第三章 転機
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トントントントン……。拍子のいい音がする。普段は一人分しか作らないが、今回は北様もご一緒だ。気持ち使う具材の種類も量も多く計算する。それに伴って、切り分ける大きさも心なしか、いつもより大きめにした。非常に浅はかだと思うのだが、男性は大きい方が好きそうだという偏見からである。そうやって一人で、うんうんと悩みながら調理している間、北との会話はなかった。それはそれで手元に集中できるからありがたいのだが、いささか気まずい。一体、彼は何をしているのか。好奇心でチラリと後ろを振り返った。
「ひいっ。」
拳一個分も無いとみる。そんな距離で北が覗き込むように、背後から綾鷹を見ていた。あまりの近さに思わず手が止まる。
「き、北様。」
「ん、ああ、堪忍な。何を作っとるんか気になってん。」
なんや、ええ匂いするなと思うて。そう言った彼は、すでに外套も脱ぎ、堅苦しい制服の上も着崩して、下から白いワイシャツが見えていた。なんだ、これ。なんていうんだろ、こういうの。ええっと……。ジロジロと男の姿を見て言葉を探す。ああ、そうだ。これってーー。
「嫌らしい。」
「……はっ。」
しまった。慌てて掌で口元を隠す。しかし運悪くも、北の耳にはっきりと届いてしまったらしい。それもそのはず。こんな至近距離にいるのだから、小さな声でも拾ってしまうに決まっている。全身から血の気が引いて、震えまではしないものの、冷や汗が背中を伝った。それとは逆に、北は言葉の意味を考える。その間、約2・3分。ぐつぐつと煮える鍋の音が、居心地の悪さを強調していた。
「…北様。」
「……梶、さっきのはどう言う意味や。」
この短時間では結論が出なかったらしい。当たり前だ。私だって、突然思いついて、ついつい口に出してしまっただけなのだから。説明のしようがない。よって、北がその意味を理解できるはずもないのである。が、今、その意味の無いモノの説明を求められている。なんと言えば正解なのか。
「……。えっと。」
「嫌らしいって何やねん。」
「それは。その……。」
「何が嫌か知らんが、嫌なら嫌って言えばええやろ。」
「ちが、違います。そういう意味じゃあ」
「じゃあ、どういう意味や。」
おやおや、もしかして怒っていらっしゃるのか。空気からして、拗ねていらっしゃる、と言った方が近いか。先ほど、紅茶の件で機嫌をとったばかりだというのに。そう分かると、無駄に慌てていた気持ちが落ち着く。誤解だけは解かなければ、という使命感で北へ向き直った。
「違います、北様。誤解を招くような言い方をして申し訳ありません。」
「何がや。」
「何も嫌なことなどありません。本当です。」
納得がいかなさそうだ。ムッとした顔をして未だに側を離れない北へ、さらに言葉を続ける。
「普段見慣れない姿だったので、ビックリしただけでございます。」
「……この前はそもそも制服やなかったやろ。そん時は何も言わんかった。」
ううん。一理ある。普段着はよくて、制服はダメな理由。この二つの違いは一体何か。煮える鍋の音を背景に、また考えた。人差し指を口元へ当てて、明後日の方を向く。
「なんていうんだろう……、そこには全く負の意味はなくて。むしろこう……もっと、奥が深くて……その……あっ、色っぽい、かなあ。」
そうだ、色っぽいだ。この言葉がしっくりくる。いつも隙のない北の、軍服を着崩した今の格好は、大人の色気を感じるものだった。肌こそ見えていないものの、しっかりとした首元に、喉仏、前を開くことによってチラリとみえる腰元。男の魅力とでも言おうか。そんな印象を、今まで彼から受けたことはなかった。
己の中で納得のいく答えがでた。すっきりとした表情で再び北を見ると、片手で目元を抑えている。心なしか口も少々締まりが悪い。一体どうしたというのか。
「北さーー。」
「あかん。」
何がだ。まさか、今の説明ではダメだったのか。綾鷹には良くても、北にとってはまだ不足の点があったのだろうか。
「あかんよ。……梶、お前、いろんな奴にそないこと言とるんか。」
「えっ。いえ、言ったのは北様が初めてですけど。」
さよか。と弱々しい声がした。はあああ。と目の前で深く深呼吸をする。そして、グッと何かを抑えるような音がして覆っていた手を離した。心なしか、眉がハの字になっていて、困ったように綾鷹を見ている。
「梶、もう、そないこと言うたらあかんよ。ええか。」
