第三章 転機
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飲み屋「呑んだくれ」の女将は、最高に機嫌が良かった。何故なら、我が子同然の娘が今度の水曜、逢引するからに他ならない。この事実を知ったのは、ほんの数刻前。いつものように、北が店にきて綾鷹と話をしているのを耳にしたからだった。突然、鼻歌を歌い出した自分の妻に、大将は尋ねる。
「おい、急に機嫌が良くなったりして、一体どうした。」
夫の疑問に女将はふふふん、と調子よく答える。
「逢引ですって。来週の水曜に。」
「誰と。」
「そんなの決まってるわよ。北様と。」
しばし沈黙する。そして驚きの表情が浮かんだ。
「はあ、やっとか。しかし、思ったより時間がかかったなあ。」
「そうでしょう、そうでしょう。やっとなのよお。」
50そこそこの夫婦が、ニヤニヤと厨房から少し先にいる二人を見つめる。今月の初め、北の様子がどうもおかしいと心配していた。けれども、次の日からはケロリとして店にやって来たもんだから、一体あれは何だったのだと、不思議に思っていたのだ。今の様子を見ていると、どうやら私たちの思い違いだったらしい。自然に笑い合うお似合いな二人を見守りながら、別の客の注文を取りに、再び女将が出て行った。そのついでに傍聴も忘れない。
「……そうやな、大体この前みたいな時間でええやろか。」
「構いません。私は一日中おやすみですが、北様はご公務がおありでしょう。」
「心配いらん。その日は早めに切り上げるつもりや。」
はあ、と少し眉尻を下げる綾鷹に北は改めて微笑んだ。
「侑やアランみたいに仕事は溜めへん主義や。すぐ終わる。だからそない顔せんでええ。」
片肘をついて近くに立つ綾鷹に言う。その言葉を聞いて、やっと納得をした表情を見せた彼女に、冷奴の追加を頼んだ。大将のもとへ行く後ろ姿を最後まで目で追ってしまうのは、もはやお約束だ。この短い距離を見送った後、入れ替わりに女将がさりげなく近づく。
「綾鷹ちゃんをどちらへ誘ったんです。」
楽しそうに尋ねた女将へ、北は至って普通に返す。
「おん。食台が欲しい言うてな、今度一緒に見に行くねん。」
「それじゃあ、市井へお出かけなさるの。」
「そうなるな。ええもんに出会えたら儲けもんやけど。」
至って普通に答えているつもりでも、その言葉の端々に嬉しさがチラリと顔を出している。本人は完璧に装えているつもりだろうが、人生の先輩である女将にはバレバレであった。忘れていたが、このお方もまだまだお若い。確か26・7ほどだったか。青春だな、と知らず知らずのうちに二人から若い力をもらっている。そのことに女将はふと気がついた。是非とも幸せになって欲しいものだ。
一言二言、言葉を交わし終えると、綾鷹が北のところへ戻ってくる。それを合図に女将が意味深な顔をしながら側を離れていった。それを不思議そうに見る。
「お待たせしました。……どうされたんですか。」
「いや、何や、女将から変な視線がした気がしてな。」
せっせと席を整える女将の後ろ姿をふたりして眺める。生憎、綾鷹にはどこが変なのか分からなかった。
さて、今日が約束の水曜。いざ家具屋へ。何やら戦場に向かう武士のような言い方だが、単に食台を見に行くだけである。これが世間一般に言う逢引というやつであるのだが、今のところ彼女に自覚はない。哀れや北。
「財布、持った。ハンカチも持ったし、格好も問題ない……はず。」
綾鷹の部屋には全身が確認できる鏡はない。そのため、自分の格好を確認する術は、自身がクルクルと回り、気になるところは手で直接触りながらという原始的なやり方だった。こんな時に、大丈夫と言ってくれる誰かが側にいてくれたらと、ふと考えたが急いで掻き消す。そんな贅沢は言ってはいけない。気を取り直して襟元を正していると、戸が来客を告げた。
「梶、用意できたか。」
「はいっ。」
少々立て付けの悪い引き戸を開けて、彼の前に姿を現す。想像通り北は軍服で佇んでいた。仕事帰りなのだから当たり前だ。一方で綾鷹は普段とは少し違う。
「……いつもとは、少し雰囲気がちゃうな。今日は……。」
北も気がついたようだ。それもそのはず、どこで今日のことを知ったのか、女将が若い頃の着物を引っ張り出してきて彼女へ着せたのだ。何年前の物かは知らないが、流行に囚われない落ち着いた柄と色合いの一着であった。煌びやかさは無いものの、品よくまとめられている。所々にあしらわれた白に近い銀糸が大人の女性を演出していた。元が良い綾鷹のことだ。パッと見ると何処ぞの御夫人と間違われてもおかしく無い。そんな姿だった。
