第五章 召集
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気づけば朝を迎えていた。ツキンと鈍い痛みが走り、咄嗟にこめかみを押さえる。あれは悪い夢だったのではないか。ぐっしょり汗を背中にかいていた。寝台から体を起こし、小さな窓越しに太陽の位置を見る。今日は少し遅めの起床だ。ぼんやりとそんな事を考えながら、チラリと寝台周りに目を向ける。
「……そんな上手い話、あるわけ無い……か。」
例の物がしっかりと綾鷹の視界に入った。明るい時間に見るそれを見間違えるはずもない。紛れもない彼女の持ち物であった。幾分か記憶に残る姿よりもクッタリとしているのは、それだけ時間が経っている証拠だ。綾鷹の手にすっぽりと収まってしまうほどの大きさ。恐る恐る掌に乗せ、まじまじと観察する。
「……居たのか、あの場所に。」
間違いなく、彼女はあの日、綾鷹と同じ空間に存在した。この匂袋が動かぬ証である。一体、いつ、どんな姿で、どの席に、あの中の誰が……。昨夜の様子を懸命に思い出そうと両目を閉じた。
ヒヨリという人物は、華夜叉時代の同僚である。歳は2つほど彼女の方が上であっただろうか。綾鷹が入団した時、すでに彼女はそこに居たのである。それから何の縁があったのか、同じ組みで、尚且つ主席と次席と言う関係。他の組員と比べてみても、時間を多く共有した仲である。とは言っても、ヒヨリも先の火災で散り散りばらばらとなった仲間の中の一人であり、彼女もその他の組員と同じくして、意図して再び同士と接触を図ろうとはしなかった。言わばそれだけの関係である。
しかしながら、なぜこんなにも動悸が激しいのか。理由は明白であった。
「北様と話をしてから、すぐこれだなんて……、誰かが覗いてでもいるのかしら……。」
顔は動かさず、視線だけでこの狭い空間を見渡す。数少ない彼女にとっての安寧の地が、今、計り知れない何かによって脅かされている。そう疑わずには居られないほど、頃合いが良いのだ。もしも、これが必然であるならば……。いや、北様にも花見の場で似たようなことを申しあげたが、今回は少し意味が違う。この匂袋も意図して落とされたのではないか。と様々な憶測が頭の中を飛び交った。そうであるのなら、得体のしれない誰かが、私の動きを監視し、調べ、そして行動に移したのだろうか。さらに言うと、軍部の極秘情報を入手できる人物でなければ、此度は説明がつかない。一体誰がーー。
そこまで考えたところで、再び両目を閉じ、深く息を吐く。まだ事態は展開すらしていない。これは、あくまで綾鷹の被害妄想の域を超えていなかった。今日は何とも疲れる朝だ。いろんな意味で鳥肌が治らなかった。
「北、お前、今日はどないしたんや。」
所変わって隊舎では、毎朝の朝礼が終わる時分であった。アランが堪りかねて尋ねる。その様子は尋ねたと言うよりも、何かある、と確信を持って問いかけられた。
「お前にしては珍しいやんか。ぼうっとしはって。」
「……いや、何でもあらへん。」
そうは言ったものの、何の説得力も無かった。それに、これだけで目の前の男は引いてくれない事も北はよく知っている。口には出さないものの、じっとり、ねっとりとした視線が、早く白状しろと訴えていた。
さて、どうしたものか。昨夜のことを馬鹿正直に話す事は至って容易い。アランは今回の件にどっぷりと関わりのある人間だ。遠慮する事はない。むしろ、情報の共有はしておいた方が、今後の展開に大きく有利となる。だが、それと同時にある事も話さなければならないのだが。
「……アラン。お前、俺に何か言うことあるやろ。」
突然の問いに、アランは首を傾げた。
「何かって何や。」
「……何一人で梶と会うてんねん。」
ヒュッと息をのむ音がここまで聞こえてくる。そして、瞬時に悟った。
