第一章 再会
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
時の流れとは摩訶不思議なもので、気づけば見慣れた戸の前まできていた。あの男、私に何をした。数分前の出来事が、鮮明に脳裏に蘇る。撫でられた左頬を今は冷たい冬の空気が掠めていく。あれは夢であったか、はたまた何かに化かされてしまったか。狐のようなスッとした北の顔を思い出して、慌てて消し去った。
「……そうだ、お腹が空いているんだった。」
ぼうっとしていた頭を無理やりこちらの世界へ引き戻し、包みの中を皿へ移した。冷めて食べても美味しいように、お焼きの味付けは濃いめだ。こんなところにも大将の気遣いを感じて、気分がほんの少し浮上した。茶を入れるため、火鉢の上に薬缶をのせる。パチパチと炭が燃えるその淡い光を見つめるうちに、またあの場面が浮かんできた。
「放っておいて欲しいのに……どうして私なんかに構うのか。」
私は彼人に何か、特別な事をしただろうか。こうも執着されるような、はたまた、勘違いをされるようなーー。遠い昔、あの男と初めて会った頃を思い出す。
「お役人様が、こんな所へ何んの用でありんすか。」
姐さん方の囁く様な声が聞こえてくる。いつもなら上客が来たと浮き足立つのに。その訳は、彼らが仕事として足を踏み入れたからだろう。ここは政府も介入が難しい、独立した自治を持つ特別な場所だ。いわゆる、郭が立ち並ぶ遊郭街。そこへ軍人という身分を隠しもせず現れる事は、それなりに危険性を伴う行為だ。皆が警戒するのも無理はない。どうやら女を買いに来たわけではないらしい。
「綾鷹、一緒に来てくんなまし。」
傍観に徹していたというのに、まさかのお声がかかった。女将の後ろを見ると、軍服姿の男が3人。上官と思われる男とその部下が2人。見るからに若い。おそらく私と似た年齢だろう。突然現れた私を、男達は怪しむ様な目で見る。
「これから先の話は、他言無用や。」
上官の男は黒須といった。階級は大佐。雲の上のお人が、こんな所へ何の用件だ。ますます謎は深まる。
「後ろの二人は部下や。北、大耳。」
女将の部屋へ通された後、簡単な自己紹介が始まる。複雑だろう。何せ、こんな場所で己の名前を名乗らなければならないのだから。これじゃあ、個人的に遊びにも来れなくなる。
「帝国陸軍、第二師団、少尉。北信介と申します。」
えらく丁寧に挨拶された。ここでは珍しい。男は己を大きく見せたがるモノ。自慢話に走る奴もいれば、遊女を見下す様な態度をとる奴もざらだ。こんな世界に長く浸かってしまったせいで、この男の態度が無駄に目立って見えた。
「このお方は、わっちの古う知り合いでありんすえ。」
女将との繋がりで、今日、この場が設けられたらしい。他言無用などというのだから、それなりの機密生があるのだろう。それも、五葉の私を巻き込む様な。
「ある男を追って欲しいんや。」
詳しい事は聞いていない。聞く気もない。言われた事はたったそれだけだった。ある男を追ってほしい。そいつが何処で、誰と、何を話しているのか。そして、何をしようとしているのか。この街で、それが出来るのは君達だけだと。
「そういう事は、ぬし達の得意分野でありんしょう。」
すかさず女将が口を挟む。少しでも郭にいる彼女達に害が及ぶ事は許されない。
「俺らもそれができれば何も困らん。堂々と店の前に陣取ってもええなら、こんな周りくどい手なんか使わへん。」
それでもええんか、と女将を脅す。店の前に陣取られたりでもしたら、客は入らなくなる。商売上がったりだ。
「ここは、俺らが簡単に手出しできひん場所や。堂々と奴さんらをしょっ引く事すらできん。お国の連中らも迂闊にやろうもんなら、えらい目に合うてまうやろ。」
この街を構成しているのは、国民ではない。遊女たちだ。その多くの者が、貧しい家のために売られたり、人攫いにあった娘達。彼女達は年季が開けるまで外へ出る事は出来ないし、出たとして、帰る家など無い。とても閉鎖的で絶望的。何だか息がしずらそうだ。しかし、物事は多角的立場から見る必要がある。政府も干渉しないこの場所は、いわゆる社交場でもあった。身分や立場を隠し、お忍びで遊びに来る要人や貴族も多い。偽りの姿で時を過ごす、その背徳感こそ、この街の醍醐味だと主張する物好きもいるほどだ。事実上この街を統治しているのは、老舗郭の大取り達である。女将もその内の一人。ここでの取り決めごとは、月に一度開かれる会合で決める。例えば、変な薬が出回っていないか。厄介な客はいないか。意外としっかりしているのだ。むしろ、一つの小国家とでも言えよう。医者だって、役場擬きだってあるし、警察や軍部に近い組織も揃っている。
