第五章 召集
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北は目の前に座る女性を信じられない目で見ていた。いや、その表現には語弊がある。どちらかと言うと、不安を隠しきれない様な、心配が行き過ぎた様な、そんな感じだ。
「梶。お前、自分が何言うたんか分かっとるんか。」
「勿論でございます。」
「そうか……
……いや、あかんやろ。」
一度納得しかけて再び否定する。だって、あれほど嫌っていた過去を抉り出す様な。むしろ、あの時と全く同じ事がこれから待ち受けているのだ。
「梶、気いは確かか。お前、ほんまに何言うとんのか分っとるんか。」
いや、信じられない。信じられそうもない。今一度、綾鷹に迫るように問いかけた。
「勿論でございます。そのお仕事、ぜひ私共に任せていただけませんか。」
彼女は同じセリフを繰り返した。今度は聞き間違えなんかじゃない。もう頭を抱えてしまいそうだ。
「……あの時と同じ事をするんやで。」
「承知しております。」
「引き受けてしもうたら、もう後戻りはできん。」
「分っております。」
「……人を殺さなあかんくなるかもしれへん。」
「覚悟しております。」
淡々と、しかしどれも曖昧にはせず、嫌なほどはっきりとしていた。綾鷹の表情がぶれる事はない。
「……お前が、死んでしまうかもしれへん。」
声が震える。男はここに来て初めて、口を悔しそうに噛み締めた。最悪の場面を想像して。
「北様。そう悲観的にならないでくださいまし。」
鈴のような涼しげな声が名を呼ぶ。ただでさえ愛おしいのに、今はそれが死ぬほど辛い。咽せそうになるのを必死に堪えるように、掌で口元を押さえる。己の力不足に、悔しさに、負けてしまいそうだった。注意しなければ気づかないだろう。北の体は震えている。最後の矜恃でそれを抑える目の前の男とは対照的に、彼女の表情は晴々としていた。そんな2人の相反する様子が、なんとも奇妙な空気を醸し出している。
「北様、私……もう、逃げるのはもうやめにしたいんです。」
綾鷹の細く繊細な指先が、襟の合わせ目をするりと撫でる。そのまま胸元へ流れるようにして止まった。
「お前は逃げてなんかおらんやろ。」
音もなく左右に顔をふる。紛れもない否定の合図だ。
「いいえ。いいえ。私は逃げてまいりました。考える事を放棄してまいりました。辛いからと言う理由で、忘れようとしてまいりました。逃れたい一心で、過去を蔑ろにしてまいりました。」
あの時奪った命さえ、私はなかったことにしようとしてきた。だから、未だ、私は暗闇から抜け出せない。本当はずいぶん前から解っていた。けれど、思い出す事が辛くて、悲しくて、受け入れることをしなかっただけ。逃げていただけだ。そんな自分を肯定していただけ。
「誰しも辛い事は避けたがるもの。私は甘えていただけなのでございます。」
「仕方ないやろ。それが人間ゆうもんや。辛いゆうことに罪なんかあらへん。だから、お前は悪ない。何にも悪ない。」
無条件に認めてくれる。北の優しさに綾鷹は困ったような笑みを向けた。
「あはは……ダメですよお北様。そんな優しい言葉、今の私には毒でございます。……ねえ北様。私考えたんですの。これは何かの運命なんじゃないかって。誰かの悪戯でも、不幸でもなく、そうあるべくしてやって来た事なんじゃないかって。」
あの喫茶店での出来事は綾鷹を再び苦しめるものだった。最近はしばらく見なくなっていた悪夢も復活し、心なしか気持ちの切り替えもうまく行かない。なんだか過去に逆戻りをしたような、時間を遡っているような、そんな日々が続いていた。けれども同時に、己の過去と向き合いたいとも思うようになっていたのだ。そう思えるようになったのは、きっと、いや、絶対に北信介という男と過ごした時間があったから。そう、だからこれは偶然ではない。時期なのだと思った。あるべくして訪れた必然とでも言おうか。
「神なんて信じた事は一度もありませんでした。頼ったことも、勿論ありません。けれども、北様と再びこうして出会ったのは、何か意味があるんじゃないかと。」
今、この時を逃してはいけない。
「北様。だからね、このお話が閣下のお口から出たのも、外国の大使がこの国へ来るのも、それを狙って良からぬ者が動きだすのも、全部全部、繋がっているんじゃないかって。私がもう一度、本当の意味で生まれ変わる好機なんじゃないかって。」
それならば、この話を受けないなんてあり得ないではないか。
「……全ての出来事が私のためにって思うのは贅沢だと解っています。何を小娘如きが、傲りすぎだとも。でも、私はそう思うことにしました。」
穏やかに口を動かすその姿に、北は徐々に冷静さを取り戻していった。彼女の意思を理解する。そして、敵わないな、とも。
「だから、引き受けたいと思ったのです。決して衝動的な、安易な考えではありません。それに……、大切な人が目の前で困っているんです。助けたいと思うのはいけないことですか。」
思わずハッと口元から手が離れた。
「今思い返せば、北様には沢山お世話になりました。……私、罰当たりです。こんなによくしてくださる方、探しても探しても見つからないと言うのに。」
桃色の程よく水分を含んだ唇が、恥ずかしそうにキュッと閉じられる。嗚呼、その姿の何と愛らしいことか。こんな時に言うのもアレだが、見惚れるなと言う方が無理である。北の比較的丸く大きな目が、目の前の女性から離れる事はなかった。まさに釘付けである。勿論、惚けて話を聞き逃すほど抜けてはいないが。
「だからね、北様。もう一度、私とお仕事してくださいませんか。」
何と言えばいいのだろうか。今、俺は大きな選択を迫られている。それにも関わらず、心中は驚くほど穏やかであった。理由は明白である。ね、と小首をかしげて可愛らしく微笑む彼女が余にもこの場に不似合いであるからだ。だがしかし、同時に彼女らしいなとも思えた。
「……時間をくれ。」
じっくり考えるほどの時間は残されていない。そんな事はとうの昔に分かっている。けれども、即決するには惜しすぎた。難しい顔を見て、理解したのか、綾鷹は何も言わずコクリと頷く。窓の外は、茜色の朧げな空が広がっていた。