第五章 召集
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特別、白檀の香りに思い入れがあるわけではない。ただ、微かな懐かしさを感じられるようになったあたり、多少なりとも過去と向き合えるような強さが、己につき始めているのだと信じたかった。
あれから時間にして約二日。匂袋の持ち主を思いながら時を過ごした。かの小さな物体は今尚、綾鷹の胸元に存在する。持ち主が現れれば返すつもりであるが、それ以外にも今の彼女には別の思惑もあった。不幸か幸いか。消息不明である仲間を見つけるための手がかりに他ならない。何にせよ、この機会を見逃すわけにはいかなかった。いつも以上にモヤモヤっとした気を持ちながら、今日も仕事へと向かう。
道すがら、綾鷹の脇を数人の子供達が楽しそうに走り過ぎて行った。自分にはなかった日常が、当たり前にある。この辺りに住み始めた頃は、珍しくもない光景に虚しさを感じずにはいられなかった。まるで別世界である、と。けれども今は、その憎らしくも、強烈で平凡な幸せに振り回される事はない。静かに息をする術を習得したのだ。
「おはようございます。」
暖簾すらかかっていない飲み屋の引き戸を開ける。準備中の板がカランコロンと音を立てた。
「おはようさん。」
出入り口からすぐ見える厨房には、いつも通り大将が立っている。何ら変わりのない笑顔に出迎えられ、少し荒立った胸中が穏やかになった。そもそも、何をこんなに気を乱しているのか。勿論、匂袋の件もあるのだが、実はまた別の理由もある。
「綾鷹ちゃん。おはよう。」
「女将さん、おはようございます。」
深い藍色の前掛けをパタパタとなびかせながら、女将が掃き道具を片手に顔を出した。どうやら、まだ開店準備を始めたばかりらしい。綾鷹も店の支度に加わるため、抱えていた荷物の中から白い前掛けを取り出す。
「今日はちょっと早いんじゃない。」
「ええ……。何だか今は家に居たくなくて。」
彼女の言葉に、大将と女将は少々顔を見合わせる。そして、思い切ったように女将が口を開いた。
「家に居たくないって……。最近、何かあったの。少し疲れているようだけれど……。」
「昨日もあまり浮かない顔してたしなあ。」
「いえっ。そんな。お二人が気を揉む様なことはありませんよっ。」
急いで取り繕うかの様に、努めて明るく返す。しかし、その振る舞いがかえって二人には無理をしている様に見えた。
「そうは言ったって。ねえ、あなた。」
「うん。……昨夜は北様もいらっしゃらなかったしなあ。」
そうなのである。かれこれ出会って半年が過ぎようとしていた。その間、北は毎日殆どここへ足を運んでいたのだ。それが、一昨日までのこと。待てども待てども、とうとう北はこの店へ姿を見せなかった。仕事が立て込んでいるのか。はたまた、何かしらの悶着に巻き込まれてしまったのか。皆が不思議がった。
「てっきり、北様がいらっしゃると思っていたから。……昨日の帰りは大丈夫だったの。」
そう、北が来ないと言うことは、すなわち、綾鷹は一人で帰宅せねばならないのと同義だ。久しく、たった一人で夜道を歩いた。その時に感じたのは、とてつもない不安。そして僅かな恐怖。
これまで、闇夜は彼女にとっての居場所であった。しかし、今は違う。北信介という光下を見つけてしまったが故、得体の知れない魔物の潜む世界に取って変わってしまったのだ。
「……もし、今夜もいらっしゃらなかったら俺が家まで送ろう。」
大将が少し考えるような素振りを見せたのち、提案する。
「それが良いわ。ね、綾鷹ちゃん。」
「えええっ。そんな、だ、大丈夫ですよっ。」
反射的に両の手を左右に振る。ここで働き始めて三年以上経つ。今まで送り迎えをしてもらったことなど一度たりとも無い。
「よく考えると、これまでがおかしかったのよっ。あなたを一人、夜道に放り出すなんて事。」
「そりゃあそうだ。どうして気づかなかったのか……。」
深刻な事実に気づいた二人は、心底申し訳なさそうに頷き合った。綾鷹の預かりしらぬところで、話はトントンと進んでいく。
「ここら辺はあまり治安の良い場所でもないしなあ。」
ええ、ええ。それは私もよく存じております。何しろ、真っ当な身の上ではございませんので。むしろ、当事者と申しますか。何と申しますか……。そう頭の中だけでツッコミを入れているとーー。
「あなた。今夜は早めに店仕舞いしましょう。ね、そしたら綾鷹ちゃんも安心してお家に帰れるでしょ。」