「そう言ったって、わっち等にどんな得がありんすか。」
そりゃそうだ。古い友人とはいえ、何んでもかんでも首を縦に振るわけにはいかない。私達にも選ぶ権利がある。しばらく間が空いて、黒須が再び口を開いた。
「ここで人が死んでもええんか。」
ずるい。死人が出れば、それはそれで話が違ってくる。商売どころか、ここに住む全員が路頭に迷う上に、街全体の威信にも関わる。この世界をよく知っている男に感心すると同時に、身構えずにはいられなかった。
「つまるところ、人が死ぬ前提……とおっしゃることか。」
死人が出る。それは避けねばならない。社交場と言うだけあって、ここで身分を尋ねる行為はご法度だ。そこを上手く利用して、違法取引や法に触れる様な行為をする輩も少なくない。いつもはこちらで秘密裏に処理するのだが、今回は軍部が動くのか。これは、面倒臭いことになりそうだ。
「……えらい強気でありんすね。」
「何を言うとる。当たり前や。ここの文化を知った上で、今日はこの姿で足を運んだんや。これを見逃したら、国家存亡の危機になるかも知れへん。」
お願いの様な緩いものではない、取引だ。つまり、お互いに協力しなければ、各々が思う最悪な事態になる。そう言いたいらしい。
「何も、あんたの抱える女達に、直接頼む気はあらへん。」
そう言いながら、男は後ろに控える私を見た。
「華夜叉に頼みたい。」
その言葉を聞いた瞬間、煙管が男の顔に向かって飛んだ。女将が先ほどまで吸っていたものだ。
「ふざけた事を言いんせんっ。ぬし、何を口にしたのか分かりんすか。」
久しぶりに声を荒げた姿を見たな、と立ち上がった女将を見上げた。そこから時間差で、この男が「華夜叉」の存在を知っていることに驚く。それも、私がその一人である事を確信しての発言だ。
「分こうとる。せやから、こうしてお前に会いに来たんや。」
煙管が飛ぶ瞬間、今まで上官の後ろで静かに座っていた男の一人が、わずかに腰を浮かせたのを見た。上司を庇うつもりだったのだろう。あの速さについていけるだけの動体視力と、瞬発力を持ち合わせていた。有能な部下をお持ちだ。その反面、男の表情は少しも動かなかった。
「女将、とりあえず座りましょう。また、腰を痛めますよ。」
綾鷹……と不安そうな目をする彼女をひとまず落ち着かせ、再び向き合う。
「……どうして私が華夜叉だとお気づきに。」
とりあえず、差し障りのないところから話し始めることにした。
「姿勢、視線、息の仕方、気の配り方。極め付けは足音や。ここまでくる間、あんたの足音がせえへんかった。」
それはもう癖やろ。一長一短でできる事ではない。ましてや遊女が身につける技術でもない。なんと言うことか。こんなところで試されていたとは。
「単刀直入に言う。できるのか、出来ひんのか。」
この場で結論が欲しいらしい。それだけ時間が迫っているのか。
「女を口説く時、焦りは禁物だと教わりませんでしたか。直ぐに答えが出る問題でもありませんでしょうに。」
ぐうっ、と黙る音が聞こえた。唐突すぎたと認めたらしい。
「私達にも時間が必要です。あなた方が、ここへたどり着くまでに時を要した様に。」
せっかく会えたのに、この場が水の泡になる様な最後は迎えたくないはず。この男も女将という強力なツテがあった故、今日、この部屋にいるのだから。
「……分かった。二日待つ。二日後に、ここにおる北を寄越す。返事はこいつへ伝えくれ。」
黒須の視線を辿り、北という男を見る。なるほど、先ほどの有能な部下殿か。了解の意味を込めて軽く頭を下げる。それに対して、北は私よりも気持ち深めに頭を下げ返した。銀色のつむじを見つめ、彼が頭をあげると同時に、その双眼を見る。信念深そうな、そんな色だと思った。
これが、北信介と言う男との出会いだった。