第二章 歩寄
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なでなで。としばらく北の好きにさせていたが、だんだんと鼻の奥がツンとしてきた。先ほどから我慢していたが、そろそろ限界が近い。そう思った時だった。
くしゅんっ。
なんとも言えない沈黙が生まれる。いや、会話は元々無かったのだが。
「あかん、冷えてしもうたか。」
すぐさま北が綾鷹の体温を測る。首の付け根に手を当てながら、しばし何かを考えたのち、口を開いた。
「梶、今すぐ脱ぎい。」
「……へっ。」
反射的に襟元を両の手でぎゅっと押さえる。その様子を見て、北がすぐに言い直した。
「ちゃう。そういう意味やない。着替えろゆうたんや。」
そういうことか、と理解する。何やら変な想像をしてしまった自分が嫌らししい。自己嫌悪に陥っている間に、北が綾鷹の部屋を物色し始める。
「き、北様。何を。」
「何って、着替えを探しとる。そのまま裸でおるわけにもいかんやろ。」
元々物が少ない彼女の部屋だ。目当ての物はすぐに見つかった。
「ほら、ぶりかえす前に早よ着替えてしまい。せっかく回復したんや。」
ぽいっ、と新しい着替えをこちらへ寄越した。成り行きでそのまま受け取り、帯を途中まで緩めたところでハッとする。
「北様……。」
「なんや。」
「あの……着替えます。ちゃんと着替えますので一度退室を……。」
ああ、と返事をしてクルッと後ろを向く。違う。そうじゃない。そうじゃないのだ。
「北様……あの……。」
「なんや。ちゃんと見いひんように後ろ向いたやろ。……それとも、一人じゃ着替えられへんのか。」
またこちらを向こうとして、慌てて引き止めた。
「き、着替えます。すぐ着替えますので、そのままでっ。そのままでお願いしますっ。」
しのごの言っていられない。こちらを振り返ってしまう前に済まさなければ。北の方から、チッと舌打ちが聞こえた気がしたが、忘れることにした。
微かに帯を解く音がする。すぐ後ろで惚れた女が着替えている。普通ならこの状況に男として喜びを感じるはずなのだが、今回は鬼気迫る表情で着替える綾鷹がいた。色気も何もない。本当にわずかな時間で着替え終えてしまった彼女に、少々残念な気持ちになる。
「終わりました。」
言葉を合図に、再び振り返った。うん、先ほどと変わらない。多少よれていた具合が、新しい寝巻きに変わっただけだった。じっと見つめるられる目に耐えきれず、視線を逸らす。
「こ、これでよろしかったでしょうか。」
「ああ。問題あらへん。」
嘘をおっしゃい。明らかに残念がっているではないか。もはや彼女の前で本音と建前が上手く隠しきれていない北に、そう簡単に見られてたまるものか、と変なところで綾鷹は意地を張る。
無事、という言い方に疑問が残るが、とりあえず、何事もなく着替えを済ませた綾鷹に、とりあえず満足をした北が、台所へと歩き出した。
「梶、少し借りるで。」
彼女の了解を得る前に鍋を掴み、米を研ぎ始める。何をする気だろうか。綾鷹の視線に応えるように、北が言った。
「薬を飲まなあかん。けど、その前に何か腹に入れんとな。なんでも馴らしが必要や。」
どうやら口にできるものを作ってくれるらしい。意外にも手際が良いので、ついつい尋ねてしまった。
「……随分と慣れていらっしゃいますね。」
「ん。ああ、大将んとこに世話なる前は、自炊しとったからな。」
これはこれは。意外や意外。それなりのお立場のお方だから、それこそ毎夜、どこぞの料亭で過ごしているのだろうと思っていた。それが、自炊とは。
「そない見られると、なんややりにくなあ。」
そう言いつつも、作業を止める気配はない。一品出来上がるまで、そのまま見守ることにした。
卵のいい匂いが部屋に漂い始めた。優しい香りとその見た目に自然と気も緩む。適当な器に、適度な量を盛り、蓮華と一緒に差し出された粥を、ありがたく受け取った。一口、口へ入れる。じんわりと体が温まる。
「どうや。」
「とっても美味しいです。一体どこで料理を。」
北が嬉しそうに微笑んだ。
「ばあちゃんや。」
「お祖母様が。」
「おん。帝都に来る前は神戸の実家から通っとった。そん時は、ばあちゃんが飯を作ってくれとったからな。」
俺の師匠はばあちゃんや。懐かしそうに、去し日を思い出しながら語る。
「大変、料理上手なお祖母様だったんでしょうね。」
おん。たった一言であった。しかし、そこに北の思いの全てが詰まっている。一度でいいから、会ってみたかったと、そう思った。
「お前は自炊するんか。」
ふと気になったことを口にしただけだろう。先ほどまで使っていた台所を見ながら、今度は北が綾鷹へ尋ねる。凝った調理道具は無いが、一般家庭に置いてあるような物は揃っていた。
「昼食をたまに。けど、私も今は大将のお料理をいただくことが多くなりました。」
それは、意図せずに同じ食事をとっていることと同意であった。
「先週は煮っ転がしやったなあ。」
「そう言えば、土曜の賄いに同じ物が出ていたかも……。もしかして、次の日は松前漬でしたか。」
