第五章 召集
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※会話多め。
北は立ち上がった。懐中時計を確認してから、彼女を説得するまでおおよそ15分くらいは時間が経ってしまっている。深夜に差し掛かろうとしている時分、いつまでもここへ居座るわけにもいかない。大将夫婦にも迷惑がかかることに加え、綾鷹を今日は早く家に帰してあげたかった。いろんな意味で、各々頭を整理しなければなるまい。
金を大将へ直接渡す。店仕舞いと同時に帰宅する北は、いつも勘定を大将へ直接手渡す。特に深い意味はないが、今はもう癖のようになっていた。今夜も変わりなく支払いを済ませると、珍しく大将の口からいつもとは違う言葉が返ってくる。
「もう、お帰りになりますか。」
「おん。これ以上長居するのもあかんからな。」
「北様ならいくらでも居てくださって構いませんのに。」
冗談を飛ばす。男2人、軽く笑い合った。
北と大将はそれこそ一回り以上、歳の差がある。下手をすれば親子とも見える彼らは、一年も経たない内にここまで打ち解けてしまった。軍人である上に、人よりも慎重な性格の北にとって、この親睦の深まる速さは異常である。しかし、それを感じさせない関係はおそらく、大将の為人。加えて、元華夜叉五葉の綾鷹が絶対的な信頼を寄せていると言う箔がついているからだろう。
「……本当に北様には感謝しております。」
「何や、急に。真剣な顔して。」
「いえ、本来ならもっと早くお礼を言いたかったんですがね。そのお……あなたがいらしてから、綾鷹ちゃんはとても人間らしくなりました。」
チラリと視線を彼女へと向ける。今は女将と軽く笑い合いながら少し離れた所で立ち話をしている。こちらの真面目な雰囲気には気付いていない。
「出会った頃は、……何と言えば良いんでしょうか、この子はきっと心が凍えてしまっているんだと思ったほど、笑いもしなければ愛想もありませんでしたから。」
美しい顔付きも相なって、と苦笑混じりに話始める。初めて耳にする、ここへ来たばかりの頃の彼女の事。北の表情は自ずと引き締まった。
「ウチは小さいながらも商売をしています。もちろん、美味い飯を出したい。そういつも思って厨房に立っています。料理の味は俺の腕に左右されますが、俺だけの努力じゃあ美味い店とは言えない。」
「ほお……。」
大将は頭にかぶっていた和帽子を脱ぐと、クシャりと片手で握る。一呼吸おいて再び話し出した。
「……北様には最愛の祖母がいらっしゃったとお聞きしています。」
ピクリとわずかに肩が動く。
「そうや。……梶に聞いたんか。」
「ええ、と言ってもついこの間ですが。……誰にでも特別な人というのが1人はいるものです。例えばそれは家族だったり、恋人だったり、はたまた、苦楽を共にした友だったり。そんな人たちとする食事は格別です。それは、同じ物を1人で食べた時とは違った味がするはず。飯っていう物は心許せる仲間とワイワイ囲って食うと、不味い料理でも美味く感じるんですよ。例え、今日一日が過去最悪だったとしても、楽しい食事はどんなに辛いことも一瞬で吹き飛ばしちまう。そんな魔法なんです。」
料理にかける大将の情熱。その根本をチラリと見た気がした。
「俺がここを構えた時、もっと大きくて広い店にすることもできました。こんな小さな店にしたのは、決してお金がなかったわけじゃあありません。」
いつも穏やかな表情をしているこの男のことを、俺は何か勘違いしていたのかもしれない。北はそう思った。図体だけの優男。快活で賑やかな妻の尻に敷かれ、上手いように掌で転がされる。だが、実際は違う。静かだが熱く語る大将は、薄らと殺気のような緊張感を纏っていた。
「何でも大きければ良いというわけではありません。金をかければ良いってもんじゃない。狭いこの空間では、自然と人と人との距離が近くなる。客同士もそうですが、それは俺たちにも言えることです。まるで親い奴等と飯を囲って食べている。そんな感覚を味わいながら、心にとっても美味くて楽しい料理を食べてもらいたい。そう思ってこの場所、この店を選びました。……そんな時に出会った彼女は、それはそれは無愛想で、俺の理想とは正反対の娘だったんです。」
容易に想像できる。無表情で佇み、用が済めばそそくさと去ってしまう。在りし日の彼女の姿と重なった。
「最初の頃は、それなりに仲が悪くってね。喧嘩とまではいきませんが、お互いに気に食わないと意地を張っていたものです。」
大将の口から出た思いも寄らない話に内心驚いていた。今の彼らは本当の家族のように信頼しあっている。一体、北がここへ通うまでに何があったと言うのか。
「一度だけ、家内と綾鷹ちゃんのことで喧嘩になったことがありましてね。いや、あれは今でも忘れられない苦い思い出です。」
「大将と女将でも喧嘩するんか……。」
勿論ですよっ。大層不思議そうに目を見開いた若い将校に、店の店主は大袈裟に笑って見せた。
「もっと良く彼女のことを見てやれ、と言われちまったんです。」
「女将にか。」
「ええ。意味がわかりませんでした。まるで自分が悪いように責められている気分になりましてね。なぜ俺があの娘に気を使ってやらなきゃならないんだと。」
それはそれは。腹が立ってしまうのも無理はない。おそらく、面倒見てやっているはこちらの方だぞ、とでも言いたかったのだろう。その一部分のみ聞けばの話だが。
