第四章 再び
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さてさて。冷め切ってしまう前に白湯を口に含む。雨足はだいぶ穏やかになってきたが、この宿を動けない理由が2人にはあった。
「で、本題でございます。なぜ、このような大事なお話。黙っておいででしたのか。」
元々、こんな気まずい雰囲気になってしまった原因はそこであった。アランから聞いた話が本当のことだと、益々現実味を帯びてきた今、それをこの場で質さずにいつやるというのか。浴衣に着替えた北が、改めて姿勢を正す。静かに彼の言葉を待った。
「まず、なしてその話を知っとるのか聞くのが先や。」
北も北で、すんなりと話してくれるわけではなさそうだ。本来なら、綾鷹に知られてはならなかったわけだから。眼光がお互い鋭くなる。
「……等価交換でございます。」
「等価交換……。何と何を交換したんや。」
つい一月前のあの日を思い出す。
「それはーー。
「アラン様。私と取引いたしましょう。」
「取引……。」
アランは綾鷹の口から出た言葉をそのまま繰り返す。
「左様でございます。アラン様は私の過去を、私は北様の秘密を。……それをもって等価交換といたしましょう。」
それ以外は交渉に応じる気はない。そんな硬い意志がそこには鎮座している。眼光鋭く、自分よりも遥に背の高い男を綾鷹は睨み付けた。
条件を飲む意味も込め、アランは再び向かい合うよう腰掛ける。その様子にひとまずホッとした綾鷹は改めて居住いを正した。これから話すことは北にさえ打ち明けていない過去だ。緊張が顔に現れないよう、ぐっと腹に力を込める。先に口を開いたのは意外にもアランの方であった。
「……話をする前に、一つ尋ねさせてくれ。」
「なんでしょう。」
そう切り出したものの、言葉を選んでいるのか、すぐに男は問いを口にはしなかった。じっと綾鷹は待つ。
「……華夜叉五葉って何なん。」
しばらく待って彼から出た言葉に、どきりと心臓が脈打つ。じんわりと掌に汗が滲んで、綾鷹は無意識に拳を膝の上で握った。
「お前と関係があるんは分かっとる。けど、それが一体何なのか、よお知らんねん。」
あの日、突然黒須が北達を尋ねてきた現場にアランも居合わせた。彼らは何ら疑問も持たず、華夜叉の事を話していたが、アランにとってはちんぷんかんぷんな事ばかり。事前知識の不足を実感しただけで、話の本筋をあまり理解してはいなかった。
「……北様にはお尋ねにならなかったのですか。」
「最初はそうしようかと思っとったんやけど……えらい北の落ち込み様に切り出せんかった。」
居心地が悪そうに、そう白状したアランを綾鷹は白い目で見る。
「……今更ですが、アラン様って意外とーー。」
「わああああああっ。分かっとる。それから先は言わんといてやっ。」
アランの大きな声と同時に目の前に現れたこれまた大きな手が、彼女の言葉を遮った。予想がつくかと思われるが、目の前の男は意外と繊細らしい。また、丁度その時のことが蘇ってしまったのか、今度は恥ずかしそうに視線を彷徨わせる。人は見かけによらないものだ。ごほん、と一つ咳払いをして軌道を元に戻そうとするあたり、自覚症状はあるらしい。
「で、何なん。その華夜叉五葉ちゅうのは。」
一つ、ふうっと短く息を吐き、綾鷹も気持ちを元に戻す。それと同時に軽く目を閉じ、どこから話を始めようかと思案した。
「その事をお話しするにあたって、まずは私の過去から。」
アランの片眉がピクリと動く。そう話を切り出した彼女の雰囲気から、「華夜叉五葉」と目の前の女の関係が深い事を自ずと悟った。それならば、一言一句逃すわけにはいかない。無意識に前屈みに構える。
「……アラン様は、私が一体何者だとお考えですか。」
昔々あるところに、と話が始まるかと思っていた。しかし、彼女が実際に口にしたのは昔話でも、御伽話でもなく、何者だと思うかという質問である。質問を質問で返されたせいで、少々出鼻をくじかれた気分だ。
「何って……。今は飲み屋の女給やろ。」
「ええ。その通りです。……ではその前は。」
その前……。アランはあの夜、飲み屋「呑んだくれ」を出て後、帰路の途中で侑と交わした会話を思い出した。
「アラン君……今日一日、あの女のこと見とってどう思うた。」
寒空の下、澄んだ空を見上げて、おずおずと侑が尋ねる。つい先ほど、忘れものを取りに戻ると北が踵を返した。おそらく、彼がいる手前、なかなか言い出せなかったのだろう。
「そうやなあ。これと言った収穫は無かったなあ。……お前はどおや。」
逆に侑はどうだったのかと問うた。
「……只者やない言うんはもはや疑いようが無くなった。」
そこにはアランも激しく同意する。しかし、かと言って悪者というわけでもない。時折垣間見える無意識の笑顔がそれを物語っていた。ますます判断に困るというもの。
「なあ……俺はあいつから夜の匂いがすんねん。」
「夜。」
「せや。……なんやろうか、ほら、時々上の付き合いでそういう店に行くやろ。」
つまりは、欲を吐き出す場所。そういう所である。若干、気まずい雰囲気が漂ったが、それも一瞬であった。
