第四章 再び
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「部屋は二階の角だよ。間違えないでおくれ。」
薄暗い廊下を歩いた先に、これまた薄暗い階段が現れた。彼らが雨から逃れるために選んだ場所は、どうやら宿だったらしい。この桜の季節しか営業していないと、先ほど部屋を用意してくれた女将から教えてもらったばかりだった。従業員もおそらくあの老婆1人だけ。ミシミシと音を立てる廊下を無言で歩く。曇ってしまったばかりに、気温もぐんと下がったように感じた。
「ここやな。」
「ええ……。」
女将の台詞を頭の中で繰り返す。二階の角部屋。雨が弱まるまでの少しの間、これから2人はこの空間で時を過ごす。綾鷹の家よりも立て付けの悪い引き戸を開けると、7畳ほどの和室が現れた。湿気で充満した空気を入れ替えるべく、すぐさま二箇所の窓を開ける。
「……とりあえず、座ろか。」
北の合図で一緒に腰を下ろす。向かい合って座ったはずなのに、視線は交わらなかった。
どれくらい黙りを決め込んだろうか。雨音はいまだに止まない。むしろ彼らの様子を表すかのように強くなる一方だ。この宿へ入って最初の頃、言い方はキツかったが気の利く女将から手拭いを2枚ほどいただいた。それを使って濡れてしまった頭や肩を拭く。黙って拭く。何かの儀式かのように黙々と拭く。誰もが言の葉を発する機会を窺っていた。
チラリと綾鷹は北を見る。そしてすぐに視線を逸らした。突然の雨に間を刺され、慌ててここへ逃げ込んだはいいものの、状況は何一つ変わらない。気付かれないほどの小さな溜息を吐く。いつまでもこうしてはいられないものだ。何かきっかけを見つけなけれーー。
クシュンッ。……クシュ、クシュ、クシュンッ。ズズズ……。
思わず顔をあげる。はて、この可愛いくしゃみは誰のものか。
「北様……。」
「す、すまんっ。クシュンッ。気にせん、クシュンッ、クシュンッ。……気にせんといてや。」
ずるずるずる。いや、鼻の天辺を赤くして言われても……。数回瞬きをして、申し訳なさそうに縮こまる目の前の男を見た後、綾鷹は緩やかに腰を上げた。
「梶っ。どこへ行くん。」
少々焦った声で北が綾鷹の行先を尋ねる。何も言わず立ち上がったせいで、逃げるとでも思ったのだろうか。
「女将へ白湯でもいただけるかどうか尋ねて参ります。」
洋装のいいところは軽くて動きやすいというところ。けれども、それは同時に薄着でもあるということ。その証拠に、白く清潔感のあるシャツの下から肌色が薄らと透けて見えていた。着物の綾鷹に比べ、北の方が体温を奪われてしまったらしい。
「何か温かいものを入れないと。お風邪を召しては大変でございます。」
すまん。と一言返される。その言葉に軽く頷いて再び薄暗い階段を降りていった。
ミシリミシリ。彼女が一歩を踏み出すたび、床が音を立てる。その音が段々と遠ざかっていくのを耳にして無意識に己との距離を測った。あるところで音が止み、床を擦る様な音が再び聞こえる。階段を降りて薄暗い廊下に出たのだと分かった。ここで大きく息を吐く。力を込めていた両肩をストンと落とし、行儀よく座っていた足を前へ投げ出した。我ながら情けない。楽しい花見になるはずだったのに、まさかこんなことになってしまうとは。
「……情けないなあ。」
湿った前髪をぐしゃりと片手で握る。もう一度、溜息を吐いて後頭部へと撫で付けた。その勢いであまり綺麗とは言えない畳へ寝そべる。年季の入った天井の木目をぼんやりと眺めながら、綾鷹の帰りを待つことにした。
「アランのやつ。梶と会うてたんか。」
いつだろう。いつ、梶はアランと話をしたのだろうか。あの時の様子では、任務の内容はほぼ知っている風であったが、どこまで話をしたのか。極秘任務の意味はどこへ。そして、アランからそういった報告は一切受けていない。梶には黙っているように、と前もって釘を刺してしまったのが裏目に出たのか。考えれば考えるほど沼に足を取られるような、そんな気分になった。
「……帰ったら説教やな。」
自傷じみた笑みが漏れる。アランに全ての非があるわけではない。ああ見えても、あいつは意外と慎重派だ。何か考えがあってのことだろう。そう分かってはいるものの、命令違反には違いないので、何らかの形でけじめはつけねばならなかった。しかし、そんなことよりも今はーー。
「婆ちゃん……俺は梶に何て言えばええんやろか。お天道様は見ていてくれへんかったんやろか。」
それとも、見ていた結果がこれなのだろうか。
北にとって初めてのことだらけだ。一生モノにしたいと思った相手が現れるのも。実際に親しくなろうと努力をするのも。そして、それが上手くいかないのも。全てが初めて。こんな時、侑だったらどうしただろうか。あいつはよくモテる。世渡りも上手いし、何よりこの方面において、北よりも経験豊富であろう。矜恃がある分、現実に相談することは無いが、心のどこかで助けを求めるくらいなら許されるはずだ。そう、北は今、そのぐらい追い詰められていた。何がいけなかったのか。どうして上手くいかないのか。必死に考えていた。
「ただいま戻りました。」
