第五章 召集
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
縄のれん(居酒屋の別名称)の店仕舞いは、おおよそ申の刻(夜の9時頃)。とりわけ、日没の時刻が早まる冬の時期は、更に早い時刻に店を閉める。これは照明技術が未熟であるからだ。店の中が暗すぎて、営業すらままならない。しかし、中には一晩中開ける強者もいて、特に花街近くに店を構える連中は、郭帰りの客を目当てにしていた。通称「夜明かし(オールナイト営業をする居酒屋)」である。
綾鷹がお世話になっている、ここ、飲み屋「呑んだくれ」も創業当時は紛れもなく夜明かしの店であった。なんせ、ちょっと通りを進むと、この国一の桃源郷があったからだ。しかし、それも三年前の話。今では新しく区画が整理され、次々と別の建物が立ち並び始めていた。夜明かしをする意味も無くなってしまったのである。逆に今では「店仕舞い」をするようになった。けれども、当時の名残なのか、現在も周りの店に比べて閉店時間はだいぶ遅めである。
「そうだわっ。」
治と綾鷹は二人同時に声のする方へ顔を向けた。その先には女将がいる。一際明るい声だったものだから、つられて大将も厨房から顔を覗かせた。
「どうしたんだい。急に何か思いついたような声出して。」
皆を代表して大将が尋ねる。
「治様にお願いすれば良いのよっ。」
突然、己の名が出てきたことで、治は片眉を上げた。近くにいる綾鷹へ思わず問いかける。
「俺がなんやて。」
「さあ……私にもさっぱり。」
皆目見当もつかないようで、女将の次の言葉を待つ。
「綾鷹ちゃん。今日は治様と一緒にお帰りよっ。」
「えっ。」
「はっ。」
と言うことで、現在に至る。雨脚はさほど酷くはないが、傘は必要であった。店で所有する唯一の傘を借り、不本意にも二人仲良くさして歩く。
「しっかし、女将に言われた時は最初、何を言うとるんか分からんかったわ。」
綾鷹も同じだったようで、コクリと一つ頷いて返した。まさか、治へ北と同じお役目をお願いするとは。その案を聞いた時の反応は三者三様である。
「……けれども、本当に宜しかったんですの。」
「何やが。」
「しがない女給の見送りです。あんなにすんなりと引き受けてしまって。」
そう。最初こそ女将の提案に驚きはしたものの、意外や意外、治は快く引き受けてくれたのだ。あまり彼の為人を知らないとはいえ、縁もさほど感じない女の見送りをここまで快諾するとは思っても見なかったのである。事があまりにも簡単に進んでしまうものだから、呆気に取られてしまった。これは綾鷹の純粋な疑問である。治はしばらく考えるように唸った。
「ううん。……まあ、北さんがやってるのに、俺らがやらへん言うのはなあ。」
はあ、といまいち分かっていなさそうな顔をする。そんな彼女へ、もう少し解りやすくするために、治は改めて言い直した。
「上司が快くやっとるんを、部下は蔑ろにはできひんやろ。」
「ああ、なるほど。」
「……それに、俺的にもあながち嫌な気はせえへん。」
おや、意外な言葉が出た。
「まあ、何や。侑は正直言うてアンタを毛嫌いしとる節があんねんけど、俺は別にや。第一、北さんが惚れ込んどる時点で、なんも文句なんかあらへんし、むしろ、梶さんには頑張ってもらわんと困る。」
「頑張る……困る……。」
「せや。あの人は俺らにとって唯一無二や。そない人の幸せを願わん奴はおらんやろ。梶さんが北さんのことをどう思うとるかは知らんけど、少なくとも、俺らがあげられんモンをアンタは北さんにしてやれる。」
「……受け入れてほしい、と。」
「……おん。」
