第一章 再会
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
北信介と言う男のことは、実のところよく知らない。過去に何度か仕事を一緒にしたことがある程度だが、歳の割には地に足がついていて、そして有能であると言うことだけは鮮明に覚えている。あの騒動以来、噂の男は毎日のように「呑んだくれ」に足を運んだ。私の日常は色々と変わってしまったらしい。
「邪魔するで。」
今日もいらっしゃった。厨房の奥で糠につけていた野菜やら果物やらをひっくり返していると、静かだがよく通る声が聞こえた。どうして毎日いらっしゃるのか。仮にも軍人さんだ。お国のために日夜お勤めに忙しいお方が、毎日飲み屋に顔を出すというのも世間的に見てどうなのか。そう思うのも、もう何度目になるかと考えだして、途中でやめた。と言うよりも、一月近く前から放棄したと言うほうが正しい。
「ああ、北様。今日も寄ってくださったんですか。毎日お忙しいのに、ありがとうございます。」
さすが女将さん。長年お客の相手をしてきただけある。人付きの良い笑顔で北をいつもの席へ座らせた。
「綾鷹ちゃん。北様いらっしゃったわよ。」
そして極め付けは、決まって私を呼びに来ることだ。やめてくれ。このご夫婦には返し切れないほどの恩がある。私がこの人達に口ごたえできないことを知っているのか定ではないが、かれこれ今日まで、女将さんの好意に甘えるかの如く、北自身が私を直接呼んだことは一度も無い。悔しいことに。側からみれば、私がこの男の相手を勝手出ている様ではないか。断じて違う。
「今日もええか。」
何がとは言わない。仮にも商売人として「いいえ」「ダメです」なんて口が裂けても言えない。色々言いたいことはあるが、とりあえず全て喉の奥に引っ込めて、お好きにどうぞ、と言っておく。それを見て北はいつも通り、つれへんな、と楽しそうに笑うのだ。何が楽しいんだ。
「毎日毎日ご苦労様です。北様は他の殿方と違って、仕事が早いご様子で。」
笑ってなんかやるか。そう決めて清酒をお猪口へ注いだ。ここへ毎日足を運ぶ北だが、毎回酒を嗜むかと言うとそうではない。さすがに二日酔いで勤務はできないからだろう。その代わり、そういう日は決まって料理中心の注文を入れる。今日は翌日が公休日ゆえに酒をご所望されたが。
「ホンマに俺は幸せもんや。優秀な部下がついてくれとる。こうして好きな場所でうまい飯が食えるんも、そいつらのお陰や。」
今度は、あいつらも連れてこうか。そう聞こえた。次回店に来る口実を作ってしまったようで、黙る以外なかった。
「北様、いらっしゃいませ。今日は何にしやしょうか。」
大将が包丁を握りながら北へ訪ねた。これも、ここ最近のお決まりだ。昨夜はいい魚が手に入ったとかで刺身を召し上がった。
「なんでもええよ。大将がこさえてくれはるもんは、全部美味い。文句は言わへん。」
この一言がきっと大将を虜にしてしまったんだろうとな思う。強面の亭主が身内にしか見せない笑みを北へ向けた。白い歯が今日も眩しい。
「それなら、おでんなんかどうかしら。最近は一段と寒くなってしまって。お客の中にも風邪をひいてしまった方がいらっしゃったわ。」
北様もお体が資本でしょう。すかさず女将がそう付け加えた。そう言えば、最近は呉服屋の良二さんも飲みに来なくなった。良二とは、「呑んだくれ」の前を横切る通りを少し行った先ある老舗呉服屋の次男坊だ。綾鷹よりも2つ年下で、綾鷹をよく口説きにきていた。初めは一つ一つ丁寧に対応していたのだが、いいかげん面倒臭くなりだしたことは秘密だ。
「見なくなったと言えば、呉服屋の良二さん。最近はめっきりね。」
あんなにお熱い人だったのに。そうだな。なんて大将と女将さんが首を傾げた。この二人は読唇術の心得でもあるのだろうか。耳慣れない良二という名前に北もつられて首を傾げる。
「良二とは。」
「……この店と同じ通りにある、老舗呉服屋の御子息です。北様がよくいらっしゃる前は、頻繁に飲みにきていたんですが……近くみかけません。」
ふうん。となんの相槌かわからない反応を北は見せた。
「特別仲がええんか。」
いいえ、全く。ため息混じりに頭を数回左右に振っておく。
「常連やったんやろ。歳も近いみたいやし。」
「お客様として何度かお話ししましたが、それ以外は特に何もありませんよ。」
断じて口説かれていたとは認めない。
「綾鷹ちゃん。そんなつれないこと言わないであげて。良二さん、とっても一生懸命だったじゃない。あなたを逢引に誘うって。」
女将の一言で全てが木っ端微塵に砕け散った。
ちらりと北を盗み見ると、狐につままれたような顔をしている。ああ、もったいない。先日の生意気な少尉も甘い顔の持ち主だったが、北は北で整った面立ちをしている。その表情が、今度は眉間に少し皺を寄せていた。
「そのお顔、何が言いたいんです。」
「……なんや、だいぶ見いひん間にえらい丸くなりはったな、と。昔はこない話できひんかったやろ。」
何も言えなくなった。確かにあの頃と今はだいぶ違う。時の経過と共に姿、形、立場、そして心のありようも。
「捨てられるものは捨ててきたつもりです。お天道様の下を堂々と歩けるんだったら、今は何も要りません。」
お互い思うことがあったのだろう。北は空いたお猪口に自ら酒を流し入れた。
