第三章 転機
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綾鷹は何も言わず、立ち上がった。明らかに、紅茶一杯分にしては多い金額を机の上へ静かに置く。軽く会釈をして、部屋から出ていこうとする彼女を、アランは慌てて引き留めた。
「ま、待ってくれやっ。話したくない理由があるんは、よお分かっとる。」
掴まれた腕に熱の無い視線を送る。必死さを隠そうとしない男に対して、綾鷹の心は冷め切っていた。
「俺のことが気にくわんのも知っとるし、何よりも信用ならんちゅうのも承知の上や。」
何の魅力も感じない言葉に、彼の言い分が終わるよりも前へ割って入った。
「よく分かっていらっしゃるではありませんか。でしたら尚更、私からお話できることは何もございません。」
離してくださいませ。という意味も込めて腕を引く。しかし、アランは食い下がった。
「頼むっ。洗いざらいっちゅうわけやない。あんたが答えられる範囲で構わへんのや。」
「しつこい。」
「あんたの協力無しじゃあ、解決せえへんのやっ。」
「一体何の話をされているんですのっ。」
「もう、北が悩んどるんを見るのは嫌やっ。」
「やかましいっ。」
だんだんと声が大きくなる。言葉の応酬の勢いと比例するように、自ずと二人の距離も近くなっていた。気がつけばお互いの鼻が触れそうになる。
「……北が、北が気の毒で堪らんのや……。」
双方、肩で荒く息をする。アランが綾鷹の前へ膝をつくように崩れた。近づきすぎた距離を修正するべく、しばらく口を閉じたが、その間も熱の籠もった瞳は目の前の人物から一瞬たりとも離れない。縋る姿を目の前にして綾鷹はしばし考える。ここへ来た理由を思い出したからだ。おそらくだが、これを逃せばもう機会は訪れない。
「……等価交換という言葉をご存知ですか。」
女の細くぴんと張った糸のように、触れれば切れてしまいそうな、そんな凶器を秘めた声を聞き、男の体はびくりと揺れる。しかし、その先を促すように、息を飲みつつ言葉を待った。
「……私も馬鹿ではございません。何か、良からぬことに巻き込まれているのは、とっくの昔に気づいております。北様のご様子がおかしいのもそうでしたが、貴方様に数日尾けられて確信いたしました。」
汗が黒い肌の上を流れた。膝をついた体制のまま聞き続ける。
「先日、北様へその事をお尋ねいたしました。正直、あなた方のお仕事に首を突っ込むつもりはありませんが、我が身が関わっているとなると、私にも知る権利がございます。」
面倒ごとはごめんだ。という態度と共に、そうせざるを得ないという、己ではどうしようもない心情が見え隠れしていた。
「……して、北はなんて。」
「……何も……。」
首を左右へふり、否と言う。
「いつか必ず、お話しくださると仰ってくださいましたが……あまり当てにしておりません。」
いつか必ず。この言葉に騙されて、涙を流した女達を綾鷹は五万と見てきた。
いつか必ず、お前をここから出してやる。
いつか必ず、夫婦になろう。
いつか必ず、お前を幸せにしてやる。
だから、ここで待っていろ。
なんと浅ましいことよ。彼女たちは待ち続けた。待ち続けて、待ち続けて、もう迎えに来ないのだと悟る。よく考えれば、分かったはずである。けれども、その僅かな希望に縋らなければ生きていけなかったのだ。なんと酷いことよ。なんと惨めなことよ。
「……男のその言葉ほど、信憑性の欠片も無いものはございません。」
ここで初めて、綾鷹は目を逸らした。あの時は嬉しかったのだ。必ず、いつか話してくれると、打ち明けてくれると、普通の女のように喜んでしまった。けれども、その言葉を受け入れられるほど、綾鷹は純粋ではなかった。だからーー。
「……ですからアラン様。私と取引いたしましょう。」
逸らした目を再び男へと向ける。その瞳に宿る黒い闇を、アランは正面から受けたのだった。
一人分の食材にしては少し多いだろう。両手で籠を持ちながら、綾鷹はそう思った。できるだけ日持ちするものから選んだのだが、果たして期限までに消費できるかは不安が残る。ヨタヨタと歩みを進めて、今の住まいへと戻る途中、見知った後ろ姿を見つけた。
