第三章 転機
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「ですからっ。もうここで結構です。」
「あかん。」
「なんでですかっ。」
先ほどからこの繰り返しであった。
「家ん中まで運ばんと、持った意味があらへんやろ。」
「そんなことありません。すぐ側ですから。」
両者とも一向に引かない攻防戦が続いている。どうやら、綾鷹から奪った荷物を最後まで届けたい北と、家宅侵入をなんとしても阻止したい綾鷹の仁義なき戦いらしい。
買い物帰りの道中、北と偶然にも出会し荷物を家まで運んでもらった。そこまでは良かったが、だんだんと我が家が近づいて来るうちに、一つの近い未来を予想する。そう、このまま行けば、また北を家へ上げなければならないのでは、という可能性が浮上したのだ。本人にその気があるのかは知らない。けれども、ありがとうございます、と言う一言で済ませるわけにはいかなくなりそうだった。実際、戸口の前まで来たところで、開けろ、と言ってくる。隣を見ると、さも当たり前のように綾鷹が開けるのを待っているではないか。確信犯で間違いない。
「そんなに入られるんが嫌なんか。」
眉根を寄せてそう問う。一瞬気まずくて怯みそうになったが、ここはグッと耐えた。
「嫌ではありませんが、そうそう簡単に招き入れるものでもありませんでしょう。」
綾鷹の言い分は最もだ。北はあまり気にしていないようだが、彼女は独り身だ。それも女性である。独身女性の家に何度も出入りする。そのことが良からぬ噂を呼ぶ可能性はとても大きい。別に綾鷹だけに被害が及ぶのであれば、ここまで問題視はしない。一番心配しているのは、彼女がお世話になっている人たちへも、影響が出てしまうことだった。言わずもながら、飲み屋のご夫婦。そして目の前にいる男へも。
「北様。北様はあまり気にされていないようですが、私といるところを見られたら大変です。変な噂が流れでもしたらお嫌でしょう。」
少し考えるような仕草を見せた。
「……どんな噂や。」
しかし、分かっていない。その証拠に、例えば、と返される。
「……妙な女に拐かされてる……とか。」
「梶は妙な女やないやろ。」
「そうですけど。私たちの事を知らない方から見れば、そう見えちゃうんですっ。」
首を傾げる男に、頭が痛くなった。どうして分かってくれないのか。
「もうっ。北様は立派な軍人様でしょう。私との関係が仕事なんかに影響しちゃうかもしれないんですよ。」
我ながら、精一杯だったと思う。勢いに任せて言ってしまったからか、首が熱くなる。なんだか今日はスッキリしないことが続く日だ。
「そないこと、お前が気にする必要あらへん。」
目の前の男は彼女の勢いに一瞬驚いていた。しかし、その後すぐにふわりと嬉しそうに笑う。
「前もそうやったが、俺は俺の意思でここへ来とる。お前が心配する必要はこれっぽっちもない。そんなことで、気を揉まんといてえや。」
違う。私が思っていることは、それだけではない。それだけではないのだが、北の綺麗な表情に黙る以外なかった。結果、今回もまんまと男を家へあげることになる。北との勝負には負けたが、心は何故か温かかった。
どさり、と台所の近くへ荷物を下ろしてもらう。忘れていたが、なかなかの量だ。地面へ置いたときに聞こえた音で改めて後悔する。
「ありがとうございました。お仕事でお疲れだったのに。」
「ええよ。気にせんといてや。」
両手をパンパンと叩いて、一息ついた。このまま帰すのも気が引けたので、お茶の一杯でも用意することにする。北にはまた寝台へ腰掛けてもらい、いつものように湯を沸かした。
「相変わらず、綺麗な部屋やな。」
彼の言う綺麗とはすなわち、何も物が無い事を意味していた。少々複雑な気持ちになる。
「自由に動ける日は、水曜だけですから。一日でお掃除も洗濯も済まさないといけませんので。」
「ああ、それは大変やね。」
これだけの会話量で理解してくれたらしい。さっきの場面でも、このぐらい勘が働いてくれたら良かったものを。沸いた湯を、茶葉が予め入れられた急須へと注ぎ入れる。あの時は紅茶だったが、今日は安物の日本茶だ。すまんな、と言って茶を受け取る。残念ながらお茶付は無い。
「……俺のやったもんは、もう全部飲んだんか。」
ぶふっと口から茶が吹き出した。なんと言う頃合いでその話をするのだろうか。必然的にアランのことが思い出される。せっかく忘れていたと言うのに。
「……大丈夫か。」
「ええ……お気になさらず。」
嫌な沈黙が生まれてしまった。気を取り直して茶をすする。
「とうの昔に頂きました。どのくらい保つのか分かりませんでしたので、女将さんにも少々お裾分けを。」