「確かに、何かに似とるとは感じとったけど……。」
「俺の勘違いやったら申し訳あらへんけどな。」
ここまで話して、ふっとため息をはく。吐いた息が白く舞う様子をぼおっと見ていた。
「……意外とそうかもしれへんよ。」
「……なしてそう思うん。」
「うーん、よお見とかんと気付かへんけど、あの女、所作が綺麗やねん。なんか、もてなし慣れてるゆうか、そういう世界に長らくおったんかなあ、と。」
侑の見解にアランは素直に感心した。綾鷹の店での振る舞いかたを今一度思い出す。
「確かになあ。背筋もピシャんとしとったし、足音も静かや。気もようきくし、一瞬、あの店がどこぞの料亭かと思ったくらい。」
2人揃ってうんうん頷く。と、ここでキョロキョロと侑が徐に周りを見渡し出した。ぐっと先ほどよりも小さな声で話しだす。
「……それに、ここら辺て元々大きい遊郭街があったんやろ、昔。」
何だ、こいつ。そんな事も知っているのか。あの街が消えたのは今から三年ほど前だ。その頃、こいつらはまだ学生にもなっていなかったはず。風の噂で聞きでもしたのだろうか。
「街は消えてしもうたけど、まだそう言った店は残ってるゆう噂やん。」
「そうやなあ……。」
そこまで話したところで、彼らの意見は纏まりつつあった。彼女が遊郭街で仕事をしていた可能性は大いにある。彼女の年齢を考えても、決してありえない話では無かった。
ここまで思い出して、意識を目の前へ戻す。
「丁度、侑とこの話になったことがあってん。」
「この話……。」
「おん、お前は一体どこから来たんやろなってな。」
綾鷹は数回瞬きを繰り返す。こんなしがない女給1人。自分のいないところで、まさか話題にあがていたとは夢にも思っていなかった。
「お前に初めて会うた時、夜の匂いがしよった。」
綾鷹は軽く目を伏せる。
「……概ね合ってるやろ。」
圧を逃すように詰まっていた息を吐く。そして素直に頷いた。さあ、答え合わせの時間だ。
「流石でございます。アラン様。」
ふふっと上品に微笑む彼女から正解をもらいアランは前屈みになっていた上体を背もたれに預ける。それと同時に腕を組んだ。表情には出さないが、内心得意げになる。
「しかし、侑様がまさかあの街のことをご存知とは。」
「それな。俺も同じように思うたわ。」
指先を美しく揃えた手で口元を隠す。その所作に見惚れてしまったのはここだけのこと。彼女が遊郭の出だと知ったせいか、今まで以上に綾鷹の動き一つ一つが色っぽく見えてしまう。男とは所詮、単純な生き物なのだ。
「……生まれは東北でございます。貧しい家でしたので、まあ家族のためにこちらへ参りました。兄妹の中で女は私1人でもありましたので。」
珍しい話ではない。田舎の貧しい家、とりわけ農家では食い扶持を減らすため、子供を山へ捨てるところもあると聞く。それに比べれば彼女はまだ幸せな方だ。それを綾鷹自身よく分かっているのか、身の上を話す姿に不満や恨みなどは一切なかった。
「幾つくらいや。」
「6つだったかと……ごめんなさい、あまりよく覚えていないんです。」
小さいなあ。それがアランの率直な感想である。6つと言えば、まだ親が恋しい時期だ。どんな幼少期を過ごしたのだろうか。アランという男は情に脆い。目の前の女以上に彼女の身の上を哀れんでいた。その様子に綾鷹はふわりと微笑む。
「運よくも、私がお世話になった店はかなりの老舗でしたので、アラン様が思うほど辛いことはありませんでしたよ。」
「そ、そうかっ……。」
そう柔らかく言われ、動揺を隠せない大男の姿に益々綾鷹の表情は緩む。北もそうだが、この方達は大層お優しい。こんなんで仕事になるのだろうかと、時々不安になってしまうほど。本来なら、この場に似つかない優しい空気が今は2人を囲んでいる。
「それに、お付の姐さんがたまたま同郷でしたので、ちっとも寂しくなんてありませんでした。」
着物の合わせに手を当てて、当時のことを思い出す。もうずいぶんと時間が経ってしまったが、姐さんの顔も声も過ごした思い出も、全て鮮明に覚えていた。
ここで伏せていた目を、目の前に座る男へと向ける。
「ところで、アラン様と北様は昔からの仲でいらっしゃるとか。」
「何や、知っとったのか。」
「ええ。以前北様が話してくださいましたから。」
「北はお前にはよお喋るなあ。」
感心と呆れが混在するような声色だ。珍しいことなんだと理解する。彼女の前だと、北という男は変わってしまうようだった。おそらく、惚れた弱みと言われるものなのだろう。
「……12の頃でしょうか。姐さんがなくなってしまったんです。」
一瞬の変化であった。スッと彼女から温かみが消え去る。その変わりようににアランは内心ぞわりと身震いした。
「なして死んでしもうたんや。」
勇気のいる一言。しかし、聞かずにはいられない。座りながらも両足に力を込め、彼女の返事を待った。
「ある時、姐さんを贔屓にしてくれていた上客が乗り込んできたんです。」
「何のために。」
「それは……
心中するためにーー。
ゴクリと唾を飲み込む音がここまで聞こえた。