第二章 歩寄
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懐かしい夢を見た。
痩せた姐さんの膝に頭を乗せ、小鳥のさえずりのような子守唄を聴く。トントンと肩を叩くその振動が、自然と鼓動と重なった。ゆっくり、じんわりと眠りに誘われる。
「可愛い綾鷹、本当に甘えん坊さん。」
困ったような、だけれども愛おしいような。そんな気持ちが声に染み出ていた。姐さんを困らせると分かっていても、お店が始まる前のこの短い時間が、一等好きであった。何たって、唯一、大好きな姐さんを独り占めできる。お客もいなければ、他の禿も各々の準備に忙しいからだ。もう少しすると、姐さんは男達に取られてしまう。
「姐さん、お歌やめないで。」
一曲歌い終わるごとに催促をする。その度に、姐さんが泣きそうな顔をするのを、綾鷹は幼いなりに理解していた。姐さんもこの時間が終わるのが嫌なのだ。きっとここが郭じゃなければ、近所でも評判な美人姉妹とでも噂だっただろう。相思相愛であった。
穏やかな時間は残酷にも終わりを告げる。どたどたと床を乱暴に踏みながら、男が部屋へ入ってきた。姐さんの上客だ。男は入ってくるなり、私たちを指差して怒鳴り散らす。
「照葉、お前、俺を弄んでいたなっ。他の客を取るなと言ったじゃないかっ。」
この阿婆擦れが。恥を知れ。俺がどれだけお前に金をかけたと思っている。身勝手な言葉が飛び交う。姐さんは黙って受け入れるだけだ。とても怖かった。大の男に怒鳴られることそのものも勿論恐ろしい。しかし、一番は姐さんが壊れてしまいそうだったからだ。
男の叫びは段々と激化していった。しまいには泣き崩れる始末だ。
「照葉、俺にはお前だけなんだ。お前しかいないんだよ。なあ、照葉。何とか言ってくれよ。俺を置いていくのか。なあ、愛しているんだ。お前もだろう。もう、どうにもならないんだよっ。」
この世界で一番のご法度は心を差し出してしまうこと。男は姐さんを本当に愛してしまった。いくら他の客を取らないでくれ、と願っても、金を積まれれば受ける。最上位の花魁ではない姐さんに、客を拒む権利は無い。それがこの街だ。世の男にとって夢のような場所だが、その意味を履き違えてはならない。
「もう、もう嫌だ。もう、嫌なんだっ。」
涙でぐちゃぐちゃな顔をした男は、懐から刃物を取り出す。何をする気なのか、直ぐに分かった。思わず姐さんの前に立ち、両手を広げる。
「照葉、一緒にいこう。」
一瞬にして全てが終わった。
背中が焼けるように熱い。けれども、目の前で腹を刺されて息たえる姐さん。やってしまったと、顔が真っ白になる男。走馬灯のようにかけ抜ける。
姐さん、姐さん。行かないで。置いて行っちゃ嫌だ。また、お歌を歌ってよ。姐さんーー。
荒い呼吸とともに目が覚める。起き上がろうとして、うまく体が動かない事に気がついた。汗で濡れた寝巻きが気持ち悪い。ぎゅっと両目を閉じ、ゆっくり再び開く。薄暗い部屋をぐるりと見渡した。ふと、水桶が目に入る。その隣には飲みかけの湯飲み。きれいに整えられた寝具を見て、誰かが先ほどまで居た事実を知る。誰だ。回らない頭で考えを巡らせた。窓の外を見る。時刻は夕方と言ったところか。何と二日近く寝込んでいたらしい。ゆっくり体を起こし、着替えるために立ち上がった。ぽとり、と側に何かが落ちる。しゃがんで拾おうとした時、戸が一人でに開いた。
「目え覚めたか。」
ここにいるはずのない男が立っている。
「……北様。なぜ、ここに……。」
何も言わず、つかつかと部屋へ上がりこみ、動揺を隠せない綾鷹の額へ手を当てた。心なしか怒っているように見える。
「北様、どうしてっ。」
「ええから座れ。なんで立ち上がっとるんや。」
有無を言わさない。言われるがまま、寝台へ腰掛けた。
「熱が引いてきたか。せやけど、まだまだ高いな。水は飲んだんか。」
「いいえ、まだ。」
「何しとる。早よ飲めや。」
お母様。いや、目の前にいるのは既に成人した男性なのだが。是非ともお母様と呼ばせていただきたい。ずいっと差し出された湯飲みを受け取り、北の顔色を伺いながら水を口へ含んだ。
「落ち着いたか。」
与えられた分だけ水を飲み干した頃合いを見計らい、北が声をかける。
「はい。……北様、ここは私の家ですよ。」
店ではありません。と続いた言葉に、北はこめかみを押さえた。
「そないこと知っとる。梶、お前は俺を馬鹿にしとるんか。」
慌てて否定した。はあ、とため息を吐かれる。しゅんと音を立てて身が小さくなった。
「女将から聞いたんや。して、お前、大将達にも家教えてへんかったんやてなあ。」
なんとなく、北が怒っている理由に気付き始める。
「お前はアホか。俺が来んかったら今頃お陀仏や。それともなんか、早よ死にたいんか。」
「滅相もござません。」
先ほどよりも、大きな溜息が聞こえた。
「ほんまに……寿命が縮まるかと思うたわ。」
目の前で仁王立ちしていた男が、力が抜けたように隣へと腰掛ける。そこで、ふと気がついた。
「北様。制服が……。」
「ん。……ああ、今日は一旦、家へ帰ったんや。着替えてきた。」
だからか。軍服をきっちりと着込んだ姿しか見たことがないせいで、今日のような緩い格好がとても新鮮に思えた。それでも、白い詰め襟のシャツに灰黄色のパンツ姿という洋装であったが。
「なんや。いつでも制服着とるん思うたんか。」
黙りを決め込んだ私に、図星だったのかと笑った。もう、怒りはどこかへ飛んで行ったらしい。ひとまずほっとする。気分も随分良くなったと思った時、彼の言葉に違和感を覚えた。しばらく考えて、ある結論に到る。
「……北様。その、もしかして、私が眠っている間もいらっしゃったりなんか……。」
「おん。4回くらい来た。」
ひえええ。梶綾鷹、心の叫びである。思っていたよりもお世話になっている。いや、それよりも、北の訪問に全く気がつかなかった自分が信じられない。
「そ、それは。……大変、申し訳ございませんでした。北様のお手を煩わせるなどーー。」
あってはなりませんのに。そう続くはずだった言葉が、尻切れトンボのように途中で止まってしまう。それは北が優しく綾鷹の頬を撫でたからに他ならない。いつかのような、愛でる撫で方ではなく、彼女の存在を確かめるために。掌全体が輪郭を覆った。
「全然気にしてへんよ。お前が無事でほんまに良かったわ。」
いけないと分かっている。しかし、思わず猫のように目が閉じてしまった。このまま喉まで鳴りそうだ。気が弱くなっているせいかだろうか。温かいと素直に認めてしまう。今日はなんとなく、そのままでいることが許される気がして、されるがまま、しばらく北のやりたいように身を任せることにした。