第四章 再び
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ああ、またこの着物に袖を通すことになるとは。落ち着いた萌黄色を眺めながら身支度を整える。言わずもながら、今日は北様とお花見だ。昨夜、突然決まったものだから、場所取りなんかしてないし、立派なお料理やお酒も用意できなかった。なんだか思っていたのと違う。北様はガッカリされるだろうか。無意識に彼の反応を心配している自分がいて、慌てて頭を降った。
「うじうじしていても仕方がない。もう、そんな可愛い年でもないし。」
堂々としていよう。そう心に決めて家を出た。
前回の逢引は北が迎えにきてくれたが、今回は待ち合わせをしている。理由は特にない。なんだかこんな形で会うのも偶にはいいかな、と思っただけである。貴重な休日を返上してまですることだろうか、と今日の予定を思い浮かべ、萎縮してしまうのは彼女の悪い癖だ。ペチペチっと二回、軽く頬を叩いて気を取り直す。この頃は本当に天気も良くて、ポカポカ陽気な気温が続いていた。お休みの日は特に触らない髪も、今日は頸が見えるところまで上げて結う。そうすると、自然と気持ちが引き締まるようで、何か気合を入れたいときに綾鷹はよくしていた。きゅっと口元に力を入れ、前を向く。
待ち合わせは、帝都駅西口、時計台の下。どうしてその場所になったのかと言うと、簡単な話である。駅の近くには小川が流れて、その両岸には桜の木が植えてあった。丁度その並木道が花見の名所として有名であるのだ。どうせそこへ向かうのだ。だったら、その近くで落ち合ったって問題ないだろう。この時間、なかなか駅の方面へ用がない綾鷹にとって、その道中は大変興味深いものだった。
まず、帝都駅なんてしばらく訪れていない。その建物は西洋建築と和建築の融合によってでき、赤煉瓦の外観が素晴らしく美しい。最新の技術を惜しみなく注ぎ込まれたその佇まいは、まさに近代化へ向かうこの国に相応しいものだった。今、しみじみと眺める。また、花見の季節ということもあって、普段なら見ない露店が、駅入り口から所狭しと軒を連ねていた。そこに集まる人々。皆ニコニコと楽しそうで、幸せな気持ちになる。春っていいな、と。あの街で生きていた頃には感じたことのない感情だった。
そうこうしている内に時計台が見えてきた。自然と北の姿を探す。こんなに人が沢山いるのだ、もしかしたら直ぐに見つけられないかも、と不安になっていたのだが。
「……どうしてこう、北様ってすぐ分かるのかしら。」
そちらへ目を向けると、一番最初に見えたのは、洋装姿の背のある男性。北である。時計台の周りをぐるりと囲む1メートル程の柵へもたれかかりながら、その人は待っていた。待ち姿さえ美しいことよ。特に高価な物を身につけているわけでもないのだが、綾鷹にはその姿が春の太陽に反射して、キラキラと輝いて見えた。
ああ、私とは正反対のお人。
優しく、優しく、思い知らされている。
「北様。お待たせいたしました。」
約束の時間には少し早い。しかし、北は綾鷹よりも先に待っていた。声のする方を振り返る。
「全然待っとらんで。……ちゃあんと、来よったな。」
「当たり前です。」
2人して、クスクスと笑い合った。お互いの私服姿を見るのはこれで2度目だ。相変わらず、洋装がお似合いで、その出で立ちに思わずため息が出た。
「なんや、ため息なんかついて。ここまで来るのにもう疲れたんか。」
「そんなに柔じゃあありません。……相変わらず洋装がお似合いだと思ったんです。」
言ってて段々と恥ずかしくなってきた。別に何も変なことは口にしていないはずなんだが、目の前の男から視線を逸らす。そう言えばここ最近、他人を褒めるなんてことをしていない。
「……さよか。それは嬉しいなあ。」
素直にお認めになる。全くいやらしさなど存在しなかった。
「梶も綺麗やで。……同じ着物やのに、髪型一つで雰囲気がえらい変わるなあ。」
まさか褒めてもらえるとは。いや、その驚きよりも着物に気がついた事への驚きが勝る。
「……お気づきでしたか。」
「当たり前や。前もええなあ思うとったが、今日も相変わらず綺麗やわ。」
「……北様って……天然たらしって言われません。」
なんやそれ、初めて言われたわ。と笑って返される。いや、絶対にそうだ。じゃないと、こんな自然に綺麗だ綺麗だって言えるわけがない。間接的に普段、彼の周りにいる人々の気遣いと苦労を感じ取った瞬間であった。