「ここは元々、大遊郭が近くにありました。良いお客もいましたが、柄の悪い連中を相手にすることもしばしばでね。最初に彼女を見た時、ああ、この娘も何か訳ありなんだと、直感で分かったんです。けど、そんなことはどうだって良い。どんな生い立ちを持っていても、俺の店で働くからには、俺の理想とする客との接し方ってもんを体現してもらわなきゃ困る。」
「梶は、大将の思うように働いてくれへんかったんやな。」
「その通りです。いやあ、お恥ずかしい。今思えば、あの時の俺は井の中の蛙でね。世の中ってもんをよく見てなかった。店が軌道に乗り始めた時期でもあったんで、知らずのうちに天狗にでもなってたんでしょう。そんな時に彼女が現れたもんだから、道を遮られてしまった気がしちまって。無駄に腹を立ててました。」
「そんで、女将になんて言われたん。」
「あなたは何もかも押し付けすぎだと、言われちまいましてね。俺の店に俺が何を言おうが勝手だと。すると、平手を食らっちまいました。」
衝撃が走る。平手。この大将に向かって平手打ちとは。いやはや、こんなことができるのは、性別関係なく、どこを探しても女将以外にはいないだろう。
「その後、あいつは俺に言ったんです。きっとあの子は家族を知らないのだろうと。楽しい食事をしたことがないだってね。ハッとさせられました。……いやあ、その時ほど女の凄さってもんを思い知らされた日はありません。だって綾鷹ちゃんを見ただけで、そうわかってしまうんですから。」
女は母になるために生まれてくるってのは強ち間違いじゃあありませんね。と努めて明るく話していたものの、直ぐ悔しそうに口を閉じる。きっとその過去は、大将にとって後悔以外の何者でもないのだろう。時間が経ち、あの頃とは比べ物にならない程、お互いの関係が良くなっても。
「知らないのなら、教えてあげなきゃってね。それから、あの娘を見る目が少しずつ変わっていったんです。」
まずは一緒に賄い飯を食うところから。そして毎日、積極的に話しかけるようにした。どんな時も笑って迎え、自然と笑顔を覚えてもらえるようにした。月日が経って、幾分か打ち解けても彼女の口数が増えないと気づいた時、この娘は元々寡黙な性格なんだと悟った。それからは無理に明るくしようとはせず、彼女の望むような穏やかな空気を作るように心がけた。
「そうするとね、不思議なことに全ていい方向に進んでいったんですよ。お客が来れば、満面とまではいきませんが、微笑むようになった。必要となれば、進んで会話をするようになった。ゆっくりゆっくり彼女の内側から変わっていくのがわかったんです。」
大変美しい娘は、次第にその蕾を花開かせていった。人の暖かさを覚えてからは、密かに彼女を贔屓にする客も出てきて、常連となった者もいる。目の前に座る若人もそのうちの1人だ。
「けれど、何よりも大きな変化は、北様、あなたに出会ったことだ。あなたと一緒にいる綾鷹ちゃんはそれはもう本当に楽しそうで、その姿を見るたびに私たちはとっても安心するんです。いやはや、人形が息を吹き返したような、そんな風にね。」
ここへきて、北は少しばかり恥じらう素振りを見せる。
「だから、礼を言わせてください。今やあの子は俺たちの娘同然です。あなたになら、あの子を任せられる。」
何卒、よろしくお願いします。と頭を下げた。勿論、答えは一つである。
「任せときい。」
ああ、人は変われるのだと自分は知っていたはずなのだが、こう現実に目の前で変化していく様を見せつけられると、どうも神秘的な何かを感じずにはいられない。目の前に佇む男の顔付き、佇まい、その全てが1店主から父親のそれに変わっているのを認めて、北は改めて心に誓った。
「あいつは、何が何でも俺が幸せにしたる。……もう随分前から、そう決めてんねん。」
「それを聞けてほっとしました。」
今日一番の嬉しそうな表情である。
「……ですが、まずは彼女に振り向いてもらいませんとな。」
痛いところを突かれる。
「……わかっとるわ。」
「はははっ。それは失礼しやした。」
大人気なく、むくれてしまった姿を最早誰も責めるようなことはしない。
「お話は終わりまして。」
少し後ろで話していた女性陣が頃合いを見てこちらへと歩いてくる。それに頷くと、今度こそ店の入り口へ向かって歩き出した。勿論、彼女の手を引くのは忘れない。迷いないその動きに、手慣れた様子が伺えて、何だか微笑ましい。
「それでは、大将、女将さん。また明日。」
「ええ。待ってるわね。」
おやすみなさい。とお互い言い合って、北が店の引き戸を引いた。ふとその足元に目がいく。
「……何やこれ。」
「何かありましたか。」
不自然に出入り口で立ち止まる彼の背中から、綾鷹は顔を覗かせた。屈んで何かを拾い上げるその手元を見て、ひゅっと息が止まる。
「匂い袋……やろか。えらい年季が入っとるなあ。」
隣にいるはずの綾鷹へ確認したつもりだったのだが、反応がない。不思議に思って彼女を振り返ると。
「おい、どないした……そない青い顔して。」
華奢な肩がカタカタと震える。手垢で色がくすみ、元の色彩を失ってしまったそれは、持ち主が大切にしていたことが容易に伺えるものだった。かなり派手な柄の着物からできているあたり、花嫁衣装の振袖か何かを再利用したのかもしれない。この柄に、綾鷹は見覚えがあった。
「おい。ほんまにどないしたん。」
どんどん顔色が悪くなる彼女に、悪い予感しかしない。
「……ヒヨリ。」
やっとのことで、彼女はその一言を呟いた。