第六章 始動
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鸚鵡(オウム)という鳥は、人の声を真似るのが上手いという。九官鳥と一体何が違うのか、と問われれば、知らぬと言うほかあるまい。未だ見たことがないのだから。けれども、鸚鵡返しという言葉を有していれば想像に容易いものだ。たとえ、その鸚鵡を目の前にして真意を確かめずとも。
「死ぬつもりはない。」
「……ああ。」
「だから、協力者が欲しい。」
「そうだ。」
「……あら、そう。」
客人の女は気の抜けたように繰り返した。それに部屋の主は律儀に応えてやる。しばらく沈黙が続いた。
ヒヨリは一人で考えていた。どうやら、思っているほど事態は深刻ではなさそうである。いや、下手すれば死が待っているのだから、深刻と言えば深刻か。だが、考えなしでの行動では無いのだと分かっただけでも、幾分か冷静になれた。いささか熱くなりすぎたか、とちょいと反省もする。
「つまり、端から一人で解決する気は無かったってことね。」
「そうだ……、最初にちゃんと伝えただろう。」
そう言えばそうだ、と今思い出した事は秘密である。何だか、騙されていた気分だ。肩の力を大袈裟に抜き、手元の茶を思いっきり飲んだ。言外に拗ねている事を伝える。その一部始終を見つめていた綾鷹が、空になった湯飲みへ困り顔で茶を注ぎ足したものだから、余計に腹が立った。こんな誤解を招く言い方をせずとも良かったではないか。もっと端的に言葉を選んで欲しいものだ、と一人で不平を言う。勿論、心の中で。
「そう恨めしそうに見るな。……勝手に大袈裟に捉えたのはお前の方じゃないか。」
「そうだけど……、だってビックリするじゃない。話の流れからして。変な想像もしてしまうものだわ。」
呆れた表情の綾鷹を横目に、ヒヨリは深く溜息を吐く。ひとまず、最悪な未来は回避できた。しかし、根本的な部分は未だ解決していないし、納得もしていない。
本日、何度目か分からない溜息が出る。もう数えることを止めた。
「それで……相手はどんな奴らなの。」
「……攘夷志士の生き残りらしい。」
ハッとヒヨリの双眼が開かれる。色素の薄い茶色の瞳が鋭く光ってすぐに顔色が悪くなった。
「それなら、軍部が動くべきでしょう。どうして私たちみたいなのが……。」
「……黒幕がいる。」
そう。その黒幕こそが此度の件で、北達が一番に頭を悩ませている理由である。ゴクリ、と一つ唾を飲み込む音が聞こえた。
「どうやら、貴族院議員の一人らしい。」
「……反吐が出る。」
やめなさい。と注意したが、綾鷹も同じ心境だった。ただ、顔に出さないだけ。お得意の無表情がここで活きる。
「これがために、軍部は正攻法が使えなくなった。十中八九、彼らの力を抑制することが目的だろうな。」
現在、我々が持つ情報が、どこまでが本当かは分からない。ひょっとしたら、黒幕の正体がお貴族様であることもデマである可能性だって捨てきれないのだ。しかし、逆を言えば、少しでも可能性があるからこそ、下手な事ができなくなってしまった。本来、彼らの仕事はそのお貴族様の護衛でもあるからだ。いやはや、気分の悪くなる戦略をとる奴が居る。
「……なるほどねえ。話が見えてきたかも。つまり、大使は守りたいけど大きく動けない。しかし、親指加えて一部始終を見るわけにもいかない。だったら、外部の力を借りて、大事になるのを防げば良い。……詰まるところ、己の手を汚さずして事を片付けたい、と。」
なんだか既視感を覚える。あの街で生きていた時にも似たような事が合ったものだ。結局は今も昔も己を取り囲む状況は変わっていないのだと、いやでも思い知らされた。
「そこで、紅緒と春日の話になるわけね……。正直、昔の誼みで引き受けるには、いささか度が過ぎているわ。」
あの二人でも、快く頷いてはくれまい。この話は根が深い。華夜叉の勘がそう告げる。
「勿論、報酬はある。」
「……報酬。」
そうだ。この仕事を簡単に引き受けてもらえない事くらい、綾鷹もよく分かっていた。何より、己でさえも躊躇を余儀なくされたからだ。しかし、対価として差出されたモノは、この機を逃せば、再び巡り合える気がしないものであった。釣り合いは十分。いや、十二分である。
「戸籍だ。」
徐々に目が大きく開く。
「今、なんて……。」
信じられないような顔をして、ヒヨリはとうとう顳顬(こめかみ)を押さえた。くらりと目眩がする。幸にして寝台へ腰掛けていたおかげか、倒れ込むようなことにはならなかった。
「そうだ……、悪い話ではないだろう。」
「そ、そりゃあそうだけど。でも……。」
そら、褒美だ。と野犬に餌を放るにしては、贅沢も贅沢。目の前に用意された料理が余りにも豪華なものだから、手をつけるのを躊躇ってしまうほどである。それほどまでして、今回の仕事は成功させたいらしい。条件の端々に見えるその隠しようのない必死さに、寒気がした。それに加え、戸籍という重要文書に手が届いてしまう人物が、今回の依頼主であることに、ヒヨリの中で警鐘が止まらない。厄介も厄介。いや、もうすでにその領域も超えてしまったのかもしれない。
綾鷹も含め、花街で暮らす女達のほとんどは戸籍を持たなかった。それは、憎らしくも懐かしい夜の街が消えてなお変わっていない。むしろ、世間の殆どが忘れていることだろう。宙ぶらりんとはまさにこのこと。それに、本人の努力ではどうにもならないと解り切っているから、誰も手にしようなどと浅はかな夢は持たなかった。このまま、記録に残る事なく死んでいく。そんな一生を疑わない。しかし、どこにいっても例外は存在する。可哀想な女達の中でも、ここにいるヒヨリは少し特殊な身の上だった。
彼女の母親は遊女であった。いわゆる客との間にできた子供である。しかも、その店一番の売れっ子遊女。花魁との間にできた子だから、父親もそれなり。母親さえ選べれば、どこぞの御令嬢にでもなれただろうに。はじめの頃は父親のもとに引き取られる手筈であった。後継がいなかったからだ。しかし不運なことに、頃合いを見計ったかの如く正妻が身篭った。用無しとなってしまった彼女は、仕方なく母親の元で育つ事となる。彼女もまた、遊女となるほかない。とまあ、ここまでは特段変わった話ではない。ちょっと探せば出てくるようなものだ。
では彼女の身の上が特殊といわれる所以はなぜか。それは、彼女が籍持ちであるということだ。父側へ引き取られる準備が進む中で、漏れなく戸籍も用意された。それが突然、帳消しとなったものだから、計画は全て中止。そりゃあもうてんやわんやの大騒ぎ。ちょっとした混乱の中、戸籍だけが取り残される形で残った。不幸中の幸いなのか。それとも幸い中の不幸なのか。少なくとも、そのおかげで彼女は今、法的にも今の旦那と夫婦と言う関係を築けている。生まれた子供も心配いらない。
「……あって損はないわ。けど、それを対価に出すなんて。……恐ろしすぎる。」
その言葉に綾鷹はウンともスンとも言わなかった。