第三章 転機
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北信介と再会を果たしたのが昨年の霜月頃。それから新しい年を迎え、生命が活動を始める春へと季節は巡った。思えば、たった四月の間に色んなことがあったなと、綾鷹は店の表を掃きながら考える。彼女の生活も、北という男の登場でだいぶ色づいた。
そういえば、大きな変化とまではいかないものの、北が部下を店に招いた日以来、彼は時折、連れを連れて来るようになった。言わずもながら、宮治である。あの日以来、治も大将の料理をいたく気に入ったらしく、北と仲良く暖簾を潜る姿は、もはや当たり前のように思えた。幸せそうに食べる姿が、なんとも微笑ましい。女将がまたしても心を掴まれてしまったのは、ここだけの話。どうやら彼女には、意外性というモノに大変魅力を感じる節があるらしい。大将も大将で、治の期待に答えようと、以前よりも量感が重めな品書きを用意するようになった。いやはや、平和な時間が流れている。
相変わらず、店仕舞いと共に家まで送ってくれるところは変わらない。勿論、治と別れた後にだが。今や、抵抗感などこれっぽっちも無くなってしまった。十中八九、北が嫌がる綾鷹を余所に、お泊りを決行したからだろうが。今、振り返ってみれば、悪いことでは無かったなと思える。あらゆる醜態を晒した夜に違いはなかったが。
「綾鷹ちゃん、お掃除終わったかしら。」
ぼんやりと考え事をしていると、店の入り口から女将が顔だけ出して綾鷹を呼ぶ。大方片付いた旨を伝えると、ちょいちょい、と手招きされた。何事だろうかと首を傾げる。
「ちょいとここに座ってて。」
言われた通り、店の椅子へと腰掛ける。その姿を確認してから、女将が奥へと引っ込んでしまった。何が始まるのだろう。少々、嫌な予感がするのだが。ここだけの話、北が綾鷹へ想いを寄せている事実を、女将は大変喜んでいた。一人娘のような綾鷹を猫可愛がりしていることもあってか、頻繁に彼女の前で北の事を褒めるよになったのだ。おそらく、二人を何とかしてくっ付けたいのだろう。綾鷹自身にその気がないため、最近の悩みでもある。
「年末にね、大掃除したの。そしたら見て。こんな物が出てきちゃって。」
目の前に現れたのは、振袖だ。それも、結構な上もの。おおよそ、女将が若い頃に着用していたものだろう。
「もう私は着れる年齢じゃないから。もしよかったら、綾鷹ちゃんに譲ろうかなって思ってたのよ。」
光栄な話である。洋装が徐々に浸透しつつある今日だが、着物の根強さは言うまでもない。普段着は殆どの者が着物を着ていた。そんな中、大振り袖に近い振袖を貰うなんて、ありがたい意外の話ではない。のだが……。
「こんな良いもの、いただけません。それに、私もいい歳ですし。」
「そんな事ないわよ。綾鷹ちゃん。自分の魅力に気づかなきゃだめ。せっかくの美人さんなんだから、飾れるときに飾っとかなきゃ。」
後者が本音なんだろう。
「それに、私には子供がいないでしょう。あなたは私達にとって、娘同然なんだから。」
初めて耳にする女将の言葉に、驚きを隠せなかった。娘。私が。
「ね、だから私たちの面子のためにも、貰って頂戴な。」
そう言われてしまえば、断れないではないか。まんまと、女将の策にハマってしまったと分かっていても、ムズムズと胸の内から湧く温かい何かに背中を押されながら、綾鷹は大人しく振袖を手に取ったのである。
どんなに場数を踏んでも、アランはこの雰囲気が苦手であった。入り口のすぐ側に背筋を伸ばしたまま立ち、上司の背中を後ろから見る。輸入品の椅子に腰掛ける北の目の前には、懐かしいお方が居た。今はもう、雲の上の人となってしまったが。
「久しぶりやな。北。息災やったか。」
いや、今はもう北少佐やな。そう口にした男に、北は居住まいを正す。
「お気になさらず。黒須少将殿もお変わりないようで。」
士官学校の現校長も務める黒須に呼ばれたのは、彼らが朝礼を済ませてすぐの事であった。本来なら、北達が黒須のところへ足を運ばなければならないのだが、今回は訳が違う。急な出来事であったため、少将直々に彼らの元へといらっしゃった。よって、今いるところは、隊舎の中でも一等に良い部屋である。
