第三章 転機
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二人は四方を壁に囲まれた個室へ通された。
なぜ私がこの男と一緒に過ごさねばならないのか。しばらく考えたが、理由はわからない。しかし、ここ最近、自分に纏わりついている不穏な空気を払う、何かきっかけが掴めれば。という微かな期待で、この男の話に乗ったのである。
飲み屋「呑んだくれ」の定休日は毎週水曜。綾鷹は大抵この日に家のことを片付ける。掃除に洗濯、消耗品の買い出しに気が向けば料理もした。とりわけ最近は簡素な台所に立つ機会が増えた。言わずもながら、北のたまご粥を口にして以来、こっちだって負けていられないと変な対抗心が芽生えたからである。こっそり大将の料理を真似てみたり、女将が御婦人仲間から仕入れた情報で人気の甘味屋へ足を運んでみたり。できることはやってやろう精神で挑んだ。
丁度今は、昼食の材料を買いに市場へ来ていた。軒先で客をひく八百屋のご主人や、魚の籠売りを尻目に大通りを歩く。本日の昼食を検討しながら、頭の片隅であの夜の事を考えていた。未だ、北と交わした約束はなされていない。一体彼は何に怯えていたと言うのか。何から私を守ろうとしているのか。何か良からぬことこに巻き込まれていることだけは確かであった。そう確信する理由の一つは勿論、あの北の態度から。そしてもう一つはーー。
「……いい加減、こそこそするのはお止めになったら。」
ここ数日、私の動きを見張っていた男を振り返った。改めて、その顔を見上げる。
「何や、気づいとったんか。」
少々驚いた声で答えたのは尾白アラン、その男であった。帝国陸軍第二師団大尉で、北の幼なじみ。そして、彼が最も信頼を置いている部下の一人であると記憶している。北の様子が可笑しいと感じて直ぐ、この男に動きを監視されていた。
「私におっしゃりたい事がお有りなら、直接尋ねればよいではありませんか。勤め先もご存知のはずでしょう。」
呆れたように話す彼女に、アランは肩を竦める。
「それができれば、なあんも苦労せん。……北に釘刺されとるんよ。」
「釘。」
おん。そう返して、頬の辺りをポリポリとかく。綾鷹はその姿を不思議そうに見ていた。彼の上司が綾鷹との接触を拒む理由が分からない。あの男のことだから、公私を混同させるようなことはないはずだ。一体、なぜ。
「……なあ、最近北とは会うたんか。」
しばしの沈黙の後、アランが綾鷹へ尋ねる。
「ええ。いつものように、店にいらしてくださいますので。自ずと。」
その返事を聞くと、アランは何か思い詰めたような顔をした。数秒考えたのち、彼女へ問う。
「あんた。今から暇か。」
意外な質問に、首を傾げながら肯定する。すると、これまた意外な言葉が返ってきた。
「なら、今から俺と茶でもどおや。」
数回瞬きをして、アランを凝視する。軟派にしては適当すぎではないか。眉間にシワを寄せながら見つめ合う男女が二人。多くの人が行き交う道で佇む光景は、さぞ滑稽だったであろう。
そうして、冒頭へと戻るわけだ。お茶と聞いて真っ先に思い浮かんだのは、ちょっとそこいらの茶屋で日本茶でも啜っている光景。しかし、連れてこられたのは最近流行りの喫茶店なるところだった。周りの客は見るからに裕福そうで、軍服姿の肌の黒い男と、どこにでもいそうな娘の組み合わせに自然と視線が集まる。どうやら、この店はアランの行きつけらしく、店主の様な初老の男が彼をみた途端、奥の部屋へと何も言わずに案内をした。そんな彼の後ろを黙ってついて行く。そして、心の中で文句を垂れた。こんなところに来るなんて聞いてないっ。
「とりあえず、何か頼もうや。」
四人掛けの席へ向かい合う様に腰掛けると、アランが品書きを取り出す。喫茶店なんか初めてくる綾鷹は正直、何を頼めば良いのか分からなかった。何やら呪文のような、西洋の言葉を無理やりカタカナへ直した文字の羅列を眺めながらため息を吐く。その様子に気がついたアランが、片眉を持ち上げた。
「……どないした。気にくわんかったんか。」
「いいえ。……まさか喫茶店に連れてこられるなんて思ってもいませんでしたので。」
何を頼めば良いのか分かりません。と正直に話す事にした。その返事に、今度こそアランは驚く。
「なんや、北に連れて来てもろうてなかったんか。」
「どうして、そう言う話になるんですか。……北様とはお店以外でお会いした事ありませんので。」
自宅に上がり込み、お泊まりまでしていったことは意図的に避けた。それを話すと、お互いの関係を説明するのが面倒くさくなる。実際は、綾鷹自身も北との関係が世間一般で何と呼ぶのか分からなかったからなのだが。
「ふうん。意外やな。俺はてっきり逢引の一つや二つ、すでに済んどるもんやと思っとったけど。」
本当は手も繋いだし、抱きしめられもした。もっと時間を遡れば、仕事の内ではあったものの、接吻も済んでいたりする。ここまでして、益々、北は綾鷹のなんであるのか。密かに頭を抱えた。
「まあええわ。俺は珈琲にする。お前は……。」