なんとも形容し難い空気が生まれた。お互いに黙り込む。じゃかじゃかと水を弾ききれなかった地面が足を踏み出すごとに音をたてる。治と綾鷹の気持ちを描写していた。
「この辺りで結構です。」
馴染みのガス灯下で綾鷹は切り出した。しばし周りを見渡した後、治は口を開く。
「この辺言うても、家まで距離があるやろ。……梶さんの家がどれかは知らんけど。」
いや、本当の事を言うと、おおよその場所は知っている。一度尾行した経験が、この辺りの風景を覚えていたからだ。そんなこと口が裂けても言えないが。
「まだ雨降っとるし、なんならもう少し近くまで見送らんと。」
「いいえ、結構です。少し走ればすぐですし。何より、治様の体が冷えてしまいますから。」
完璧な微笑みで言われれば、男は黙るしかない。今はガス灯だけの微かな光源しかないのに、彼女の持つ陶器のような真綿色の肌が輝いて見えた。そこへ程よく潤った口元がにっこりと弧を描く。見惚れるには十分。さらには、飲み込まれるのも時間の問題か、と治は冷静に分析する。
「……さよか。傘はまた今度、店寄った時に返すわ。大将にもそう伝えといてほしい。」
「かしこまりました。」
ぺこり、と軽く会釈をして綾鷹は小走りで去っていく。長屋が立ち並ぶ一角に吸い込まれるようにして姿が消えた。彼女の姿が見えなくなったところで、治も帰路へつく。
「……ありゃあ魔性や。」
ボソリと呟いた声は、傘の外へ漏れることはなかった。
小走りで駆ける。距離にしたら家までほんの数分。いや、もっと少ないか。けれども、その顔は安堵するどころか、段々と険しくなる。できるだけ気配を消して、音を消して戸の前へたどり着いた。思わず舌打ちしそうになるのをグッと堪える。ほんの瞬きの間に息を整え、思いっきり戸を引いた。
左耳が微かな風音を捕らえる。それと同時に手にしていた風呂敷で顔を守った。どすり、と何やら硬い衝撃が腕を伝う。部屋の中は明かり一つない。続け様に今度は足元。最低限の動きで避け、軽くクルリと一回転すると、遠心力を応用した蹴りをお見舞いする。相手もそれなりの手練れのようで、難なく避けた。ジャリジャリと足元で砂が鳴る。土足で板張りの室内を踏みしめれば、そんな音がするのは当然だ。しかし、不思議と動きの激しさとは無縁のように、床は軋みさえしなかった。こんな動きができるのは限られた人間だけだ。交戦の最中だとは思えないほど静かだった。隣の住人などは、気持ちよく寝息をたてている頃だろう。
下から迫る殺気を腕で薙ぎ払い、相手の顔面を目指して拳を突く。さっと向こうが顔を背けたと同時に、手に微かな感触が残った。どうやら頬を掠めたらしい。瞬く間に綾鷹と距離を取るべく離れる。小さな部屋の中。お互い背後に壁を感じながら睨み合った。何度か攻撃をしつつ、交わしつつ綾鷹は考えていた。相手は女性である。入室後、直ぐに食らった一発で瞬時に判断した。男にしては軽い身のこなしで、動きにはしなる様な柔軟さがある。暗闇の中、視覚を頼らずとも動ける上に、異常なまでに静粛を好み、限りなく少ない手数で急所を狙う。己と似た様な戦い方に、段々と見えないはずの敵の姿が浮かび上がった。極め付けは、時折鼻腔を刺激する香り。否が応にも昔を思い出す。そろそろ手慣らしにでも、その辺に居るゴロツキの一人や二人相手にしたいものだ。などと考えていた事を今ふと思い出した。もし、その願いを誰かが叶えてくれたと言うのならば、ひと言、申し上げておきたい。
「……相手が悪すぎんじゃないか。」
「あら、そうでもないんじゃない。」
構えていた体勢を解く。きりきりとした闘気はもう無い。
「……お前の悪い癖だ。来るなら一声寄越したどうだ……。
ヒヨリ。」
クスリと笑う気配がした。