「……4年前の汚職事件を覚えとるか。」
男の言葉に、アランの肩が揺れる。自分か聞いてもいい話なのか。それを北が横目でチラリと見る。思案している様子だった。
「……忘れられません。」
やな。と二人して頷く。何か、当時の出来事と今回の用には関係があるのだろうか。
「して、北。……まだ独り身なんか。」
突然話が飛躍する。少なからず構えていた北とアランは不思議に思った。そんな彼らの心情を知ってか知らずか、黒須は話を続ける。
「いや、お前の事や。相変わらず仕事一本で、ええ機会を逃しとるんやないかと心配しとったんやけど……なんや最近、同じ場所に出入りしてるらしいなあ。」
すぐに見当がついた。あの店の事だ。そして、綾鷹の顔が浮かぶ。
「ええ女でも見つかったんか。」
確信した。黒須は綾鷹に用があるのだ。顔に出すわけにはいかない。必死で平静を装ったが、それとは裏腹に膝の上の拳が震える。黒須はそれを見逃さなかった。
「……図星か。……なら、北。嘘は許さへん。」
その女、元華夜叉五葉やろ。
アランは一人、聞き覚えのない単語に首を傾げていた。勿論、体勢は崩さない。それとは逆に、北は殺気立つ。初めて見るその姿に、彼は動揺を隠しきれなかった。
「そうかっかせんでもええ。別に、お前からその女を奪うつもりはこれっぽっちもない。」
そうは言っても、すぐには納得ができない。黒須は小さくため息を吐きながら、前屈みになる。
「ええか、北。今から話すことは他言無用や。後ろの奴にもしっかり伝えときいーー。」
己の心音が大きく聞こえる気がした。
「大将、まだやっとるか。」
珍しいこともあるもんだ。と誰もが思ったはずである。いつもの時間になっても、北はこなかった。今日はもういらっしゃらないのだと、大将達も片付けを始めた頃、彼はやってきたのである。
「北様、今日はもういらっしゃらないのかとーー。北様、どうかなさいましたか。」
早速、女将が北へ声をかけるが、なんだか様子がおかしい。店先に突っ立って動かない男に、今度は綾鷹が近寄った。
「……北様。如何なさいましたか。大変お疲れのようですが。」
男の視線が女将から綾鷹へとゆっくり移動する。数秒見つめあったのち、彼の方が先に視線を逸らした。いや、綾鷹から逃げたと言った方が正しい気がする。本当に珍しい様子に、綾鷹はここ数日の己の所行を振り返っていた。至っていつもと変わらない。何か粗相をしたわけでも無いし、喧嘩紛いなことも一切無い。いつも通りの時間に彼の方から店へ来て、夕飯を食べ、そして閉店後は家の近くまで送ってくれる。特別な出来事は何も無かった。ではどうしてか。単純に考えて、北自身に何かしらの問題が発生したと見て良いだろう。それならば、軍関係か、はたまた、もっと私的な問題か。
「なんでもあらへん。ちょっと仕事が立て込んでてな。そない不安そうな顔せんでも大丈夫や。」
心なしか、声にも覇気がなかった。しかし、本人が大丈夫だというのだから、これ以上追求するのも変だ。今日のところは誰も何も言わなかった。
いつもの席に腰掛ける。すると大将が申し訳なさそうな顔を北へ向けた。
「北様、申し訳ありません。いつもの時間に見えなかったので、てっきり今日はいらっしゃらないものと……。」
料理を大方、片してしまったのだ。今すぐに用意できるものと言えば、お茶と、少しのつまみ程度。これでは腹も満たない。
「かまへんよ。こない時間、普通なら店閉めてもおかしない。開けてくれとっただけでも有難いっちゅうもんや。」
そう言って、出てきたものに文句ひとつ言わず、北は食べ始めた。
店仕舞いの時間ギリギリに現れた北は、今日も変わらず綾鷹を家まで送る。その二人の後ろ姿を大将と女将は心配そうに見ていた。こんな姿は初めて見るからだ。それに、何か嫌な予感がしてならなかった。
「ねえ、あなた。私の勘違いなら良いのだけれど……。」
彼女の言わんとしていることが分かるのか、大将も、ううん、と腕を組む。
「俺らが出来ることは何も無い。……明日は北様が多少、遅くいらしても良いように、少しゆっくり片付けを始めるか。」
彼らにとっても、北信介という男は身内に近い存在となっていた。どうか、この穏やかな日常が奪われませんように。心の中でそう祈ったのである。