立て付けは悪いくせに、無駄に厚みのある引き戸の外からくぐもった声が聞こえた。綾鷹が戻ってきた。北の返事もろくに待たず戸が開くあたり、まだ怒っているのだろう。頭を戸へ向けて仰向けで寝そべっていた北は慌てて上体を起こし、振り返った。
「……お気分が優れませんか。横になっておられたようですが。」
「いや。なんでもあらへん。気にせんといてや。」
はあ、とわざとらしく返される。彼女の手には二つの湯飲みが載っている盆と、畳まれた浴衣が一着。不思議に思って尋ねてみた。
「湯飲みの他にも、何かもらえたんか。」
「ええ、お着替えを。」
「着替え。」
「そうです。……お洋服、雨が止むまでに乾かないと思いまして。」
その台詞と同時に自分を今一度確認する。確かに、先ほどよりはマシになっていたが、この短時間で完全に乾くことは無いだろう。なんと、彼女は気を聞かせてくれたらしい。差し出された浴衣を受け取って、ついつい目の前の女をまじまじと見てしまった。
「……なんですか。」
「いや。もう怒ってへんのかと思って。」
「怒ってますよ。怒っているに決まっているじゃありませんか。」
ぎゅっとわかりやすく寄った眉間のシワに、うう、と言葉が詰まる。確かに、怒りが治るようなことはまだ何もしていない。未だ。
「まずはお着替えください。いつまでもその形ですと、本当に体を悪くしてしまいます。」
話はそれからにいたしましょう。そう言われ、特に反対する理由もなかった。そのまま言う通りにする。浴衣を受け取り広げたところで、ふと再び綾鷹が立ち上がった。
「待て。どこへ行くん。」
「へっ。お着替えなさるんでしょう。」
「そや。……そやけど、なしてお前が出ていかなあかんねん。」
絶句である。この男何を考えているのか。嫁入り前の、多少行き遅れているものの、決して初々しく若くも無いが、一応、未婚の女性の前で着替えるつもりであったのか。肌を見せるつもりだったのか。いや、綾鷹の場合、全く恥ずかしがるような、そんな初心な心はもうありはしないのだが。それでも、それでも体というものがあるだろうに。そうこうしているうちに、脱ぎ脱ぎと衣服を崩し始めた北を見て、綾鷹は慌てて部屋を出る。そして頭を抱えた。
部屋の戸を閉めずにおいて良かったとこの時思う。出入り口を出てすぐ横の壁に背中を預けた。真後ろにある部屋の中からは布が擦れる音がして、最後にぎゅっと帯を締めた様子が窺えた。そう言えば、綾鷹が風邪をひいて丸一日近く寝込んだ時も、似たようなことがあった。あの時は綾鷹が脱ぐ側であったが。今と状況は対して変わらず、北は部屋を出て行こうとはしなかったなあ。
「もうええで。」
過去の出来事を思い出していると、そう北が綾鷹へ教えてくれる。恐る恐る中を覗いて、きちんと衣服を着ているかを確認した。この数時間で軽く人間不信になりそうだ。いや、北不信か。
「なんや。俺もお前もそない恥ずかしがるような仲やないやろ。」
その一言には色んな意味が込められている。北も綾鷹も普通の人間では無い。綾鷹は言わずもながら遊郭の出身で、なおかつ華夜叉という陰の組織で動いていた。男女のあれこれなど腐る程見てきた過去がある。一方で北の方も仕事の関係でそういった場所に赴く機会など何度もあったはず。それになんといっても、彼らは不可抗力と言えども接吻をした仲だ。不可抗力と言えども。大事なので2度言う。そこまでやっておいて、何を恥ずかしいと言うのか、と北は言いたいのだろう。
「……おっしゃりたいことは分からないでもありませんが、親しき仲にも礼儀ありと言いますでしょう。私にも配慮してくださいまし。」
もはや呆れを隠すことなく言う。遠慮してしまうと、もっと面倒臭いことになると思ったからだ。
「俺とお前は親しいんか。」
「……ええ……。」
どうしよう。予想外すぎる返事が返ってきた。ちなみに、この「ええ」は困惑の「ええ」である。決して肯定しているわけではない。
「梶は俺と親しい仲やと思ってくれとったんか。」
戸惑う綾鷹とは裏腹に、今まで影を背負っていた目の前の男の空気が一瞬にして明るくなった。心なしか、頬がほんわり赤らむ。目に見えてわかりやすい素直な変化に、思わず顔を逸らさずにはいられない。北につられ、こちらも思わず頬に熱が集まる。
「……北様は、親しくも何ともない方とお出かけなさるんですか。」
「いや。せえへんよ。」
即答である。
「でしたら、私とも一応、親しい仲となりませんか。」
今度は何やらキラキラと輝く発光物質が北の周りに散り出した。もちろん実際にあるわけではない。そう言う風に見えたのだ。
「そうか……俺と梶は親しい仲か。」
「ええ。……てっきりそう思っておりましたが。……私の勘違いでございましたか。」
瞬く間に悲しげな表情に変わる。その様子がクーンクーンと主人へ甘える大きな犬の姿と重なった。おや、北様ってこんな方でしたっけ。
「私も、もう恥ずかしがるような歳ではございません。ですが、体面というものがありますでしょうに。」
「せやな。……今後、気いつける。」
何卒、よろしくお願い申し上げます。と強く願ったのは、後にも先にも今日ぐらいだろう。