あ、バレとる。
たっぷり3秒ほど思考が止まり、その次に、はああああ、と思わず額を隠す。その姿を北は至って冷めた目で見ていた。これで白状したも同然となる。
「俺は言うたはずや。いらん干渉はするなと。」
顔を手で覆いながら、あの女、秘密言うたのに。そう心の中で叫ばずにはいられない。が、もはや手遅れである。大して時間は経っていないが、二人の関係はほとんど入れ替わってしまった。今はアランが無言の圧力と闘う番だ。して、ほとんど勝ち目は無いのだが。
それは、そのお……と吃りながら、目が物凄い勢いで左右に振れていた。そして、黙る。彼らの周りでは、本日の業務へ取り掛かろうとする隊士等が、ただ黙って佇む上官二人を気にしつつ、その横を通り過ぎて行った。
「……お前の姿が見るに堪えんかったんや。」
しばらくして、観念したかのようにアランが眉根を寄せながら口を開いた。そう話す男の方が、今は何倍も辛そうである。
「俺にできる事がないか考えた結果やった。」
「立派な命令違反や。」
「それも、勿論わかっとる。」
分かっとったけど、それ以上にええ考えが浮かばへんかった。同い年の部下の強く握られた拳を見ながら、北は考える。
北は己の質が幸にしてこの職業に向いている、と自負している節があった。決して突出した才能や身体能力があるわけでもなく、特別な血筋であるというわけでもない。だが、絶対的な自信。決して揺るぐ事のない精神。失敗とはなんぞや、と問うてみたくなるほど、彼はここでの仕事を完璧にこなす。弱冠26にして、一師団の少佐になった所以は、そこにあるのだ。
それに伴い、緊張や動揺も、彼にとっては無縁の存在であった。それは、彼のモットーでもある反復・継続・丁寧に由来する。日頃の行いは迷いなく結果に直結すること。他でもない。彼自身がその証明とでも言えよう。毎日、毎日コツコツと決まった時、流れ、動き。それをただひたすらに繰り返す。北にとって、その行き着く先が結果という現象なのだ。誰だっただろうか、彼のことを修行僧か何かに喩えた奴がいた。言い得て妙である。これはもう、ある種の真理を会得したのと同意だ。
未開の境地に至った人間というのは、とりわけ変化というものに疎くなる。それすなわち、驚く事が無くなるに等しい。無表情。無反応。しかし、努めてそうしているのではなく、それさえも無意識なのだ。常に冷静であり、そして強かであれ。軍人である者、いや、人の上に立たねばならぬ全ての者にそれは求められる。不動の「要素」と言えよう。北信介という男の日常は、そのようにして成り立っていた。
対してアランは感情が表へ出やすい。人の心に重きを置く故、涙もろく、そして情にあつい。大変、人間らしく、そして思いやりのある優しい男だ。しかしながら、人間ができているからといって、全てが当たり前のように享受されるわけではない。時折見せる、冷静さの欠けた行動に、北はひっそりと悩む事があった。この度、アランが起こしたことも、北の無力な姿が彼の心を揺さぶったからに違いない。
「……俺にも原因があるゆうこっちゃな。」
これを見越して、あえて釘を刺したつもりであったが、如何せん、裏目に出てしまった。静かに反省する。長年、この男とは行動をともにしてきたと言うのに、未然に防ぐ事ができなかった。さらに言えば、北自身が此度の件に関して起爆剤とも言える。そしてさらに付け加えるのであれば、その結果に少なくとも助けられてもいた。かなりの粗治療であったが。
ただただ俯くアランに対して、頭ごなしに怒る事はできない。まあ、もとより、そんな幼稚な振る舞いが、北にできるはずもないのだが。
「まあ、ええ。もう過ぎてしもうたことや。はなからとやかく言うつもりはあらへんよ。ただ、確かめたかっただけや。」
