第二章 歩寄
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翌日。綾鷹は何十年かぶりに熱を出した。何と情けないことか。起き抜けに全身が痛む感覚が風邪の症状だと思い出すのに、とても時間がかかった。本格的に動けなくなる前に、店へと急ぐ。何だか昨夜から走ってばかりだ。綾鷹の突然の訪問と、その顔色の悪さに仰天した夫婦は、お休みを快く許してくださった。さて、一晩で良くなるだろうか。こんな時、姐さんはどうしてくれたっけ。記憶の奥底に眠っていた光景を思い出しながら、再び床に就く。柔い粥と、少しの薬。そして大量の水を用意して、気は進まないものの、一眠りする事にした。
こんな気持ちは初めてであった。北は昨夜の光景を思い出しながら、今日も店へ向かう。その足取りはいつもより重い。どうしたら彼女に受け入れてもらえるのか。そればかりが永遠と頭の中を巡る。残念ながら、あまり良い方法は思いつかなかった。
「大将、邪魔するで。」
店の戸を開きながら、お決まりの文句を口にする。そして、すぐに違和感の正体に気がついた。
「……何や、梶は今日休みか。」
「北様。いらっしゃいませ。」
心なしか女将の声も弱々しい。一体どうしたというのだ。
「綾鷹ちゃん、体調崩しちまったみたいで。今朝、休みを貰いに店まできてたんです。」
「その時の顔が本当に辛そうで。……今頃大丈夫かしら。彼女、一人でしょ。倒れてたりなんかしたら、私、どうしましょう。」
話を聞いていくと、女将が彼女の看病をしようとしたらしい。が、如何せん、住まいが分からないと。梶のやつ、この人達にも家を隠しとったんか。呆れてしまった。
「北様。いつも綾鷹ちゃん送ってくださってますでしょ。彼女のお家、知りませんか。」
縋る思いで女将が尋ねる。何も言わず、ただ頷いた。
綾鷹と歩いた道を今は一人で歩く。ガス灯近くまでは何度も行っている為、迷いがない。しかし、その先は一度きり。しかも、皆が寝静まった真夜中にだ。今日は店でゆっくりすることはしなかった。女将達から彼女の容態を聞き、そのまま綾鷹宅へと向かう。
長屋と言っても、多少改築されているようで、さすがに昔ながらというわけではない。無理やり感は否めないが、畳間を板張りの床へと作り直されているところもあった。綾鷹の部屋がそうだ。その為、彼女の寝床は布団ではなく、簡単な寝台が部屋についていた。あの夜の記憶を元に、彼女の部屋と思しき戸を叩く。数回それを繰り返して中の様子を伺った。
「梶、居るんか。……梶、聞こえとるか。」
しばらくしても反応が無い。彼らの、倒れてないと良いけど、という言葉が胸を騒つかせた。
「梶、どないした……。」
再度戸を叩き、いよいよ不安になる。いけないとは分かっていても、戸を許可なしに引いた。
「鍵……掛けとらんのか。」
すんなり開いてしまう。入るで、と一応一言入れてから足を踏み入れた。部屋の中は真っ暗で、生き物の気配が全くしない。狭い部屋の中を見回し、足元に視線を向ける。全身から血の気が引いた。
「梶っ。」
急いで駆け寄り、床と挨拶を交わす綾鷹を抱き起こす。顔が真っ青だ。一体いつからこの状態なのか。体の末端は氷のように冷たいのに、額に当てた手は異常に熱い。発汗もない様子からずっと高い熱が続いているのだろう。呼吸も弱々しく、小刻みだった。側には飲みかけの湯飲みが転がっている。
状況を確認した後の北の動きに、一切、迷いはなかった。横抱きにした綾鷹を寝台へ戻し、床に転がった湯飲みを拾う。彼女の上体を後ろから抱き込むように起こし、声をかけながら肩を揺すった。
「梶、聞こえるか。梶、梶。」
何度目かの声かけに、わずかに綾鷹のまぶたが震える。意識は朦朧としているものの、北の声は聞こえているらしい。幸にして、口元へ近づけた水をコクコクと少しずつ自力で飲み出した。一先ずほっとする。今度は桶と手拭いを準備して、水分を含ませた布を固く絞り、きっちりと閉じた襟元を緩めた。とりあえず今は上がり過ぎた熱を下げることが最優先だ。
「堪忍な……。」
頸から手を入れ、華奢な腰へ向かって優しく拭きあげる。その際、大きな血管が通る場所を重点的に押さえるようにした。こうする事で、より効率的に熱を下げる事ができる。彼がまだ幼い頃、親代わりであった祖母がそうしてくれた。丁寧にその動作を繰り返す。すると、北の指が滑らかな肌の上で、微かな凹凸を捉えた。両の肩甲骨の間を繋ぐようにそれはあった。生憎、直接見たわけではない。しかし、この感触は知っている。何度となく目にしてきたし、自分の体にもあるモノだ。
「刀傷か……こんなもん、一体どこでつけてきたんや。」
誰に付けられたのか。途端にモヤモヤとした気持ちが胸に広がる。あの街で彼女はどんな風に生きていたのか。自分と出会った頃の、まだ幼さが残る綾鷹を思い出した。
一通りやるべきことはやった。後は、綾鷹の回復力に委ねるだけだ。本当は何か口にするのが好ましいのだが、今の状態では到底無理そうである。北自身も少し休もうと、横たわる彼女のそばへ腰掛け、幾分か穏やかになった寝顔を見つめた。
「俺は、お前のことを何も知らんのやな。」
指先を見つめて、そう呟く。白く柔らかい皮膚を横一文字に裂く傷跡。そんなものが彼女の体に有るなど、知らなかった。まあ、綾鷹が自分のことを話してくれたことなんか一度もないが。それでも、何も知らないと言う事実を突きつけられた気がするのだ。
「俺もそろそろ病気やな。」
乾いた笑いが出る。ここまで彼女に執着する自分に、一番、己が驚いていた。良い大人が、情けない。けれども、欲しいものは欲しいのだ。そばに置いておきたい。一緒にいたい。それが男と言う生き物であることも、この年になるとよく分かっていた。小まめに手拭いを絞っては額へ載せる。今はこれぐらいしかできない。彼女の苦しみが少しでも早く消えるよう願いながら、腕をくみ、目を閉じた。