「あの後、どないしたん……。」
女将さん特製のおでんを堪能してしばらく、静かに食事をしていた北が再び口を開いた。この男、酒が入ると案外よく喋る。様子からして酔っている訳ではなさそうだ。
「何のことです。」
空の徳利を脇から下げながら、聞き返した。
「……燃えはったやろ、街が。ぎょうさん人も亡くなったゆうんは聞いた。」
嫌でも蘇る、あの光景。今でこそ話もできる様になったが、当時は誰もが避けた話題だ。それだけ被害が大きかった。
「どうもしないですよ。街は焼け落ちた建物の残骸以外、何も残りませんでした。何もかもが呆気なく終わったんです。」
私の育ったあの家も、そして私を育ててくれたあの人も全て。
「火災の後、私たちは自然と離れていきました。その後の足取りは把握していません。ただ、皆優秀な者ばかりでしたので、どこかで野垂れ死んでなどはいないでしょう。」
確かに、と小さく北が笑う。街が火の手に飲まれるままに、全て燃え尽きてしまったそのあと、これ幸いと言うように、政府が売春行為を禁ずる法を立てた。以前から国の連中はこの街をどう消そうか考えていたのだ。これにより、全国で遊郭街は数を減らしている。しかしながら、まだ消滅まではしていない。文明開化を急ぐ故に詰めが甘いというか、今は此処までしかできないのか。単に、春を売る店が公に認められなくなっただけで、人身売買は減らないし、根本的な解決にはなっていないのだ。力不足と言うべきか。隠れて、同じ様なことをやり出す輩は必ず現れる。それに、一度あの世界へ足を踏み入れてしまったら最後、簡単に戻ってはこれない。闇は深いのだ。そう言う私も、結局は焼け落ちたあの街の近くを離れられないでいる。
「怪我はせえへんかったか。」
一瞬何のことだかわからなかった。しばし間が空いたあと、私のことを言っているのだと。
「ええ、どこも……なぜお尋ねに。」
今度は北の思考が止まる。
「あない派手に燃えたんや。もしかしたら、お前の身に何かあったのかと……。」
なぜ、あなたがそれを気にするのか。どうして、そんな話がしたいのか。いや、そもそも、なぜ私を放っておいてくれないのか。少しでも長く、あの過去を忘れたいのに。
「お気遣い、ありがとうございます。」
差し障りのないよう答えた。しかし、北の顔はすぐれない。いや、基本的に表情が変わらない北だが、ここ一月近くで大まかな気持ちの変化には気づけるようになった。間違ってはいないはずだ。だが、何か違う気がする。何だ、何が正解だったんだ。気まずい空気だけが漂っていた。
店仕舞いの時間。北は決まって最後まで居座る。一度、早く帰らなくて良いのかと訪ねたことがあった。ええねん、と一言返されて会話は終了。今日も結局最後まで時間を過ごした。大将夫婦は飲み屋の二階に住んでいるため、いつも私は一人で帰る。だんだんと寒さが厳しくなってきたな、と掌に息を吹きかけた。
「明日は雪やな。」
陸軍で支給された分厚い外套を羽織りながら北も同じく店の外へ出る。
「どうして、お分かりに。」
感や。あ、そう。適当にも程がある。冬空の下。夜の帝都。昼間は人ばかりで煩いこの通りも、今は物音一つしない。夜道を未婚の女が一人歩いて帰るのは、かなり好ましくないが、私は案外この空気がお気に入りだ。
「家どこや。送ってく。」
奴のこの一言がなければ、もっと最高であったのに。
「お気遣いどうも。けど、一人で大丈夫です。」
北は私が一人でも平気な理由を知っているはずだ。だが、身を引く気配はなかった。
「……男に花、持たせてくれや。」
渋々二人で歩き出す。お前の面子なんか知らない。そう突き返すこともできたが、そうする気分にはならなかった。2歩ほど間隔を前後に開けながら夜道を進む。帰り道のこの静けさが好きだったのに、今は苦しい。
「あの店に勤めて、どれくらいになるん。」
「2年とちょっとになります。」
「大将らとは知り合いやったんか。」
「いいえ、運よく拾ってもらいました。」
「一人で住んどるの。」
「はい。」
「大変やないか。」
「いいえ。」
こんな感じで会話とよんでいのか分からない言葉の応酬を幾つかこなしているうちに、家の近くまできた。
「あの、もうこの辺で。」
ああ、この辺りにすんどるんやね。周りを少し見渡しながら、北が呟いた。私が住んでいるのは、飲み屋から少し離れた先にある長屋だ。最近は西洋風の賃貸住宅が目立ってきたが、如何せん家賃が高い。治安の問題や防犯の面で大分心細いが、今は致し方ないのだ。
「今度、あいつらも連れて飲みに行く。」
あいつらとは、きっと生意気な少尉をはじめとする、あの時の部下たちであろう。お客が入ることは嬉しい。しかし、何やら疲れそうな予感がすることも確かだ。
「侑はああ見えてええ奴や。ちょっとばかし生意気やけど、慣れるとあれも可愛く見えんねん。」
そんな瞬間は一生こないだろう。そう心の中で結論づけて、北に背を向けた。
「梶……」
名前を呼ばれたので、振り返る。
「おやすみ」
片手をチョンと上げて、立ち去る北の背中を、少々呆然とした目で見つめた。私は今日、北信介という男について、改めなければならないことがある。歳の割には落ち着いていて、一等優秀だが、酒が入ると口が回るようになる。そして、とても柔らかい顔でおやすみが言えるということ。