第四章 再び
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「大将、邪魔するで。」
最早、この声を聞かねば今日一日働いた気分にならない。それくらい北様は私たちの生活の一部となっていた。それに、いつも同じ時間にいらっしゃるので、時計を見る手間も省ける。密かに北様時計と大将が呟いていたのを思い出した。一同納得である。
「北様、お仕事ご苦労様です。ささ、どうぞお席へ。」
女将の第一声が、いらっしゃいませ、から、お疲れ様です、に変わったのも随分前からだった。まるで息子の帰宅を喜ぶような姿に、自然と家族というモノを意識するようになったのは秘密である。
「北様、今日もお勤めご苦労様です。」
「大将もお疲れさん。今日は何を出してくれるん。」
今日の品書きを尋ねつつ、お互いを労う言葉も忘れない。そんな人柄に大将夫妻は完全に惚れ込んでいた。きっと、彼らにとってもこの時間は一日の中で特に楽しみなんだろう。明るい会話を耳にしながら、綾鷹は厨房裏で明日の仕込みをしている。これが終わったら、私も挨拶に行こう。いつからか、彼の来訪を待ち遠しいと思うようになっている自分がいた。人は変われるのだ。
「梶は裏か。」
ふと自分の話題が出る。
「ええ、でもそろそろ終わる頃じゃないかしら。」
「呼んできやしょうか。」
2人の気遣いに気恥ずかしくなる。お待たせしては悪いなあ、と止まりかけた手を再び動かした。
「ええねん。明日は公休日やし、今日はゆっくりして行くつもりや。」
それなら、今日はお酒をお飲みになるはずだ。自然と北の注文を先読みする。最後の作業を終えた後、すぐに濁酒の用意に取り掛かった。以前はこんなところまで気が回らなかったのに。少し自分でも呆れながら盆にお猪口と徳利を乗せ表へ出た。
「いらっしゃいませ、北様。今日はお飲みになりますか。」
ちゃっかり準備しといて、そのセリフはどうかと思う。そんなことで北様はお怒りになるお人じゃないと分かっているから出来ることだ。裏から現れた綾鷹に北は穏やかな顔を向ける。
「おん、そのつもりや。」
「だと思いました。」
緩やかな時間がそこに横たわっていた。自然と大将と女将の表情もいつも以上に優しくなる。この頃はお天気も調子が良く、帝都にもやっと春が来た。そのせいか、ここ最近いらっしゃるお客達の雰囲気もどこかふわふわとしている。北様は相変わらず、いつもと変わらないのだが。
「今日は立派な茸の子が手に入ったんですよ。」
女将が今日の品を運んできた。目の前に現れたのは茸の子をふんだん使った料理達だ。炊き込みご飯に天ぷら、和物と味噌汁の中にも茸の子が見える。茸の子尽くしとでも命名しようか。
「はあ、えらい旨そうやなあ。」
同じ食材でこんなに沢山の種類が作れるのか。大将の腕にはいつも感心してしまう。
「贅沢やな。」
ふふふと笑い声が聞こえる。その声を辿ると綾鷹へと行きついた。
「北様。いっつもそうおっしゃいますね。」
「当たり前やろ。こない美味い飯そうそうありつけんもんや。」
北は毎回毎回、飽きることなく料理が出てくるたびにそう言う。
「……梶も今日は同じもん食うたんか。」
賄いのことを聞いているのだとすぐに気がついた。以前、体調を崩した際、北と綾鷹が同じモノを食べていたと知って以来、彼は彼女にそう尋ねるようになったのだ。
「……私、今日は別の料理をいただきました。」
意外な言葉に北が素直に驚く。
「……嫌いなんか。」
「いいえ、そう言うわけじゃなくて。」
少し気まずそうな顔を綾鷹が見せた。目の前で美味しい、美味しいと食べている人に向かって、この話をするのはいささが抵抗がある。その様子を見ていた女将がすかさず助けてくれた。
「綾鷹ちゃん、茸の子食べると肌がただれちゃうんですって。小さい頃からだそうですよ。」
その話を聞いて、今度は別の驚いた顔になる。
「……そないこともあるんやな。気が利かんくてすまん。」
「いいえ、北様が謝ることはありません。お気になさらず、どうぞお召し上がりください。」
「いや、それでもすまんかった。今日のを見て、今度の水曜は茸の子がええなあ思とった。お前に言う前に知れてよかったわ。」
北の言葉のすぐ後、女将が物凄い勢いで2人に迫る。
「今度の水曜。一体、何のお話かしら。」
キラキラと輝く笑顔が眩しい。大変何か期待されている表情だ。それを見て、すかさず綾鷹は不味いと思った。どうにかして、話題を変えなけれーー。
「おん。最近の水曜は梶の家で晩飯を食っとる。」
