第五章 召集
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再び2人は口を閉ざす。けれども北の腕は綾鷹から離れることはなかった。歩む速さは先ほどよりも遥に落ち着いていて、店をどこにするか、思案しながら進むには丁度良い。
「……そう言えば大将達、大丈夫かしら。」
ふと思い出したように彼女が不安を口にする。昨夜の記憶を思い返して合点がいった。
「今日は公休日やったなあ。店が心配なんか。」
正直に頷く。もともとお休みを頂く予定などなかった。たまたま女将の計らいで、北と花見に来たのだ。本来なら今頃、店の中を忙しく動いている時間であった。飲み屋「呑んだくれ」は雇いの綾鷹を含めたったの3人で店を回している。似たような規模の他の店と比べると、公休日も営業しているところは珍しかった。それは、大将達ご夫婦のこだわりがあるからに他ならない。
「公休日は特に忙しくなるんです。周りの店はほとんど営業してませんから。」
「そうやなあ。あの辺りやと大将んとこくらいか。」
「ええ。だから普段は別のところで飲んでらっしゃるお客も、今日みたいな日は開いてる店を探して、ウチに辿り着くんです。」
なるほど。そういう仕組みか。最近は暖かくなった事も相待って、酒が美味い。さしずめ、独り身の奴らにとっては、憩の場と化しているわけか。あの夫婦らしい粋な計らいである。
「なら、行ってみよか。」
「へっ。い、今からですか。」
「気になるんやろ。」
それはそうですけど、と気まずそうにする声を無視して、北は歩く方向をそちらへ変える。
「こんな時間に行ったら迷惑になるんじゃあ。」
「大将達のことや、嫌がるわけあれへんやろ。」
むしろ、花見はどうだったか、と迫られるに違いない。独りこっそりと確信する。
「その着物も女将の前で着てやってもええんやないか。」
そう言われてみれば、そうだ。前回、この着物に袖を通した時は店がお休みの日だった。せっかく頂いたわけだし、お礼の意味も込めて一回くらいは見せても良いかもしれない。なんとなくだが、喜んでくれる女将の姿を想像して、足取りが軽くなる。
「それに、客として行く機会も中々あらへんもんや。」
「そうですね。まかないも勿論美味しいですけれど。」
決まりやな。そう答えを出すと、腰元の手を離す。そして改めて綾鷹の目の前へ腕を差し出した。
「あの……北様。」
「ん。手ェ出しい。」
言われるがまま、戸惑いながら白い手を北の腕に乗せる。すると、こうや、と優しく訂正が入った。軽くくの字に曲げられた腕に、内側から腕を入れ、組むように固定させる。両者の距離は先ほどよりも広く、お互いが歩くのに程よい間隔を保てるようになった。
「士官学校におった時、ダンスの授業があった。」
「だんす……ですか。」
「そや。ダンス。英語やな。いわゆる舞踏の授業や。」
舞踏。そんな事も士官学校は教えてくれるのか。綾鷹は見た事も聞いた事もない異国の文化に、えらく興味をそそられた。
「向こうではな、儀式とか式典があると必ずと言ってええ程踊らなあかんのや。」
「……こちらで言う万歳みたいなものでしょうか。」
「ちょっと違うてるけど、まあそんなもんや。」
この国では必ず格式ある式典では「万歳」をするのだが、どうやらハズレらしい。安直すぎたか、と心の中でちょっぴり反省する。
「特に決まった振りはあれへん。けど、守らなあかん足の運びがあんねん。」
「え、振りが無いのにどうやって踊るんですの。」
綾鷹も一応、花街育ちの遊女候補であった。日本舞踊や三味線、お唄には多少馴染みがある。しかし北の話は、そんな彼女の常識からだいぶ外れているようで、見えるはずのない疑問符が彼女の頭上を覆い尽くしていた。
「ワルツゆう曲があんねん。三拍子の曲や。それが向こうでは主流らしい。それを踊る時はな、男女1組で向き合わなあかんのや。」
男女1組で向き合う……。だめだ、うまく想像できない。ますます彼女の表情が曇った。
「では、前もって練習をしておかないといけませんねえ。」
生真面目な彼女らしい返答に、北は素直に笑い声をあげる。
「あははは、そう来よったか。なんや梶らしい考え方やな。」
「だって、そうではありませんか。踊る組みは決まっているのに、振りがないなんて。それじゃあ、どうすれば良いんですのっ。」
土壇場で失敗してしまいますわ、と信じられない顔になる。
「誰と踊るんかは、その場に行ってみいひんと分からん。だから練習する必要はあれへんねん。それに皆んなで踊るから、その心配もいらん。多少失敗しても気にならんしな。」
「皆んなで……。」
「おん。皆んなでや。それぞれの組みが入り交じって、ボールルームゆう広間で踊るんや。」
「それでは、ぶつかったり致しませんか。」
「ん。それを先導するんが男の役目や。女はそれに付いてくだけでええ。」
腕の見せ所やな。と付け加えた。なるほど、それなら予め細かく振りを決めなくても良い。男性側に一方的な負担がかかっている感は否めないが、あえてそれが性別上の社会的地位にもつながっているわけか。おそらく、その出来栄えによっても評価が分かれてくるのだろう。
「なんだか不思議な仕組みですね。」
「ははは、そうやなあ。俺たちからしてみれば、まだまだ知らんことが仰山ある。けど、これからの世の中は、向こうの様式に合わせていかなあかん。この国が列強の一員として認められるためには、な。」
どこか遠くを見つめながら話す北の横顔を、綾鷹はチラリと盗み見てすぐ、目を伏せた。文明開花の波は、こうして目に見えるところまで来ている。そう実感せざるを得なかった。
「踊る相手を誘う時、男は広間まで女を誘導せなあかん。そん時にも作法があんねん。」
そんな些細な場面でも、向こうはやり方が決まっているのか。この調子じゃあ、息をするのにも決まり事がありそうで、無意識に恐ろしさを感じた。
「それが、これや。」
「これ……。」
視線だけで組み合っている腕を指す。
「エスコート言うてな、こうやって腕を組んで連れて行くんよ。」
「……何か特別な意味があるんですの。」
ごもっともな彼女の疑問に、北は少し狙ったような笑みを浮かべて答えた。
「このお人は、俺が正式に選んだ相手や。だから、取らんでな言うんを周りに見せつける為や。」
まさに今、北は直接言葉にする事なく、周りを牽制していた。これは俺のものだ、と。
その意味を理解する頃には、顔が茹で蛸のように赤くなっていた。