第四章 再び
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うっすらと茶色が残るカップの底をしばらく眺めた後、アランは顔をあげた。今から話す内容は、言わずもながら極秘とつくものである。もちろんあの時、北に集められた面子以外に話すなど言語道断極まりない。それを本来なら全く関係のない女へ打ち明けなければならないのだから。これがバレたら俺はもう終わりだ。綾鷹の要求を飲んだ時からそう覚悟を決めていた。
「……一月近くも前の話や。あの日は……いつもと何ら変わらん朝やったーー。
その女、元華夜叉五葉やろ。
黒須の一言に、北は思わず立ち上がりそうになるのを咄嗟に堪えた。それと同時に、チラリと出入り口を見る。何の事か分かっていないような顔で佇む部下を見て、内心舌打ちをした。
「そう殺気立つなや。……その様子やと、大方正解っちゅうとこやな。」
満足そうに腕を組む人物を直視することができない。下を向き、力強く握り締めた拳を膝の上に置く。
「北。お前もまだまだやなあ。こない簡単に俺のカマにかかったらあかんで。」
この年齢にしては珍しく、黒須は綺麗に顎髭を剃っていた。清潔感のある口元を撫でながら注意する。しかし、こんな指導も今の北には入るわけがない。それよりも、なぜバレた。いや、なぜ今更この話が浮上するのかと、ありとあらゆる記憶の棚を開けながら理由を探す。そのわずかな時間、優秀な元部下を黒須はじっくりと観察した。顔にこそ出ないものの、焦りが手に取るように伝わる。少々虐めすぎたか、と片眉を上げ、軽く息を吸い込んだ。
「別に、お前とその女の関係を問いただしてるんとちゃう。もうあの街は消えた。今更、咎めることなんか何もあらへん。」
ゴクリと唾を飲む。
「……ただな、もったいないと思うたんや。」
「もったいない……。」
そや、と大きく頷いた。何がもったいないと言うのか。
「……あない実力者揃いの連中は、今ん時代どこ探してもおらん。」
目の前で優雅に腰掛ける男が指す実力とは、すなわち、殺しの腕前のこと。それを分かっていて当然の如く口にする。嫌な予感がした。得体の知れない湧き上がるような不安を、北はぐっと力で抑える。まだだ、まだそうと決まったわけではない。
「……恐れながら申し上げます。彼女らの実力が必要な理由が分かりかねます。」
「……ああ、お前にはまだ話とらんかったなあ。」
一際低くなる声に、さらに拳を強く握った。もはや掌は汗でびしょ濡れである。
「……ええか、北。今から話すことは他言無用や。後ろの奴にもしっかり伝えておきい。」
そう忠告をして直ぐ、黒須の視線がアランへと向く。刺すような鋭さに足が竦みそうになった。とんでもないことに巻き込まれてしまったと、この時初めて気がつく。
「……来る夏、英国から大使が来日するんはもう知っとるな。」
「はい。もちろんです。」
「よし……。今回の来日目的は大きく分けて2つある。一つは御年60を迎える大使夫婦の誕生日旅行、そしてもう一つは島国協定を結ぶためや。」
島国協定。つまりは我が国が英国と手を結ぶに値する国家かどうかを見極めに来るというわけだ。おそらく、来日祝いのパーティーとご生誕を記念してのパーティーも同時に行うだろう。と黒須は続けた。北達は一言も発する事なく、完璧に聞き手へ回る。うんともすんとも言わない2人に気遣うこともなく、男は話を進めた。
「単刀直入に言う。……英国大使は10割の確率で命を狙われとる。」
普段滅多に動くことのない北の表情が、ここまではっきり崩れる瞬間をアランは久方ぶりに目にした。確かにこれは、他言無用の極秘情報。おそらく、上層部でしかまだ開放されていないに違いない。そんなモノを下っ端である我々が知ってしまうことに不都合はないのだろうか。
「……一体、何に狙われていると言うのです。」
「……まだ全貌ははっきりしとらん。だが、十中八九、攘夷志士の残党や。上はそう見とる。」
「そんなばかな。彼らは先の戦で姿を消したはず。」
「だが、根絶やしにはしとらんやろ。」
北が押し黙った頃合いで、黒須はさらに声を抑えた。
「今回の同盟は何が何でも結ばなあかん。これを逃してしもうたら、この国は途端に歩みを止めてまう。」
列強に追いつけ追い越せ。まさに今、この気運が勢いを見せている。そんな中、舞い込んできた絶好の機会。黒須の言うとおり逃すという選択肢は皆無だ。
「ご夫婦には我が国で良え思いをして帰ってもらわなあかん。英国と手を結ぶに相応しいと感じてもらうためや。そない時に命を狙われてみ。心中最悪やろが。」
機嫌を損ねるだけで終わればまだ良い。この話が欧州へ流れてしまえばそれこそ一環の終わりである。何としてでも避けなければならない。目の前の男はそう言いたいのだ。
「……大使夫婦に攘夷志士の存在が知れたらあかん。何より、命狙われてると感づかれたらまずい。」
「では、今からでも奴らの息の根を止めに参ればよろしいかと。」
時折、北は残酷なまでに直接的であった。問題の元が明らかになっているのであれば、ことが起こる前に消せば良い。
「それができるんやったら、とっくの昔に手え出しとるわ。アホ。」