品書きを指差しながら注文を決めるアランの指を見ていると、見知った文字を見つけた。
「……では私は紅茶を。」
彼女の選択に一つ頷くと、先ほどの店主を呼びに席を立った。
しばらくすると、白い取手のついた西洋式の器が二つ出てくる。目の前に受け皿と共にゆっくりと置かれたそれを、綾鷹は北の台詞を思い出しながら見た。
「……これが紅茶。」
以前、どんっ、と重量感のある湯飲みに注いで出した紅茶を見て、北がビックリした理由が今わかった。これは、全然違う飲み物に見える。馴染みの深い陶器でできてはいるものの、その縁は限りなく薄く、そして軽い。さらに、湯飲みよりも底が浅く、紅茶の赤色を通してカップの底が透けて見える。素直に美しいと思う。器の縁は心なしか外側へと広がり、湯気を纏う姿が大変優美だ。これは、これはーー。
「私は……北様へ謝らなければなりません。」
突然そう言った綾鷹に、アランは間抜けな声を出した。
「なんや。突然。」
口をつけていた珈琲をソーサーへ戻す。
「いえ……実は以前、北様から紅茶の茶葉をいただいた事がございましてーー。」
その話を一通り聞いたアランは、込み上げる笑いを抑える事ができなかった。
「あはははははっ。ひいっ、ひいっ。ん、んで、北はなんて言ったんやその後。」
大の男が肩を揺らして笑う様を、綾鷹は心底面白くなさそうに見ていた。
「……何もおっしゃいませんでした。」
さらに笑い声が大きくなる。これは、きっと外までまる聞こえだ。個室の意味はどこへいったんやら。丁度良い温度になった紅茶を一口、口にして目の前の男が落ち着くのを待った。
「いやあ。笑った笑った。堪忍なあ。」
目尻から出る涙を荒い呼吸を吐きながら拭う。ようやっと笑いの波が去ったようで、ふうっと大きく一呼吸おいた。
「あんた、意外とおもろい女やな。なんやこないだ会おた時は、とっつきにく奴やと思うとったけど。」
また思い出したのだろう。クスクスと笑い出す。なんだか居心地が悪くなった。アランは彼女に対してそう言ったが、綾鷹もここ数分で目の前の男に対する印象が変わっていた。
「アラン様も、だいぶ見かけによらないお方です。」
ん、どこがや。即座に返ってきた言葉に遠慮なく答える。
「もう少し、良識のあるお方だと思っておりました。」
「はっ。俺のどこが不良識やねん。」
心外だ。と主張する男から顔をそらして続きを述べる。
「だって。突然こんなところへ連れてこられて、どんな話をされるかと思ったら、人の失敗を遠慮なく笑い物にするんですよ。こんなの、納得がいきません。」
うぐ……。と黙る。
「北様もそうですが、アラン様達と私とでは生活の水準が違います。紅茶なんて高価なもの口にしたこともございませんし、もっと言うのであれば、普通に生活していてご対面する機会すら皆無です。それを、常識が無いみたいに言わないでくださいませ。理不尽でございます。」
ぷんすかっ。と頬を膨らませて怒る彼女をアランは慌てて慰めた。
「それは堪忍なっ。た、確かに、普通に生活しとったら紅茶なんか飲まへんもんな。」
「そうですっ。第一、北様も北様であの時はっきりと間違いを指摘して下さったら良かったものを。どうして黙っていらっしゃったのか。」
怒りの矛先が北へ向いた事に少し胸を撫で下ろしたアランは、綾鷹と一緒に考える。
「ううん。北は比較的思ったことは言う性格なんやけどな。……遠慮したんやないか。」
どうしてです。とすかさず聞く。何を遠慮すると言うのだ。
「そりゃ、だって。……好いた女に嫌われるようなこと言いたい男はおらんやろ。」
不自然な沈黙が流れる。ぽかんとする彼女の反応にアランは首を傾げた。
「……ご存知だったんですか。北様がその、私を慕っておりますのを。」
「おん。当たり前やん。むしろあんなに分かりやすいの、どうやったら気づけへんのや。」
さも当然と言うような態度は、綾鷹を混乱させるのに十分だった。いや、混乱と言うよりも、恥ずかしさの方が3割増しであったのだが。
「……そ、それでは、アラン様だけでなく……。」
みーんな知っとるよ。その言葉の破壊力やいかに。では、北が店に毎晩足を運ぶ事以外に、贈り物をくれる事も、仕事終わりに家まで送ってくれる事も。その他、あんな事や、こんな事も、皆知っているんだろうか。こんな事はあり得るのか。あり得て良いのか。大変傷ついた顔をする彼女の姿から、アランは全てを悟り、気の毒に思った。
「そう落ち込まんといてや。ああ見えても、北は熱い男やで。階級もそうやけど、人間も出来とるし、何より信頼できる。……あんたもよう分かっとるやろ。そないええ男、何を嫌う必要があんねん。」
確かにそうだ。アランの言う北信介は綾鷹にとっても何一つ違わなかった。一見、淡白で仕事以外興味が無さそうなつまらない男に見えても、蓋を開ければ、世話好きで部下思いの優しい人。まるで家族のように彼らを紹介した北の顔を自然と思い出していた。誰がどう見ても「良い男」。だからこそ、受け入れるわけにはいかない。
「なあ……、過去に北と何があったんや。」
なんとなく。なんとなくだ。今日、この男が私を茶に誘ったのは、その話が聞きたかったからだ、と確信した。