第一章 再会
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右手にはあの人が好きだった椿の枝を。左手には手桶とその中に水と柄杓を。
本格的な冬の季節とは言え、お日様が真上にいるこの時間帯はポカポカとしている。それに、久しぶりに長距離を歩いたことも重ねて、汗ばんでもいた。今日は珍しく仕事を休んだ。毎年、この時期にお休みを頂いていることもあり、ご夫婦は快く頷いてくれた。かれこれ、あの店でお世話になって3年が経つ。本当にあの人達には感謝しかない。素性の知れない私に、働き口と暖かい居場所を提供してくれる。何より、一切、私の過去に干渉しない。梶綾鷹という人物を真っ直ぐに見つめてくれる。初めの頃は、その目がとても恐ろしかった。いつか嫌われてしまうのではないか。いつか捨てられてしまうのではないか。いつか、過去の私に辿り着いてしまうのではないか、と。けれど、あの人達と沢山の時間を共有するうちに、そうではないのだと思えるようになった。その証拠に、北様と再会してしまったあの後も、その事について触れないでいてくれる。一度、その温もりに触れてしまえば、あっという間に掛け替えの無い存在となってしまった。もういい加減、いいのかもしれない。悶々と考えながら、黙々と歩いていると、見慣れているのに懐かしい景色が広がる。墓石もなければ、名前も無い。だたの人が見れば、ここが墓だとは思わないだろう。まあ、そもそも、遺体なんか眠っていないのだが。
「14年になります。姐さん。」
昨年生けた枯れ枝をその辺へ放って、持ってきた新しい花を用意する。今年は椿にしました、と一言添えて。掃除をするような立派なものはないが、ここは気持ちが大事だろうと、毎年のように欠かさず掃除道具も持参する。自分は案外、形式というものにこだわるのだと気がついた。小高い峠に位置するこの場所は、天気が良ければ辺りが一望できる。今日は気持ちの良い日本晴れだ。そう言えば、ずいぶん幼い頃、鳥になりたいと話した事を思い出した。どうして、と聞かれ、なんの疑いもなく自由だからと答えたことを覚えている。それを聞いて姐さんが「素敵ね、でも飛ぶのって疲れそう」と言ったのだったけ。
「姉さんはね、お花になりたいわ。とりわけ椿になりたい。」
視線だけで、どうして、と問いかける。
「立派じゃなくて良いの。けど、見晴らしのいい景色の綺麗な場所で咲きたい。自由じゃないけれど、毎年のように美しく咲けば、誰かが訪ねてくれるでしょう。もしかしたら、良いお家にお招き頂けるかもね。そうすれば今みたいに寂しくないし、悲しくなることもない。」
そもそも花は動けないのだから、疲れることもないしね。と楽しそうに話す姿が、なんだか疲れ切って見えた。私がそばにいます。言いたくても言えなかった。
姐さんと私は同郷だ。その人の禿として私が付いていた期間は短い。けれども、共に過ごした時間は、何よりも濃かった。本当の姉のようで、家族のようで、そして、死してなお私の中で生き続ける人。もう一度会えるのなら、会いたいお人。そして、私が守りたかったお人。そこまで考えて、背中の傷が痛み出す。慌てて立ち上った。思考の渦に巻き込まれるのはもうごめんだ。
「帰ります、姐さん。また来年。」
来年も、そのまた次の年も、変わりなくこの場所へ来れる事を密かに願いつつ、来た道を引き返した。
いつもの時間に店の暖簾をくぐる。すると、驚いた大将と目があった。
「北様、いらっしゃいませ。大変言いづらいのですが、本日、綾鷹はお休みをいただいておりまして……。」
そうか、そういう日もあるのか。ここ毎日通い続け、決まっていつも彼女がいた。当たり前の日常。彼女にも都合があるのだという事を、すっかり忘れてしまっていたらしい。
「かまへんよ、大将。今日もええか。」
「勿論です。」
今日は珍しくお客が多い。つい癖で、仕事帰りの格好のまま来てしまった。軍服姿の自分に自然と視線が刺さる。さらに珍しく、いつも腰掛ける席がすでに埋まっていた。今日は珍しい事ばかりだなと、ひとり思う。
「……えらい賑やかやな。何かあったんか。」
小さい店に、ひしめき合うように座る客を見て、大将へ尋ねた。聞かれた大将は苦笑いで答える。
「いやあ、私もよく分からないんですがね。何やら先日から、絵の品評会やら展示会やらがあって、駅近くにある大きなホテルが来賓客でいっぱいなんだそうです。そんで、いつもだったら、そこへ泊まる一般のお客らがここいらの宿まで溢れちまって。」