そこまで言ってハッと気づく。目の前の男の機嫌が落ちていくのが分かったからだ。
「……分けたんか。」
ああ、これはイジケているときの顔だ。ここだけの話、最近は北の些細な表情の変化まで気づけるようになっていた。このお方は思ったことが顔に出にくいだけで、こう見えて結構感情豊かである。今回の場合も大方、全部私が飲んだのだと想像していたのだろう。残念ながら、あげてしまったものは、仕方がない。大の大人が少し剥れてしまった姿が、不覚にも可愛く見えた。
「そう、ヘソを曲げないでくださいまし。せっかくの美味しいものを独り占めするのは良くありませんでしょう。」
「……独り占めやない。俺とも飲んだやんか。」
北の返球にはいつも振り回されていた。ねじ伏せる勢いの豪速球で返ってくるものもあれば、思いやりのある、緩く弧を描いた直球もある。今回は珍しく変化球並みの悪球だ。はあ、と溜息と同時に全身の力を意図的に抜く。
「そうでしたね。北様とは一番最初に美味しくいただきました。」
子供に言い聞かせるような口調で機嫌をとる。湯飲みに口をつける直前に、しょうがなく微笑んだ。人生、こんな日もあるもの。そう大人な態度で受け入れることにする。
昼食の買い物をするために外出したが、結果、戻ってきたのは夕方だった。そのため、綾鷹は今日一日、何も口にしていない。途中、赤い液体物を腹に入れたものの、気休め程度にしかならなかった。それも、もう随分昔に無くなっている。さらに、買いすぎた、と自分でも自覚できる量の食材が丁度目の前にある。しばし考えて、男に切り出した。
「……北様。その、今日のお夕飯はどうなさるの。」
自分でもどうしてしまったのかと、言った後から驚く。私の内心と同じように、北の両目がこれでもかと大きく見開いた。慌てて言い訳を付け加える。
「ほ、ほらっ。今日は大将のところお休みでしょう。いつもどうなされてるのかと、思って……。」
素直に、沢山あるから一緒に食べていって欲しい、と言えればどんなに良いか。意気地なし。正しく今の自分にぴったりだ。一方で、そんな綾鷹の気も知らない北は、一人ワタワタと焦る女の姿を目の前にして、期待を込めた眼差しを送った。
「さあ、どうしようか考えとった。いつもは、適当に買って帰るんやけど……。」
今日は無理そうや。チラリと小窓から夕陽が差し込む外を見る。口にする言葉は残念だと言っているのに、讃える表情は何故か幸せいっぱいだった。どうやら、彼女の次の台詞が待ち遠しいらしい。
「で、では。……その。北様さえ、よろしければ……そ、その。ご一緒に……。」
もはや、間接句でしか成り立っていない。しかし、北にはきちんと伝わっていたようで、先ほどよりもハッキリと広角が上がる。ちょぴっとだけ、意地悪な心が頭を出した。
「ええんか。……けど、俺がここに長居すのは、好かんのやろ。」
うぐっ。息が詰まる。荷物を運ぶ、運ばないの戦いはつい先ほど勃発したばかりだ。今更感が否めない。ではどう言えば良いのか、すごい顔で悩み始めた綾鷹を見て、北が笑いながら助け舟を出した。
「ははは、ちょっと意地悪やったなあ。堪忍な。梶さえ良ければ一緒に食いたい。……夕食、作ってくれや。」
揶揄われたと知った彼女は、少々やさぐれた様子で立ち上がり台所の方へと歩いて行った。怒らせてしまったか、とヒヤリとしたが、その耳が赤くなっているのを見つけると、たちまちその姿さえ堪らなく愛くるしく思える。半分あげかけた腰を、再び寝台へ落ち着けた。
もしも、この世に神と呼ばれるお方が、本当に存在するのなら、心の底から礼を言いたい。まさか、彼女の手料理が味わえるとは。これこそ棚から牡丹餅だった。本当のことを言うと、今日はもう会えないのだと気落ちしていた。仕事に支障をきたすことはないものの、朝からどうも気分が上がらない。顔が見たい。声が聞きたい。その衝動に突き動かされて、気づけば彼女の自宅近くへ足を向けていた。もしかしたら、会えるかもしれない。いよいよ、これは何か病の症状である。以前、綾鷹の後を付け回していた、良二という男の事を思い出した。今の自分はアイツと何も変わらないのだと素直に認めよう。そう認めたとしても、彼女と共にいられるのであれば、本望だ。なんと言われようと構わない。ああ、何もかもが愛おしい。何もかもが、幸せに満ちていた。
北の返事を聞いて、綾鷹は早速料理に取り掛かる。いつも一人で支度をするのだが、今日は北が見ている。変な緊張感のまま、包丁を握った。大将もお客の前でお料理する時は、こんな気持ちなんだろうか。そう少し考えて、首を振る。きっと、大将ほどのお人であれば、そんな悩みなんて持っていない。再び手元へ集中する。気のせいだと願いたい、背後からの熱い視線を受けながら、黙々と夕飯作りを進めたのだった。