第三章 転機
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いくら春になったと言えども、まだまだ寒さは抜けない。特に夜は火鉢が手放せなかった。自ずと、首に巻いた襟巻きに鼻の先まで埋めて歩く。その隣を、北が綾鷹の歩調に合わせて並んでいた。会話は一切ない。それもいつも通り。けれども、今日の沈黙は、なんだか居心地が悪い。どうしようか。声をかけるべきか。と悩んでいると、いつもの場所へ到着してしまう。
ガス灯の下へ来ると、北はくるりと綾鷹へ振り向いた。ここでいつもなら、暖かくして寝るんやで、と言うはずである。言うはずなのだが……。
「梶……最近どうや。」
違う。いつもと何かが違う。違和感を拭えないまま、北の問いに答える。
「……特には何も。……一体どうしたと言うのですか。今日の北様はまるでーー。」
何かに怯えているようです。北の透き通るような目が見開く。まるで、言われるまで気づかなかったと言うように。
「……何も。何もあらへんよ。だから、梶は何も心配せんでええ。」
納得いかない。北様は何か隠している。それこそ私に言えないようなことを。疑念は膨らむ。言ってしまいたい。何があったのかと。どうしてそう、不安そうにしているのかと。けれども、今の綾鷹にはそれを問うだけの覚悟が無かった。
半分諦めるような形で、そうですか、とだけ返す。得体の知れない何かが、うまく噛み合っていない事だけは、お互いよく理解していた。
「北様、少しここでお待ちください。」
彼女の言葉に、北は不思議に思いながらも頷いた。その姿を確認してすぐ、綾鷹は家へと走る。相変わらず生活感のない部屋へ入り、台所から包みを持ち出した。時間にして数分。あの場を離れる前と変わらない位置で待つ北の姿に、どこかほっとした。少し息を弾ませて帰ってきた綾鷹に、北はますます不思議に思った。
「何や、突然走り出して。」
「これっ。」
安物の油紙に包まれたものを差し出した。彼女の勢いに押されて、北は思わず受け取る。
「さすがにあの量では直ぐにお腹が減ってしまいます。今からのお時間じゃあ、やっているお店もありませんし。それに、あ、余ってしまったので……。」
勢いよく差し出したは良いものの、何と言って渡せば良いか分からない。だんだんと声が萎んでいくのを、綾鷹は無様だと思った。けれども、北へ向けた手は今更、引っ込めるわけにもいかない。そう考えると、綾鷹へいつも差し入れする北は、相当すごい事をしているのだ。
両目をパチクリとさせ、北は綾鷹と包みを交互に見た。そして、改めて大事そうに受け取る。
「俺のために取ってきてくれたんか。わざわざ走って。」
体が熱くなったのは、軽い運動をしたからだ。決して照れてしまったからではない。と己に言い聞かせながら、コクリと頷いた。途端に北の雰囲気が明るくなる。今日、初めての笑顔だ。
「あかん。嬉しい……。」
この空気は何だ。吐き気がするほど甘い雰囲気に、綾鷹は突っ込まずにはいられなかった。何よりも、男の笑顔が眩しいことよ。私はこんな生き物、知らない。こんな、こんな北様は知らない。
「なあ、開けてもええか。」
「え、ええ。」
彼女の了承を得る前に、半分ほど包みを開けていたことは見なかった事にしよう。中から現れたのは、握り飯だ。今日はもう何も口にできないと諦めていた。そんな中で、突然現れた差し入れ。何よりも、今一番に恋い焦がれる人からの差し入れ。北は直ぐ綾鷹に視線を戻す。そしてーー。
「き、北様っ。ここ、外っ。」
「あかん。これは、あかんで。」
本能に任せる、というのはこう言うことか。ほぼ無意識であった。目の前に立つ、この時代では少々背の高い女性を引き寄せる。じたばたと動くが、それにも構わず力の限り抱きこんだ。
「梶、絶対に、何があっても、俺が守ったる。絶対や……。」
それは何かに誓いを立てる行為に近かった。突然の事に訳もわからず暴れていた綾鷹も、その言葉にスッと落ち着きを取り戻す。それと同時に彼の懐でその意味について考えた。
「何から、私をお守りくださるのですか。」
「……今は、何も言えへん。堪忍な。けど、いつか必ず話す。」
この命に誓ってもええ。霧が弾けるように不安が散っていく。途端に視界が明るくなったような気がして、綾鷹は目を閉じた。