何故そういう台詞が出てくるのか分からなかったが、本能が頷いておけ、と言っていたのでコクリと首を縦に振った。何だかなあ、アラン様といい北様といい、軍人様は皆約束をしたがる。北の気持ちを知らない彼女は見当違いもいい事を考えていた。
とりあえず、綾鷹の不注意で招いた波乱の気配は、ギリギリの所で回避できた。しかし、二人の距離感は変わらず、ずっと近いままだ。今更であるが、北もそこそこ立端がある。それこそ彼の部下たちに囲まれると一際小さく見えてしまうが、それは間違いだ。この時代の平均身長を考えれば彼も軍人らしい立派な体格だった。そんな男と間近で見合ってしまうと、自ずと首を傾ける角度がえげつなくなる。よって、時間が経てば経つほど綾鷹には負担がかかるのだ。
「北様。」
「何や」
なんて切り出そうか。ここで正直に言ってしまうと、また何かしら厄介な展開にならないかと警戒してしまうのは、もう仕方がない。慎重に言葉を選ぶことにした。
「あの……、また作業に戻ってもいいでしょうか。」
「ん、ああ、邪魔してもうたな。堪忍。」
……。一向に動く気配がない。
「あの、北様。」
「ん、何や。」
「その、このままだとちょっとやり辛いんですが。」
「……ああ。」
ようやく気づいてくれたようで、後ろから動いてくれた。これでまた調理が再開できる、と安堵する。が。
「ええっと、北様。」
「ん、どないした。」
いやいやいやいや。移動してくれたのはいいんですけどね。そんな、今度は横に付けなくてもいいじゃないですか。結局、距離感変わっていないし。何なら、さっきよりも近い。台所に片手をついてジッと綾鷹を見る。さりげなく、私の腰に手を添えるのも、やめていただきたいのだけれど。
「何や、飯、作ってくれへんのか。」
北の浮べる表情を見て確信する。あんた、それはもう。色々と分かって言ってるんだろうに。額に青筋が浮かんだ。何か反論しなければ、とモゴモゴと口を動かしたが、結局黙る。仕方なくこのまま夕飯作りを続行することにした。
いい加減、小さな食台の一つでも買わないとなあ。と綾鷹は目の前で咀嚼をする男を見ながら考えていた。実は、北と紅茶を味わった時からそう考えるようになっていたのだが。未だ購入には至っていない。もともと家に客人を招くつもりなんか全くなかったのだから、仕方がないのだが。考え事をしていると、手が止まっていたようで北が不思議そうに尋ねた。
「……もう、腹一杯か。」
「え……、ああ、いいえ。少し考え事を。」
手元の茶碗には、まだ8割近く残っている。一方で北の器はそろそろ底が見えそうだ。こんな姿を見るたびに、ああ、北様も男の人なんだな、と実感する。
「……俺に、飯の感想とか聞かへんのか。」
「へっ。……ああっ。い、いかがですか。」
突然何を言い出すかと思えば、そんなこと。いや、そんなことと言っては失礼だが。というか、それを自分から切り出すのか。思うことは沢山あったが、とりあえず、望まれている事だけを音にした。
「うまい。」
「……ありがとうございます。」
何だ、この茶番は。というか、北様は私と何がしたかったんだ。
「俺と一緒に食うんは、楽しないか。」
「えっ。いや、そんなことはありませんよ。」
「じゃあ、なして黙っとるん。」
「ええ……。」
ああ、見えてきたかもしれない。もしかしてこの人、私とお喋りしながら食べたいんだ。案外、可愛いところあるじゃないかと微笑ましくなった。男の人って皆、こうなのだろうか。
「……今度、食台を買おうか迷っていまして。」
ボソボソと話始めた彼女を、北は軽い相槌を打ちながら聞く。
「けど、元々買う予定はなかったんです。……だから、どんなものが良いのかも分からなくて。」
「さよか。金が無いんか。」
「いいえ、決してそういう事では無いんです。ただ、踏ん切りがなかなかつかないって言うか。」
その言葉と同時に、からん、と北が器を火鉢の淵へうまい具合に乗せた。中身はすでに空っぽだ。ご飯のお替りだろうか、と顔をあげると、意外な言葉が返ってくる。
「ほな、来週の水曜、見にいくで。」
何のことを話しているのか、理解するのにしばらくかかった。
「踏ん切りがつかん言うんは、相場をよく知らんからや。せやったら、実際に目で見て確かめる方が早い。」
百聞は一見に如かずやな、と言い放つ。ごもっともだ。この人の一言は、時よりどんな手引書よりも価値があるように聞こえる。上に立つ者の風格というか、素質というか。彼の下で働く彼らのことを、初めて羨ましいと思った。
ん、待てよ。ということはーー。
来週の水曜、北様と一緒にお出かけ。……しかも家具屋へ。