「ん。……なんや、お前も同じもん、食べとったんか。」
思いもよらない発見に、二人して笑い合う。一言、二言、交えながら粥を食べ進めた。
釜の中身が無くなったところで、北が懐から小さな包みを出す。粉薬だ。それを素直に飲んで、追うように水で流し込んだ。薬が苦いことは、もうこの世が創られし時から決まっていたというのに、その味に顔が歪んでしまう。その場面を北がはっきりと目撃してしまったものだから、いたたまれなくなった。いい大人が恥ずかしい。
隣宅の犬が遠吠えを始める。それにつられて、野犬かどこかの飼い犬が返事をするように鳴き返した。もう、すっかり夜である。北は後片付けまでちゃっかり済ませてしまった。食事の世話になった綾鷹が代わりに片付けると申し出たものの、華麗に躱され、来たときよりも綺麗になってしまった台所が現れる。申し訳ない気持ちが上積みされた。
「さっきょりも冷えて来たなあ。」
「もう、いい時間ですから。北様、明日もお仕事がありますでしょう。もうお帰りくださいませ。」
綾鷹が寝込んでいる間、4回も見舞いに来てくれたのだ。北のことだから、様子を見るだけじゃなく、水を飲ませてくれたり、手拭いを変えてくれたり、もしかしたら、それ以上のこともやってくれたのではないかと思う。もういい加減十分だ。彼のことを考えて、そう口にした。
「……は。」
あれ、どこで間違えた。予想外の反応に戸惑いを通り越して、思考が停止してしまう。たちまち機嫌が悪くなる北に、綾鷹はそう思わざるを得なかった。
「お前、自分の状態が分かっとるんか。」
そう言われ、キョロキョロと身辺を見回した。いや、特に変なところはないはずだ。
「……少し熱が下がったからって病み上がりに違いないやろ。また倒れたりでもしたらどないすんねん。しっかり治るまで、今日までは用心しい。」
先ほど熱を測った時、確かに回復へと向かっていた。しかし、完全に下がり切っているわけではない。数日、高すぎる熱にうなされていた。その状態に慣れてしまった体は、多少熱が下がっただけでとても楽に感じてしまう。平常に戻ったと勘違いしてしまうのだ。しかし、実際はまだまだ本調子とは言えない。綾鷹もまたそう錯覚していた。
「そんな大袈裟な。」
「そうやって甘くみとる奴が、同じ過ちを犯すんやで。」
言い返せなかった。渋々、北の滞在に頷く。まあ、もう少ししたら帰るだろう。流石に泊まるつもりはないはずだ。というか、私が嫌である。その考えが甘かったと知るのは、少し先のことだった。
「あの、北様。」
「ん。」
「もう、深夜ですでけ。」
「知っとるよ。」
「……お帰りはいつ。」
「ん。」
「で、ですから。いつお帰りに。」
「帰らへんよ。」
「……は。」
「せやから今日は帰らへん。そのつもりで、ここにくる前に一旦家へ寄ったんや。」
数時間前の出来事を思い出す。彼との会話をもう一度頭の中で繰り返したところで、あああああ、と叫びたくなった。いや、まだ諦めるのは早い。なぜなら、お泊まりするにしても色々と足りない物があるからだ。
「あ、明日のお勤めはどうされるのですか。ここからだと隊舎までお時間がかかりますし。」
「ん、多少歩くんは問題ない。ええ運動や。」
これは駄目だったか。では……。
「お着替えも必要でしょうし。」
「おん。持って来た。」
そう言って風呂敷を持ち上げる。ちゃっかり軍帽まで揃っているのが見えて、準備の良さに感心してしまった。これも駄目。では路線を変えて……。
「私の部屋から軍人さんが出ていった、なんて噂が広がるのは、少し恥ずかしいですし。」
「……なんや、そない事心配しとったんか。安心せえ。夜明け前には出て行ったる。」
「そんな。それだったこのままお帰りくださった方が楽ではありませんか。」
「……この前も明け方前に帰ったやろ。それで問題ないゆうんが証明されとる。」
ああ、しまった。良二に尾けられた日の記憶が蘇る。確かに。確かに明け方ごろお帰りになった。しかもその日はお着替えもない状況で。
「それに、4回も足運んどったら、既に誰かしらに見られとる。」
「んんんんんっ。」
では、では……。と往生際悪く北に帰ってもらう理由を探す。そんな綾鷹を、北は根気強く待った。この負けず嫌いで、変に矜恃の高い女の本音を聞くには、時間をかけるのが一番だとついこの間学んだからだ。
「しかし、ここには北様がお休みになる場所がありません。……北様、私が寝台から降りたらお怒りになりますでしょう。」
立ち上がっただけで口酸っぱく注意されるくらいだ、寝台を譲なんて以ての外である。
「問題ない。俺が座って寝ればええ。」
「いけませんっ。」
想像以上に大きな声が出る。遠慮しながら言葉を選んでいた彼女にしては、珍しい姿だった。
「今度は北様がお風邪を召してしまいます。これでは本末転倒でしょう。」
言っていることは正しい。正しいのだが、ではどうすればいいのか。
「ですから、今日はもうお帰りにーー。」
「なら。一緒に寝ればええやろ。」
頭を殴られたような、そんな衝撃が走った。