「惚れた女の変化に気づけへん男は、それだけの奴ゆう事やな。」
それは北様だからこそ、許される名言にございます。ぐっと胸の内に仕舞うことにした。世の男性よ、見習え。
ほな、行こか。と一言、二言話をした後、区切りのいいところで並木道の始まりへと移動する。その言葉と同時にふわりと綾鷹の手が温もりに包まれた。どうやら手を握られたらしい。
「き、北様っ。」
「ええやろ、今日くらい。」
北の先導で桜並木を歩き始める。すれ違う人々が頻りに2人の手元を注視した。私たちは決してそんな仲ではないのに、周囲の目が勝手に我々の関係に名前をつけているような、そんな気分になった。
「……堂々としい。梶。ここでは俺もお前もただの花見客や。」
居心地の悪さを感じ取って、隣に声をかける。
「何もかも忘れろ、とは言わへん。けど、今日くらい楽しんで欲しいんや。」
その言葉で俯き気味だった綾鷹の目が男を見上げた。
「……せっかくのお休みでしたのに、こんなことに使ってしまって良かったのでしょうか。」
歩き出してほんの少ししか移動していないのに、ピタリと足を止める。自ずと視線が交差した。
「うちの女将さんが突然言い出したことです。本当だったら、毎日のご公務のお疲れを癒すための一日ですのに……。私なんかとお過ごしにならなくても、宜しかったのでは。」
最後の一言、北の表情が曇った。片眉をあげ口を開く。
「……本気で言うとるん。それは。」
しばらく黙る。その沈黙が肯定を意味るすことなど、お互いとっくに気がついていた。
「……頑固な女やな。」
参ってしまったような顔がそこにはあった。止めていた歩みを再び進める。
「まあ、その頑固な女に惚れてしもうた俺も同じか。」
「……申し訳ございません。」
「梶、何も謝る必要なんてあらへんよ。それはお前のええところでもあんねん。」
綾鷹は再び隣を見る。前を向きながら語る男の横顔を、薄桃色を背景に眺めながら耳を傾けた。
「なんでもそうや。ええ事と悪い事は裏と表みたいなもんで、切っても切り離せん。」
「例えば、どんなところです。」
「……。お前と初めて仕事したとき、猫と話しとる気分になった。」
「猫って……。」
「なんや、ええ例えやろ。」
馴れ合いはごめんだ。確かに、そう思いながら当時は北と接触した。しかし、それは彼だけに限る話ではない。あの街で心を開く。その行為自体が命取りでもあったのだ。
「正直、やり辛いなあ思うたで。」
うっ……と言葉に詰まる。
「えらい警戒心の強い女やなあと。……けど、それは同時に矜恃がある言うことと同じや。しばらくしてそう気づいた。……そして、梶がえらい負けず嫌い言うのもな。」
うん。心当たりがありすぎる。
「これだけは譲らへんゆう信念があんねん。責任があんねん。それは必要なことや。仕事以外でも言えることやけど、それがないと何も始まらん。」
せやろ。と同意を求めるように笑いかける。
「……そんな大層な。単に柔軟性がないだけでございます。」
「若いとそんなもんや。」
若い。そう、あの頃はどちらも若かった。
「まさか北様がそんな言葉をお選びになるとは。」
ああ、彼も成長しているのだと。先へ先へと進んでいるのだと。それに比べて私はあの頃から立ち止まったまま。何もかもが止まったままで、時間だけが過ぎていく。
「ははは、せやな。なんかジジ臭いなあ。俺もそう言うようになるくらい、歳食ってしもうたわ。」
「何をおっしゃいます。北様はこれからではございませんか。」
ざわりと心地の良い風が2人の間を通り抜けた。思わず片手でこめかみ近くの後毛を押さえる。一瞬、風で舞い上がった桜の花びらが、彼らを外界から隔離した。それもほんのちょっとの時間で、再び現世へ戻される。
「……諦めんといてや、梶。幸せになるのに、特別はいらんねん。」
どきりと心臓が一つ、大きく脈打つのと同時に目を見開いた。
「幸せの形なんか人それぞれや。どれが正解なんか、俺には分からへん。けど、だからこそ特別な事やないんやと思うとる。……お前を見とるとな、そう言いたくなる時があんねん。」
擦り切れてしまった心に、染みるような痛みが広がる。自然と顔が俯いてしまいそうになった。
「梶、下向いたらあかん。俺を見い。」