そうだな、そうだな。と彼らだけで、どうやら結論が出てしまったらしい。このままだと、家の場所がバレてしまう。別に隠しているわけじゃあないのだが、ここまで個人に関わる情報を公開してしまうのは、些か抵抗があった。それに、現状、彼女の置く身は安全とは言えない。嫌らしくも、長年培ってきた勘がそう言っているのだ。
「大将、女将さん。私のことなら大丈夫です。ほら、北様がいらっしゃるまで、私一人でしたし。これまで何にも問題ありませんでしたでしょう。きっと大丈夫ですよ。」
恥ずかしながら、そこら辺のゴロつきよりは腕が立つ。華夜叉として北に協力をすると決めた今、むしろ好都合だと言えよう。今後の進展においては、今からでも一人二人、相手にしておきたいのが本心だ。鈍った体を取り戻すには丁度良い。
「それに、北様がもういらっしゃらないなんて、誰がお決めになったのでしょう。……私は信じて待ちとうございます。」
我ながら一等明るい返答に、一番驚いた。どこぞのお嬢様方が、秘めて読みなさる色恋のお伽話にでも登場しそうなセリフだ。さて、これも北様効果の一部なのであろうか。
「綾鷹ちゃんがそう言うなら……。」
頬に手を当て、困った顔の女将が溜息まじりに妥協する。けれども、納得はいっていない。有り難くも、今は不都合な心配に綾鷹はどう応えたら良いのか分からなかった。
結論から申し上げる。北は今夜も来なかった。理由は相変わらず分からない。だが、生憎の雨だから、という訳ではなさそうだ。そんな暗い夜道を、綾鷹は無表情で歩いていた。ただし、足音はきちんと二つある。
「……まさか、あなた様が一人でいらっしゃるとは思いもよりませんでした。」
「そか。……まあ、いつもは北さんと一緒やからなあ。」
同じ上方鈍りの筈なのに、どうも居心地が悪い。隣を何食わぬ顔で歩く男を盗み見る。
「しっかし驚いたわ。」
「……何がでございましょう。」
「北さんがえらいアンタを贔屓にしとるのは知っとったけどな。まさか、毎日家まで送っとったとは。」
「……左様でございますか。」
居心地の悪さは、この男と過ごし慣れていないからではないと確信していた。
「治様はどうして今晩、ウチへ。」
「ん。そないこと、美味い飯食いに行く以外、理由なんかあらへんやろ。」
本当ですの。と目で訴える。胡散臭そうにじっと見ていたが、男はぼうっとした顔で「ほんまやて。」と返事をしただけだった。
「それとも、北さんやのうてガッカリしはったんか。」
今度は治が綾鷹へ尋ねた。至って穏やかな口調である。しかし、どこかムッとする言い方に、宮治という男の本性を垣間見た気がした。あの生意気少尉の姿がどうしても重なって見えるのは偶然ではない。
「いいえ、いいえ。そんなことはございません。大将の料理に間違いはありませんので。」
ありがとうございます。と極上の笑顔でお答えしておこう。決して、この生意気な小僧め、なんて顔はしない。そこは大人の意地で抑えた。
さて、どうしてこの男が綾鷹の隣を歩いているのか。いささか不思議に思うだろう。話は数時間前に遡る。
店が営業を始めてしばらく経った時だった。天気が悪いにも関わらず、そこそこ客足も良く、思いの外忙しくしていた時分。懐かしい声が店に入ってきた。
「大将、こんばんは。」
「あらっ。あらあらあらあらっ。どなた様かと思えば、治様っ。」
皆、驚きを隠せなかった。女将に満面の笑みで出迎えられ、少々恥ずかしそうに頭を掻く。所々水を滴らせた青年将校のために、綾鷹はすかさず手拭いを用意した。外は生憎の雷雨である。
「おっ。おおきになあ、梶さん。」
「いいえ、とんでもございません。……それにしても、本当にお久しぶりでございます。息災でございましたか。」
おん、勿論や。と潑剌と返された。その爽やかさに立ちくらみがしてしまったのは、決して綾鷹が年寄りだからではない。ちなみに、女将は直撃だったようで、ヨロヨロと近くの壁に手をついていた。
「それにしても、今日は混んどるなあ……てっきり雨やから閑古鳥でも鳴いてはるんやないかと思っとったけど。」
「ええ、私らも店を開けるまではそう思っておりました。」
大将が手を動かしながら苦笑いをする。何を隠そう、この状況に一番驚いているのは大将達だからだ。
「お客様の数もそうですけど、何より治様がいらっしゃた事が本当に珍しい。いやあ、今日は久しぶりに腕がなります。」
「ははは。そないこと言われてまうと、何や嬉しいなあ。」
そんな当たり障りのない会話をしていると、すかさずキュルキュルキュル……と治の腹が飯を催促した。それを聞きつけて、綾鷹と女将が慌てて茶とお通しを用意する。