忘れた頃にすぐ近くで犬が鳴いた。そこで二人とも、ここが野外である事に今更ながら気がつく。光の速さで綾鷹が北の中から抜け出すと、そんな彼女に北は残念そうな顔をした。綾鷹はじとりと北へ視線を向ける。今、思い返してみると、自分が抱き寄せられた理由はお握りだ。いや、もっと他にも理由があるにはあるのだが。パッとしない動機に加えて、結局は何も解決していないではないか。気持ちだけが、上手い具合に落ち着いたに過ぎない現実に気づく。ため息を吐いて、北とは違う意味で肩を落とした。
「約束してください。いつか、必ずお話しくださると。」
その言葉に、北は無言で頷いた。
今日のところは、もう身を引いた方が良さそうだ。そう判断して、軽く会釈をする。彼の様子からして、明日、お店で顔を合わせる時には元通りになっているだろうと、何故だかそう思えた。
翌日、北はアランをはじめ、信頼のおける部下数名を集めた。用件はお察しの通り、昨日、黒須少将より極秘で受けた任務について。何だかこの光景に、人知れず懐かしさを覚える。
「皆、集まったか。」
最後の一人が部屋へ入ったのを確認して、声をかけた。北の纏う空気で優秀な彼らはすぐさま任務の重さを理解する。自ずと顔つきも険しいものとなっていた。
「単刀直入に言う。極秘任務や。」
この中でも最も歳の若い侑と治は、無意識に固唾を飲む。次に出てくる言葉を、じっと待った。
「任務内容は要人警護。やけど、実際は暗殺者の捕縛と始末や。……できるな。」
やれるか、ではない。必ずや成功させなければならない。それに一同、声を発することなく頷く。北の顔に不適な笑みが浮かんだ。
「今年の6月に英国大使夫妻が来日されるんは皆知っとるな。表向きはその要人警護や。せやけど、どうやらきな臭い連中が裏で動いとるらしい。」
そこまで説明して、今まで沈黙を守っていた赤木が発言する。
「要は、そのきな臭い連中をどうにかしろっちゅうことか。」
概ね合っている。
「その通りや。せやけど、そいつらの存在を公にしちゃならん。」
「なしてや。」
しばしの沈黙が生まれる。彼の疑問に答えたのは、北であった。
「そいつら、尊王攘夷派の残党らしい。」
一瞬にしてその場に緊張が走った。尊王攘夷派は去った戦争で形を潜めたはずである。
「なしてこの時期に奴さんらが。」
皆が皆、思っていることを代表するかのように、今度は侑が飛び出す。
「……大方、英国との同盟関係をぱぁにしようっちゅうことやろ。今回の来日、一番の目的はそれやからな。」
この国は数年前、大きな決断を迫られた。開国か、はたまた鎖国を続けるのか。結果は見ての通り、国を開くことで豊かな生活と確かな国力を得る方を取った。今や、その結論は正しかったのだと誰もが思っている。皮肉にも、お隣の大国が蝕まれていく様を静かに眺めながら。列強に並ぶことを目標に、列強を追い越す未来を夢見て、新しい時代の到来を迎えていた。しかし、一方で、この時代の流れに乗れない者達もいた。それがこの度、北率いる極秘部隊の敵となる。
「今回の同盟が成立すれば、我が国はより強固な構えと、良き友人を手に入れることができる。一気に列強に近づけると言うわけか。」
「何や角名。えらい詳しいやんけ。」
角名が呆れた表情になった。士官学校を卒業しているのだから、これくらいの知識は持っていて欲しいものだが。いつもの事なので、何も言わない。
「侑、お前は少し勉強せえ。」
角名がわざわざ言わなくとも、アランが注意してくれるとわかっていたから、と言うこともある。この光景は、もはや当たり前となっていた。
「それはつまり、この同盟が決裂してまうと、文明開化から遠のくっちゅうわけか。奴さんらはそれを狙っとるんやな。」
この同盟は奴らにとっても、自分たちの存続をかけた大きな分岐点であった。彼らの掲げる古き良き日ノ本を再び築き上げるためにも。
そこまで話を共有したところで、詳しいことは後ほど、何かしらの手段を利用して伝達すると言われ、彼らは何事もなかったかのように部屋を出て行った。残された北とアランはじっと戸を見つめる。
「北、あの女の事は話さんくてもよかったんか。」
「……まだ、時期やない。」
心底参ってしまった、と言うふうにため息を吐く男を、アランは気の毒そうに見つめる。これから北は、彼女に大事は話をしなければならなかった。それは結果的に、もしかすると、彼女からの信頼を全て失ってしまうかもしれない。今度こそ絶縁されるかもしれない。
運命の悪戯で再び巡り合えた二人の未来を、アランは嘆かずにはいられなかった。