落ちかけた気持ちを引き上げるように、北が繋いだ綾鷹の手を今一度強く握る。
「俺の幸せはな、今日一日を生きられることやねん。いつも通り朝起きて、仕事して、部下の顔見て。そして夜になったら梶に会うて、たわいないことを話しながらうまい飯が食える。」
そう語る男の目には、まさに幸せが溢れている。
「たったそれだけやねん。それが俺の幸せや。」
一日一日を生きられる。たったそれだけが、北の幸せ。
「……なんて無欲な。」
この男ならば、手に入れられる物などたくさんあるはずだ。金だろうと権力だろうと。
「ははっ。そないこと言わんといてや。……俺みたいな男はそれぐらいで十分やねん。」
急いで首を左右に振る。そんなことはない。そんな事はあり得ない。男ほど貪欲な生き物はいない。あの街で学んだことの一つだ。何年も疑い様のなかった価値観が、今、覆ろうとしている。今、綾鷹の中で何かが変わろうとしている。
「もっと望んでも良いはずです。北様ならできないことはないでしょうに。」
「……梶には俺がそう見えるんか。」
見えます。そう言おうとした口が不自然に固まった。言葉に詰まる。正直に言ってしまうのが適当であるのか、迷っていた。
「ははは、梶はほんまに正直者や。顔に概ね出とるで。」
ハッとしてすぐさま片手で頬を押さえた。いけない、いけない。その慌て様がまた北の笑いを誘う。
「もしそう思うとるんやったら、それは間違いや。俺にだって手に入らへんモンはぎょうさんある。」
「例えば、どんな物です。」
しばらく目線を上に向け、考える素振りを見せた。その間、綾鷹も考える。北が望んで手に入らないものとは何なのか。
「そうやなあ。最近は俺も我儘になってしもうた。前はこれでもええ言うて満足しとったんやけど、近頃はどうもそれだけじゃあかんくなってん。」
一体なんのお話をしていらっしゃるのか。検討もつかない。不思議そうな表情になった彼女の顔を、北は意地悪を思いついた子供のような目で見る。
「どんなに言葉にしても、訴えかけても、そいつは応えてくれへんのや。こない必死やのに、どうも間に受けてくれんくてな。ほとほと困っとる。」
「……ええっと。」
「あまりにも効果があらへんから、作戦をな、最近変えてみてん。」
「さ、作戦をですか。……どんな風に。」
あら、何だか先ほどとは違う意味で居心地が悪くなってきた。何となくだが、北の言わんとしていることに見当がつきそうだからだ。
「おん。言葉で言うのをやめたんよ。その代わり、外堀から攻めていこう思うてな。」
「そ、外堀……。」
「そや。ほれ、今日みたいに。」
何と気持ちの良い笑顔か。ほれ、と言いながら北は握っていた手を彼女の目線まで持ち上げた。そこですべてを悟る。してやられた。その一言に尽きた。
「俺がどんなに望んでも、手に入らんモン。分かったやろ。」
意地悪が成功した餓鬼が、そこにはいた。悔しそうに、しかし恥ずかしさも混じった顔の綾鷹を見て、さらに満足そうに笑う。この頃、好き好き言わなくなったのも、逆に行動が大胆になったのも、その作戦とやらを変更したからだったとは。今更になって気づく。
「……意地の悪い殿方は嫌われてしまいますよ。」
「それはあかん。また違う方法を考えないかんなあ。」
見ての通り形勢は北にある。綾鷹はこの返しが今の精一杯であった。
「なあ、梶にとって幸せって何なん。」
目の前には大通りが見える。桜の並木道も丁度そこで途切れていた。この時間もそろそろ終わりを迎える。時の終わりと共に、北が綾鷹へと問いかけた。
「私の……幸せ。」
考えたことがなかった訳じゃない。けれども、今思いつくどれもが、彼女が本当に望む幸せとは違っていた。私の幸せ。私のだけの幸せ。
「……分かりません。」
「……さよか。」
答えきれなかった。そんな自分が虚しくなる。
「せやったら、今から考えればええ。」
「え……。」
「人は変わるもんや。それなら、幸せの形も変わる。今から悩めばええねん。今から考えればええねん。」
北は変わらず前を見ながらそう言った。
「梶なら見つけられる。俺はそう信じとる。だからーー
その幸せの中に、俺もおったら、もれなく俺も幸せや。
神様。神様。このお方は、私には大変勿体無いお人でございます。
果たして、私はこの方の隣にいても良いんでしょうか。
神様。神様。どうか神様。教えてくださいませ。
生まれて初めて、答えを知りたいと思った。