何が言いたいん。」
歩幅の一歩にも満たない両者の空間に、ピリピリと嫌な空気が生まれる。それに臆することなく、女は優雅に立ち続ける。ここで治は不審さを隠さず顔に出した。
一方綾鷹は、思ったよりも早く反応を見せた男に素直に驚いていた。いや、どちらかと言えば少々気が抜けたとでも言おう。己の見込みでは、もう少し時間がかかる予定だったのだが……。これも、若さ故か。
「いいえ、大したことではありません。ただ、前回の治様の疲れ様があまりにも不憫でしたので。もしや北様とも関係があるのかと。……いらぬ心配でしたね。」
眼光が先ほどにも増して鋭くなっているのに、本人は気づいているのだろうか。それだけで、答えを教えている様なモノである。
「……俺は何も言うてへんけど。」
「あら、そうでしたか。では、私の思い違いでしょう。どうぞ忘れてください。」
軽くほほほ、と口に手を当てて笑う。ちょうどそこで新規の客が店へ入って来た。話はここまでである。綾鷹は来店したばかりの客へお茶を出すため、躊躇なく背を向けた。話はもう終わりだと暗に告げる。
「ちょい待ちいや。」
この場を離れるため、厨房へ踏み出そうとしたところ、引き止められた。襷掛けた袖をチョイっと引っ張られたことで、綾鷹は再び治へと視線を向ける。
「今夜も北さんは来おへんよ。……せやから今日も俺が送ったろか。」
柄にもなく大きく両目が開く。それは、はっきりと北の来店を否定されたからか。それとも、治からの誘いが予定外だったからか。
「ええ是非。……喜んで。」
理由はなんだって良い。ただ一つ言えることは、この機会を逃すなどあり得なかった。