嘘ではない。しかし、本心でもない。
ようやっと面をあげたアランの顔は、予想通り、申し訳ない気持ちと悔しさが入り混じっていた。それと同時に、少しの安堵感も薄らと漂っている。全く、己とは甚だしく異なる人間を相手にするのは、何と難しいことか。
「……北。」
「話は振り返さん方が、9割がたうまく事が進む。これ以上の謝罪は無用や。」
ぐうの音も出ない。正論という鉄拳がゴンッとアランの鳩尾に決まった瞬間であった。さて、話を元に戻す必要がある。この話の出発点がアランの問いからであったことを忘れてはいるまい。
「昨日、梶に会うた。」
「お、おお……。」
いや、いちいち口に出さんくても皆知っとるがな。とは、先程のことがあった手前、口が裂けても言えない。しかし、そう思わずにもいられない。人間とは何と辛い生き物か。アランは細心の注意を払って、表情筋を硬直させた。北は話を続ける。
「帰り際な、拾い物してん。」
「拾い物。……何を拾ったんや。」
「匂袋や。それもえらい派手な柄が入っとって。見るからに年季の入ったヤツやった。」
アランは北の説明から物体を想像する。大きさは掌にスッポリと収まってしまう程で、微かに白檀の香りがしたそうだ。
「それが、何の問題があんねん。」
「別に匂袋自体が問題やない。……それを見つけた時の梶の顔が……。」
そこまで言って北は黙った。勘の良い人間なら、もうその先を聞く必要はない。
「……十中八九、綾鷹さんは匂袋の持ち主を知っとるんやな。」
「ああ……。」
「……極め付けは、白檀……かあ。」
両者とも、目の付け所は同じであった。アランは思わず腕を組んで天を仰ぐ。
白檀(ビャクダン)とは元々、天竺(現インド)が原産の香木の一種である。香木の中でも最高品質と言われる沈香と並び比べられる代物だ。その香りが清涼かつ高貴であるのと同時に、魅力的な色気を思わせるところから、古くはお上(天皇)が直接世を全ていた頃より上流階級で親しまれてきた背景がある。いわば嗜好品の最上級品と言えよう。しかし、なぜこの白檀が重要であるか。
「わかるやつには分かってまうわなあ。……花街で良お嗅ぐ匂いや。」
アランの言うとおり。その独特な香りは、男の欲を煽るのに頻繁に用いられた。郭では客の肉欲を刺激するのに大層重宝されていたのだ。
「何やアラン、えらい詳しいなあ。……馴染みの女がおったんか……。」
「アホかっ。なしてそうなんねんっ。」
「……冗談や。」
至って真面目に聞かれたもんだから、ついつい過剰に反応してしまった。初な男の代表であるアランは、一瞬のうちにして茹で蛸になる。
「勘弁してやあ。お前の冗談は冗談に聞こえへんねん。」
「すまんな。」
んもうっ。と口を窄めて大男が抗議するも、北はふふふ、と軽く微笑んだだけだった。
「白檀、郭、そして梶と面識のある人物。持ち主は匂袋の柄からして女性やろ。ここまで好条件が揃ったら、行き着く先は一つしかあらへん。」
「……華夜叉……。」
言葉にして改めて事の重大さを思い知る。もしも、このまま上手く事が進めば、ほぼほぼあきらめかけていた華夜叉との接触が呆気なく取れてしまうかもしれない。紛れもない幸運であると言える。しかし、綾鷹本人からしてみれば、昔を知る仲間との再会ほど、気分を害するものはない。長年蓄積された恐怖や憎悪は簡単に払拭などされないのだ。それを不幸にも知っている男達は、現状を手放しに喜ぶことが出来ないでいた。
「うううん……やっぱり上手いこと行かへんなあ。どうしたもんかあ。」
「……まあ、未だ可能性の段階や。梶が自分の口でそう言うたわけでもあらへんし、俺たちの妄想がそうさせてるだけかもわからん。」
ひとまず、もう一度綾鷹とは話の場を持たなければならないのは確実である。早とちりは得策ではない。そう二人は同時に結論へ至った。