アホと言われ若干ムッとする。後ろに控えているアランも、上司がアホと言われ、同時に顔を少ししかめた。無論、それに気づかない黒須ではなかったが、あえて何も言わない。
「……貴族院の1人が絡んどるらしい。」
本日2度目、北の表情が崩れる。しかし、先ほどと異なるのは、その顔が大層気持ちの悪いモノを
目にしたような、蔑むような表情だったことだろうか。議員ともあろうものが、何と情けない。そして、簡単に手出しができない理由を知る。
貴族院は皇族議員・華族議員から構成されている。国の指針を反した者といえども、お公家様となれば軍でも公に取締ることができない。確実な根拠と証拠を突き出さなければ、やられるのはこちらである。
「気付かれたらあかん。静かに、息するのと同じ、何事もなかったかのように仕事をせなあかんのや。」
そないことができる集団は、華夜叉以外に俺は知らん。そう言い切る。相当腕を買っている発言、そしてそれが何を意味するのか考えた時、何も言い返す事ができなかった。
間者として敵陣へ潜入することはあっても、我々に隠密行動を専門とする部署はない。それを生業としている者に比べれば、出来は悪い。しかし……。
「しかし、大使来日まで四月も時間があります。我々で何とかーー。」
「分からん奴やなあ。」
黒須は意図的にその先を言わせなかった。
「俺らが手をつけたらあかんねん。少しでも跡がついてまう。徹底的に隠す必要がある言うたやろ。」
有るモノを隠すのは苦労ものだ。嘘を重ねばならない。だが、無いモノを無いと言うのは簡単である。だって、それは存在しないのだから。黒須が言っているのはそう言うことだ。つまり、此度の攘夷志士による英国大使暗殺の計画は、どこの誰とも知れない存在によって抹消される。万が一このことが明るみになってしまっても、それは軍部とは一切関係ない。知らぬ存ぜぬと話が通ってしまうというわけだ。手を汚さずして、悪を排除しようとする。正直、正義とは一体何であるか、そう悩まずにはいられない卑怯な手口だ。勝手に双方が衝突して、そして消えていった。その物語の役者に、華夜叉はもってこいである。
北は息遣いが荒くなるのを、どこか俯瞰したところで見ていた。煮えたぎる鍋のように怒りが沸沸と湧いて出てくる。認めるわけにはいかない。何としてでも止めなければ。
「……それでは、まるで……まるで、捨て駒やないですか。」
「……そうや。」
もう我慢ならなかった。勢いよく立ち上がる北の背後で、重たい椅子が転がり倒れる音がする。今までで見たこともないほど、怒り心頭していた。彼女に訪れた、平凡な日常が再び崩れようとしている。それも、己の属する軍という組織によって。やっと太陽の下を歩けるようになったというのに。それでもなお、彼女は過去に囚われているというのに。必死にもがき、抜け出そうとしているというのに。それを心から願っている自分が壊すというのか。この手で。震える拳にふと目が行った。
「何もただでとは言わん。事がうまく行ったら、其れなりの礼をするつもりや。」
「礼……。一体何を。」
「……戸籍や……。」
花街育ちの彼女達にはきちんとした戸籍がない。金欲しさに売られてきたり、はたまた人攫いにあったりと散々な身の上の女が多いからだ。また、そう言った環境下では戸籍はおろか、出生届すら出されていない娘も珍しくなかった。一昔前なら、戸籍がなくたって問題なく生きていけた。だが、今はどうか。色々と難しい世の中になってきている。働くにしても、何をするにしても、己がこの国の国民であると証明できるものがなければ、成せない事が増えてしまった。きっと、何か不自由を強いられているはずだ。これは本人の努力次第で解決する問題ではない。確実に痛いところをついていた。
「お前にとっても悪い話やないやろ。」
唐突に矛先が北へと向く。話の内容が分からず、思わず眉根を寄せた。
「よお考えてみ。……もし、その女に戸籍が出来たら、お前と家族になるのも夢やない。……そうは思わんか。」
北はしかめていた顔をハッとさせる。綾鷹との未来を想像しなかったわけではない。むしろそう望まずにはいられないほど、思いを寄せている自覚がある。しかし、そんな秘めた願いをこんなところで天秤にかける日が来ようとは。これは希望だろうか、それとも絶望だろうか。
「北。……お前があの女とどういう仲かは、この際関係あらへん。……惚れてるんやったら、それでも良え。けどな、お前は男である前に、軍人やろ。」
これは決定事項や、と無情に言い放つ黒須を前に、北は何も口にはしなかった。力なく倒れた椅子を元に戻し再び腰掛ける。俯いたまま、彼の表情は分からなかった。
「酷なことを言うとるのは重々承知や。……細かいことはお前に任せる。呉々も……な。」
そこまで言い終えると、男は音もなく立ち上がり部屋を出て行った。アランは敬礼をしつつ、すれ違い様黒須の顔を見る。何やら思い詰めた表情の横顔を意外に思いながら、その背を見送った。振り返れば消沈している背中がある。華夜叉五葉やら、隠密行動やら、アランにとって珍紛漢紛な内容であったが、北が絶望していることだけは手に取るように分かった。