なるほど、普段ならそのホテルとやらに泊まる旅の連中が、今は代わりにこの辺りで宿を取らざるを得ないのか。それなら普段、静かなこの辺りも騒がしくなるわけだ。
「大変やな。いきなりやったろ。」
全くです。けど、稼ぎ期には違いありやせん。と屈託のない笑顔を見せた。女将さんも、あっちの席へ行ったり、こっちの席を片付けたりと忙しそうだ。店に入った時、軽く頭を下げてくれたが、それ以来目も合わない。
「梶は体でも悪いのか。」
今日の話す相手は専ら大将であった。自然とここには居ない彼女の事を尋ねる。
「綾鷹ちゃんは毎年、この日に決まって休みを取るんです。詳しいことは知りませんが、どこか遠出をするらしくて。」
遠出か。一体どこへ行くのだろうか、と彼女の行き先に思いを馳せる。
「私たちも、彼女の素性はよく知りません。」
この街では、素性を聞く事は禁忌にも近い。
「恥ずかしい事に、私たちには子供がいませんから、彼女のことは最早、娘のように思っています。綾鷹ちゃんがどう感じているかはハッキリしませんが、少なくとも、彼女の居場所になっているのだと。」
というよりも、聞く必要が無いと思っています。彼女は悪い人じゃない。それだけで十分ですから。そう続ける。
「梶はええ人達に出会うたんやな。」
照れるようにして、首の後ろを大将が掻いた。店仕舞いの時間まで居座るのが常だったが、今日は早めに切り上げようと思った。
不覚にも遅くなってしまったと思いながら、駅を出る。いや、想定外に人が多く、どこもかしこも混雑だった。自然と小走りになる。無事、姐さんの墓参りも済ませ、あとは家に帰るだけだ。明日はまた、店へ出なければならない。白い息を細く吐き出して、ふと前を見た。長屋近くに立つガス灯の下に一人、男の影が見える。緊張が走った。誰だ。
「……北様。」
こちらから声を掛けるのは初めてではなかろうか。私の声に気づいた北は、正面に向いていた体をこちらへ向けた。
「走ってきたんか。息が切れとるで。」
体、鈍りすぎや。クスクスと笑う北に青筋が浮かぶ。現役のあなたと比べないでいただきたい。
「鍛える理由がありません。」
ここは真っ向から答える事にした。そうだ、別に恥じることはないのだ。そこら辺の婦人と何ら変わりない。少し身のこなしに覚えがあるくらいで、それ以外は何も。
「そうやったな。すまん。」
まただ。また、あの「おやすみ」と同じ顔をする。勝手にムッとしていると、目の前に二つの包みが現れた。
「大将と女将からや。遠出したんやろ。」
なんということだろうか。ほのかにする香りでお焼きだとわかる。包みを開けなくてもそう確信してしまった。実を言うと、今日は外で夕食を済ませるつもりだった。帰りが夕方ごろになる予定だったからだ。しかし、この混みよう。どこもかしこもいっぱいで、食事は諦めていたところだった。有り難さが込み上げる。さて、一つは働き先のご夫婦から。では、残り一つはーー。
「これは俺からや。甘いもんも、好きやったろ。」
なんと言ったか、この甘味は。小麦粉を練ってお煎餅みたいに平たくして、焼いたもの。けれど、お煎餅みたいにパリパリしていなくて、しっとりと口の中で溶ける。以前、お客がそう話していた代物だと気づいた。
「クッキーゆうんやと。知っとったか。」
部下がこれを女性に差し入れたら、たいそう喜ばれたと話していたのを耳にして、今回買ってみた。顔色を伺ってしまうのは、仕方がない。
「……話には聞いておりました。けど、本物を見るのは初めてです。」
静かに、ありがとうございます、と彼女が言う。心が浮き足立つのを感じずにはいられなかった。さよか、と鳥肌が立つくらい柔い声が出る。紅茶との相性が抜群だと、買ってきた店の者が言っていた。今度は茶でも送ろうかと思う。
どのくらい二人でこうしていたか。時にして数分か、それともたった数秒だったか。目の前の彼女が不意にふるりと震えた。
「今夜は冷える。暖かくして寝るんやで。」
ああ、名残惜しい。そう感じるのと同時に、もみ上げ近くの後毛をそっと耳へかける。ほとんど無意識だった。一瞬びくりと違う意味で揺れた彼女の反応で、自分のした事を知る。しかし、今更、手を引くことはできなかった。まるで陶器の器を指の腹で愛でるように、その頬を数回撫でる。
「また、明日。……おやすみ。」
あの夜と同じセリフ。けれども、今日は一段と気持ちが籠もっていた。家へ帰るためにくるりと向きを変えた彼女の背を見送って、ようやっと足を動かす。その帰り、何を考えて帰路についたかは正しく覚えていなかった。