第四章 再び
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北は数分前の己をとことん恨んでいた。とりあえず、スタスタと先へ行ってしまった綾鷹の背中を捕まえるべく小走りで追いかける。
「梶っ。待ってくれや。」
いつもより早く歩く綾鷹に比較的早い段階で追い付いたは良いものの、呼び掛けた声には反応がない。再び機嫌の悪い背中に声をかけた。
「梶。」
「……。」
「梶っ。」
「……。」
綾鷹は考えていた。今の自分は大変大人気ない。揶揄われてしまったことに対してもそうだが、コレっぽっちで腹を立ててしまう己の器量にも不満があった。どうしてこう、北の前だとうまくいかないのか。よく女心は何とやらと表現されるが、今の自分は山の天気もおったまげる程不安定だ。
この男は根気強く名前を呼び続ける。嗚呼、このお方は何て気の毒なのだろう。私のような悪い女に、どういうわけか興味を持ってしまったばかりに。もし、私と出会いさえしなければ、きっと今以上に幸せになれるはずなのに。その素晴らしい容姿と人間性さえあれば、どこぞの令嬢とでも今頃良い中になっていただろう。いや年齢も考慮して幸せな家庭を持っていてもおかしくはない。それに加え、恵まれた環境、少佐という社会的地位。それに加え北は優秀な部下も持っていた。だいぶ個性とクセの強い面子ではあったものの、心の底から彼らは信頼しあっている。誰もが北を愛し、北も彼らを愛していた。その証拠に、ほら、この間のアランの行動もきっと原動力はそこなのだ。天は彼に二物も三物も与えた。平等という言葉は一体誰が思いついたというのか。甚だ可笑しい。と、そこまで考えたところで、いや待てよ、と思考が止まる。
そういえば、アランとお茶と称する密会を行って、かれこれ一月近く経つのではないか。まあ元々、男の「必ず」という言葉に信頼は寄せていなかったが、北ならば、万が一があり得るかもと期待していたのも事実。現実あれ以来、肝心な話は一切ない。まあ、事のあらましは概ねアランから絞り取るように聞いている。それゆへ、話の内容は大体把握しているつもりだ。しかし、その中身が分かっているからこそ、尚更、この男から直接話を聞かねばならないというのに。その時は一体いつやってくるのだろうか。いつまで待てば良いのか。気づけば北の調子に振り回されている自分がいる。悔しい。嫌だ。腹立たしい。
いつの間にか、綾鷹の怒りは矛先を変えていた。
「梶っっ。」
3度目の正直も叶わぬまま、彼女の足は止まらない。まずい、本気で怒っている。そう北が感じる原因は、並行して共に歩きながら、徐々に変化していく彼女の表情を目の当たりにしたからだ。最初は多少拗ねている程度だったのが、今はかなりご立腹のご様子。静かに怒っている。見た事がないほど怒っている。
「梶。堪忍や。」
4度目。応答無し。しかし、チラリと視線だけをこちらへ向けた。それを見逃す北ではない。今だっ、という様にさらに大きく一歩を踏み出し、物理的に彼女の進路を妨げる。体を滑り込ませるように前へ出て立ちはだかった。突然目の前に現れた胸板に、思わず綾鷹は立ち止まる。
「……邪魔でございます。北様。」
一瞬、驚いた表情になったが直ぐに元の澄ました顔に戻ってしまう。
「梶。ほんまに堪忍や。」
「何がですの。」
少しの間も与えずにそう返した。桜の中、向かい合った状態で佇む2人は、遠くから見るとため息が出るほどロマンチックである。綾鷹の機嫌が良ければの話だが。
「北様。何が堪忍なのでございますか。」
「……やりすぎた。」
「……。」
「……揶揄いすぎた。堪忍や。」
素直に頭を垂れる。普段見る事がない北の貴重な旋毛を、綾鷹は絶対零度の目で見ていた。ここで許してしまうことはできる。彼女が一つ溜息を吐いて、良いですよ、と言えば良いのだ。それで事は済んでしまう。それに、女は男を立てるもの。花を持たせてやるもの。そんな時代、女に頭を下げるなどあり得ない。故に、今、この光景も普通の男ならあり得ない。北だから。北にそれだけの器があるから。だから、常識に従って。だから、北の誠意に報いてそうすれば良い。そうすれば良いのだ。彼女が譲れば良いのだ。私が折れれば良いのだ。私がーー。