「女将さんが気を遣ってくださって……貸していただいたんです。」
はあ、と感心する。それと同時に、胸がきゅうんと締め付けられるような感覚が北を突然襲った。こんな気遣いは同じ女性である女将にしかできない。今度、飲み屋のご夫婦に礼を言おうと一人決心した。
いつも一人で歩く市井とはまた雰囲気が違って見えた。その理由は、北が隣にいるからに他ならない。行き先はある程度検討がついているため、黙々と二人は歩みを進める。
「ん、手始めにここから見ていこか。」
最初に足を止めたのは家具屋でなく、古物商だった。新しい品を扱っているわけではないが、時折掘り出し物に出会うことがある。何より値段も手頃だ。そう言った品の相場を知らない彼女にとって、まずはこう言った所から始めるのが良いと北は判断した。
「ここは初めて立ち寄ります。」
「そうやったか。人が一度使うた物やけど、意外とええ品が見つかる時もある。見るだけ見てこか。」
素直に従う彼女を見て、小さい入り口を入っていった。
店内は所狭しと商品が並べられている。人一人がやっと通れるくらいの狭い一本道が店の奥へと続いていた。両脇に天井高く積まれた籠やら樽やらの日用品が。かと思ったら、いったい何処の国からやって来たのか分からない異国の品まで。綾鷹は知らない世界に迷い込んだように、あちこちへ視線を奪われる。そんな彼女の様子に気づいた北は微笑ましく思った。
「珍しいんか。」
「ええ、とても。」
思わずクスクスと笑ってしまった。
「そうか、初めてか。」
「……そういう北様は、慣れていらっしゃいますね。」
不貞腐れながらも会話が続く今の関係に、北は嬉しさを噛み締めた。柔い声色で答える。
「俺の故郷は港町やったからなあ。外国から色んな珍しい物が毎日のように入ってくる。」
だからこんな雰囲気の店にも抵抗なく入れたのか、と納得する。それと同時に、北から故郷の話を聞いたのは今日が初めてだと気が付いた。
「北様は、どちらのお生まれなんです。」
「ん、神戸や。……知っとるか。」
首を左右に振る。そんな彼女に、北は嫌な顔一つせず己の生まれ故郷を語った。
「帝都からやと、蒸気車で20時間くらいやろうか。昔から港町として栄えたところでな、有馬の湯もあるし、酒も美味いところや。」
一度でいいから、お前と一緒にい帰りたい。その言葉は心の奥底へ静かに閉まった。
「随分と華やかなところですね。」
「……そうかもしれへんな。異人もぎょうさん来よったからか、町の作りも変わっとった。」
懐かしい日々を思い出しているのだろう。何処か寂しさを感じる背中に綾鷹は目を奪われる。いつか、訪れてみたい。未知の世界へ足を踏み入れるようなそんな気がして、北の華々しい過去に寄り添った。
「……いつか。」
「え……。」
「いつかでええねん。いつか、時がきたら、梶の故郷も話してくれや。」
途端に悲しい表情が浮かぶ。こんな顔をさせたかったわけじゃない。けれども、彼女のことをもっと知りたい。どんな過去だろうと、全部、真摯に受け止めたいという覚悟故の言葉であった。
「……人様に聞かせるような、そんな物はありません。」
「ええねん。それでも。……人に聞かせられへん話でも構わへん。俺は梶の話が聞きたいんや。」
ぎゅうっと心臓が潰れそうなほど、胸が痛んだ。そんな日は訪れない。二人の間には目に見えない深い溝が横たわっていることを、綾鷹は知っている。それは埋まる事はなく、かける橋もありはしないのだ。自然と足元へ視線が下がる。せっかくの休日。せっかくの北とのお出かけ。女将がわざわざ素敵なお着物を用意してくれたのに。こんな沈んだ空気を作りたかったわけじゃないのに。こんなはずではなかったのに。鼻の奥がツンと痛む。涙が出そうになって、慌てて顔をあげた。
「……手、繋ごか。」
唐突に言う。潤んだ瞳をパシパシと瞬かせ、目の前の男を見た。大きな掌がこちらへ向かって伸びている。
「梶、手を繋ごう。……そしたらきっと、楽になれる。」
おそらく北は綾鷹の思っていることを理解しているわけではない。それでも、彼女が苦しんでいることだけは知っていた。少しでも、その辛さが減るのであれば、いくらでもこの手を貸そう。
狭い店内。細い一本道。隣に立つことはできないけれど、前後で並びながら、指先だけ重ねる男女が1組。再びお目当ての品を探し始めたのだった。