「えらい、買い込んだな。」
男は優しい笑みを湛えていた。ポケットへ入れていた手を出して、綾鷹へと向ける。
「その重いもん、こっちへ寄越しいや。そんな持ち方したら、腰、悪くしてまうで。」
「いいえ、大丈夫です。」
当然、断りの返事をする。申し訳ない気持ちと、どうしてここへいらっしゃったのかという疑問が折り重なっていた。
「あかん。寄越しいや。」
譲る気がない口調で、再度彼女へ申し出る。渋々、という表現が合っているのかは定かではないが、比較的軽めの荷物を差し出した。
「ちゃう。その下のや。」
ぐぬぬ……。いとも簡単に魂胆が見破られてしまう。悔しそうに見つめていると、両手がふっと軽くなった。
「き、北様っ。」
いつの間にか、全ての荷物が北の方へ渡っている。あまりにも自然な出来事に、ついていけなかった。
「なんや。」
さも当然と言った顔をされる。
「そんなの申し訳がありません。私の荷物ですのに。返してくださいませ。」
聞いているのかいないのか。北は再び微笑んで勝手に歩き出す。その後ろを、綾鷹は信じられない表情で急いで追いかけた。
「北様っ。」
「なんや、さっきから。」
「なんや、ではございません。荷物返してくださいっ。重いでしょ。」
歩きながら文句を言う。はしたないとは思っても、ここで引く気はない。
「こんなもん、重いうちに入らへん。女にとっちゃあそうかもしれへんが、俺は平気や。」
確かに、軽々と持っている。それに、歩みの速さも先ほどとほとんど変わらない。再び悔しそうな顔をした。
「北様っ。」
「……いつも、こない買い込んどんのか。」
「へ……。」
突然立ち止まり、隣に追いつく綾鷹を見る。
「こな重いもん。いつも持たなあかんのか。」
「いつもではございません。今日は……今日は特別です。」
特別……。そう口で繰り返し、北が尋ねた。
「ちょっと、ムシャクシャしたので……。」
先ほどまで、貴方の部下とお茶してました。そこで、色々と問い質されてました。なんて言えるはずがないのだが。実際に、イライラしていたのは確かだ。その衝動で、余分なものまで買い漁っていたのも事実。ちなみに、喫茶店で頂戴した紅茶の代金は、アランがもってくれた。お勘定の際、一悶着あったのは秘密だ。
「……誰かと会うたんか。」
びくりと肩が揺れる。なぜ、なぜ知っていーー。
「そこで会うた時から紅茶の匂いがしとった。ん、今、よお嗅いだら珈琲の匂いもするなあ。」
すんすん、と綾鷹の首元に顔を近づけ匂いを嗅ぐ。ひえええええっ。この人、なんでこんな所まで優秀なのっ。思わず叫びたくなったのと同時に、アランと喫茶店を出る前の会話を思い出す。
ええか、俺と会うたことは北には内緒やで。絶対に知られちゃ、あかん。
アラン様、早速バレそうでございます。私、何もしてないのに。
「……喫茶店でも寄ったんか。」
気のせいだろうか。北の視線が痛い。すすす、と視線を泳がせる。
「ええ、お、女将さんに教えてもらったんです。その、最近料理をするようになったので。」
ふうん。とたっぷり空気を含んだ返事が返ってきた。ジト目のおまけ付きで。
「……一人でか。」
「……はい。」
「……一人で紅茶も珈琲も飲んだんか。」
「……。はい。」
ああ、もうだめだ。こんな緊張感は久しぶりであった。まるで、任務の失敗を報告している気分になる。北が放つ、次の言葉を痛む心臓を押さえながら待った。
「楽しかったか。」
「へっ。」
予想外とはまさにこのことを言う。男の口から出た言葉は、意外にも温かいものだった。
「いや、そない匂いが残るまで長い時間、話とったんやろ。」
推理の精度はえげつない程良いが、ひとまず、アランとの約束は果たせそうだと安堵した。誰かと会っていたことは、もはや確信されてしまったが。
「……少し、気になることがございましたので。」
そこからはお互い何も話さなかった。時刻はそろそろ夕方になる。少し沈みかけた太陽を背に、二人は並んで歩いた。