「……いやでございます。」
考えに反して口から出たのは、確かな拒絶だった。
「私はいやでございます。」
北は思わず垂れていた頭を持ち上げる。想像と違った答えに視界が一瞬、真っ白になった。
「私は、譲りとうございません。」
「梶、何の話をしとるんか。」
「北様に振り回されるのは、もういやでございます。」
ああ、感情が昂る。泣くな泣くな。泣いてはだめだ。泣いては負けも同然ではないか。
「梶、……お前は俺と何を競っとったんや。」
悔しくて涙が出るのは何十年ぶりだ。こんな事で泣くなど、私も弱くなったものだ。歯を食いしばって、北を睨みつける。
「北様は。北様はいっつもそうでございます。いっつも、いっつも私で遊んで。楽しんで。掌で転がして。しまいには、堪忍の一言で済むと。そう思っていらっしゃったのでしょう。」
当然だ。今の世の中それが当然だ。だから、そう思うのも当然悪いわけがない。非など無い。
「梶ーー。」
「触らないでくださいましっ。」
それは違う。そう伝えるために伸ばしかけた手を思いっきり叩き落とされる。場にそぐわない渇いた音が響いた。
「いつ……。いつでございますか。」
震える声で問いかけられる。何がだ。何のことだ。梶は一体何の話をしている。
「アラン様からお聞きしました。」
「アラン。なしてここでアランが出てくるんや。」
「惚けないでくださいませ。」
いや、本当に見当がつかない。どうしてアランの名前が出る。あいつが一体何をしたと言うのだ。梶とアランの関係など、この間店へ連れて行ったくらいだろうに。
「……華夜叉五葉をお探しなのでしょう。」
ひゅっと息を飲む音が聞こえた。北の目がこれでもかと大きく開き、瞳孔がぎゅっと小さくなる。
「話してくださると……おっしゃったではございませんか。」
それはいつ叶うのでございましょうか。この心臓の音はどちらの物か。北か、それとも綾鷹か。ぐちゃぐちゃと頭の中が乱される。目の前の女は、今、何と言ったのか。自分はどうするべきなのか。どうすればいい。何をするのが正解だ。混乱とはまさに、今の状態を指し示していた。
目の前の男は一言も口にしようとはしなかった。否、これは本人の意思では無く、出来ないという言い方が的を得ているだろう。これで話が真実であると確信する。そう実感すると同時に悲しみが後を追いかけた。結局は何も癒てなどいなかったのだ。
北は、唯一彼女の真実を知る人物である。彼女が何に苦しんできたのか、なぜ己の過去を遠ざけ嫌うのか、そして今もなお何と戦っているのか。よく知っているはずだ。そして、知るが故、親身になってくれる。助けてくれる。最近はそういう感情が北という男と共についてくるようになった。なったはずだった。
「……本当の事だったのですね。」
「梶。」
「今の北様のお顔を見ればわかります。」
わかります。分かってしまいます。分かってしまいました。嗚呼、俯く彼女に何とすれば良いか。どうすれば、俺はどうすれば……。震え出した細い肩を見て、ますます心は乱れる。何故だ。何故こうなってしまったのだ。そういう思いだけが頭の中を占めて仕方がない。困惑から、段々と苛立ちへ、そしてーー。
ポツ……。ポツポツ……。ポツリ……。
不意に冷たい何かが北の頬をかすめる。しばらくして、周りが騒がしくなった。
「雨……。」
秋もそうだが、春の天気も同じように変わりやすい。足元を見ていた綾鷹も急な土砂降りに気づいたようで、顔を空へ向けた。
「梶っ。こっちやっ。」
今までの重たい空気は何処へやら。ハッと気づいた時には力強く二の腕あたりを掴まれて、綾鷹は北に牽引されながら走っていた。その間も大粒の雨は容赦無く2人の衣服を濡らして行く。
「北様っ。どちらへっ。」
「とりあえず、屋根のあるところやっ。」
周りの花見客からも笑顔が消え、上着やら荷物で頭を隠しながら走り回っている。生憎、2人は雨を凌ぐ道具を持ち合わせていない。一刻も早く凌げる場所を探さねば。
「梶っ。向こうの家やっ。そこで世話になろうっ。」
引きづられる。洋装の北と和服の綾鷹とでは一歩の大きさが違う。彼が見つけた建物の下へ潜り込んだ頃には、綾鷹は息も絶え絶えだった。