北様あああああああああ。なんてことをっ。
「晩飯……綾鷹ちゃんのお家で。晩飯を……2人きりで……。」
ああ、女将が一瞬どこか別空間へ飛んでしまった。その間も譫言のように呟く。そう、北と食台を調達して以来、正しくは北が綾鷹へ食台を贈って以来、彼は飲み屋「呑んだくれ」の定休日になると綾鷹の家へやってくるようになった。律儀にも今晩食べたい物を持って。いや、正確には、逢引をしたその日の夕飯も、どさくさに紛れて一緒だったのだが。それはまた別の機会に話をするとして。とりあえず、逢引を終えた次の水曜日。心当たりの無い来客に、緊張が走ったのを覚えている。まあ、戸を開けるとそこには鶏を抱えた北が立っていたのだが。それにしても、鶏一匹丸々はないだろう。初回は、自分が購入して組み立てまでした食台の様子を見にきたのだと言った。それを聞いては家へ上げない選択肢は無い。驚いた顔のまま彼を招き入れる。二回目は良い魚を頂いたと言って。三回目は桜島大根。四回目は松茸。五回目は豆腐。そして、今週が数えて六回目となる。もう弥生も中盤であった。
「まあ……。」
北の淡々とした経緯を聞いて、女将が放心したままそう言う。今の彼女にはそれだけの反応が精一杯だ。
「それで、今度は茸の子がええ思ったんやけど。お前が食えんやったらあかんなあ。」
「そんなことはございません。北様が食べたいんでしたら、お作りいたしますよ。」
もういいやっ。バレてしまったのは仕方がない。半分以上、開き直って北との会話を続けた。
「あかん。これ以上お前に無理させるわけにはいかんやろ。」
別に無理なんかしてはいない。料理に楽しさを見出して以来、北の持ってくる希望に応えることでいい訓練になっていた。知らないうちに鍛えられているのだ。
「……確かに茸の子は食べたことありませんが、大将から教わることもできます。不味くは無いと思うのですが。」
「ちゃうねん。お前と一緒に食えんやったら意味があらへんやろ。」
一瞬、言葉の意味を考えるため、頭の中でセリフを繰り返す。
「お前と一緒に食えるからええねん。それができひんのやったら意味無い。」
つまり、北は単に晩ご飯を集りにきていたわけでは無いと言うことか。綾鷹が作るから、綾鷹と一緒に食べれるから、綾鷹と同じ物を共有できるから。そいう事か。気づけば、顔が熱い。自分でも真っ赤になっていると分かるほどに頬が熱を持っていた。
「……シリマセンデシタ。」
「なして片言になっとるん。」
「だって、そんなこと一度もおっしゃらなかったではありませんか。」
「……そないこと言うたら、お前警戒するやろ。」
その通りだ。なんだか最近、北様は私の扱い方を習得されたらしい。うまい具合に北の掌で転がされているようで、なんだか納得がいかなかった。
「俺はいっつも考えとるで。」
「何をです。」
「どないしたら、梶と沢山居られるんかなて。」
頬だけ熱かったのに、今度は首まで真っ赤になる。
「どないしたら、お前に近づけるんかなて。どないしたら、俺を見てくれるんかなて。」
もうっ。もうお止めになってくださいましっ。そう言いたいのに口がうまく開かない。そんな彼女の姿をじっと見ながら、北は止めを刺してきた。
「そんで、次お前と出かけられるんは何時やろか考えとる。まだ、桜見に行ってへんやろ、俺と。」
その台詞と同時に、女将が覚醒した。
「綾鷹ちゃんっ。明日っ。明日お休みあげるから北様といってらっしゃいっ。」
突然綾鷹に掴みかかった女将の顔と言ったら、もう。ほとんど勢いに負けそうになりながらも、綾鷹は反抗を試みる。
「で、ですが。明日は公休日ですよ。一番人手が必要でしょう。」
最後の砦、大将を見ながらそう言った。
「うううん。確かに人は必要だけど……。」
「あなたっ。」
色良い返事がすぐに返ってこないことに、女将が大将に迫る。
「あなたっ。お忙しい北様がせっっっっっっかくそうおっしゃっているのよ。こんな機会滅多にありません。綾鷹ちゃんに幸せになってもらいたくないのっ。」
瞬間移動でも女将はできるんだろうか。掴みかかるように大将へ強く進言する。こんな姿は今まで見たことがなかった。
「そ、そうだな。綾鷹ちゃんには何時も世話になってるし、たまには水曜以外も休んでもらってもいいよなあ。」
ああ、大将が負けてしまった。あの、体格のいい大将が、一回りも二回りも小柄な女将に言い負かされてしまった。
「と言うことで、北様、明日、綾鷹ちゃんをよろしくお願いいたしますね。」
この数分間で、綾鷹は確実に学んだことがあった。
女将を敵に回すべからず。