第二章 歩寄
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「あの女、うまく逃げよったわ。」
たらふく食べた。北が皆に勧めるだけある店だったと、アランは正直な感想を持つ。ほくほく顔で前を歩く治と北の後ろを、侑と並んで歩いていた。
「……北さんは、あの女の素性を知っとるんかな。」
侑の専らの心配事はそこである。何か、悪い女に騙されているのではないか、と。北に限ってそれは有り得ないと思うものの、大切な人が悲しむ姿は見たくない。
「さあな。俺も詳しくは知らんねん。ただ、今日の調子だと北の一方通行やなあ。」
二人して、ううん、と腕を組む。それはそれで、なんだか納得がいかないものだ。
「北さんほど良え男を俺は知らん。それを、あの女は何が不満なんやろか。」
弱冠26で帝国陸軍少佐の地位につき、上げてきた功績は数知れない。他人には優しく、自分には厳しいという性格も相まってか、部下からの信頼も大変厚い男である。さらに言えば、容姿端麗、質実剛健、不言実行、と男の理想がギュッと詰まったお人だ。益々、北に惚れない綾鷹を不思議に思う。同性である彼らでさえも、北の男気には度々やられているというのに。
「まあ、只人じゃないゆうことは分かった。」
彼女との会話で決定的な何かを得ることはできなかったが、無駄だったわけじゃない。綾鷹は至って何でもない様な顔をしていたが、その返しのなんと巧妙なことか。言葉一つ一つに教養の痕が見られた。そこらへんの娘と同じように育ったとは説明がつかない。
「……素性を明かしたくない理由は、この世にぎょうさん有るからな。」
このご時世、隠したいことの一つや二つ有るのが当たり前だ。それを、よく知らない相手に根掘り葉掘り聞くのは好ましくない事くらい、アランも分かっていた。
「様子見やなあ。」
侑も賛同する。白い息を吐き出しながら、ふと空を見上げる。星がよく見る夜だった。今日は一段と空が澄んでいて、その様子が何も手応えのない綾鷹と重なってしまったのは、もはや致し方ない事である。
大将と女将はほっとした表情で後片付けをしていた。その様子を綾鷹も満足そうに見つめる。結果から言うと、今夜のおもてなしは大成功であった。心配だった治様の胃袋も満足させられたようだし、北様もいつも通り楽しんでいらっしゃった。選んだ料理たちも余す事なく彼らの口に消えていったし、これ以上の成果はないのではなかろうか。ただ一つ、気になったのは、アラン様と侑様の視線。これは私限定で向けられていたので、大将達とは何も関係ない。今日のために移動した机やら椅子やらを元の位置に戻しつつ、綾鷹は考えを巡らす。己に害のある人たちでは無かったものの、今後、彼らとどう関わっていくのか、不安は残る。自然とため息が出た。
大方片付いたあたりで、大将が声をかける。
「綾鷹ちゃん。今日はありがとうな。おかげで北様も喜んでもらえたようだし、ほっとしたよ。お疲れさん。」
沈んでいた気分が微かに戻っていく。大将の笑顔は魔法みたいだった。
「いいえ、そんな。ここで働かせてもらっているんです。こんなの当たり前です。」
「そんなことないわよ。私たちとっても助かってるんだから。」
すかさず女将がにこにこと綾鷹を褒める。素直に嬉しいと感じるようになったのも、彼らのお陰だ。和やかな雰囲気に包まれていると、ふと入り口から人の気配がする。ガラガラと引き戸が開き、よく見知った男が現れた。
「北様。いかがなさいましたか。」
先ほど部下たちと帰った北が、戻ってきたのだ。忘れ物か、それとも粗相があったのか。
「いや、そろそろ上がりやと思うてな。」
そう言うと綾鷹を見る。
「待っとる。ゆっくり準備しいや。」
再び店の外へ出ていった北に、一同唖然とする。しばらくして女将が黄色い歓声をあげた。
「綾鷹ちゃんっ綾鷹ちゃんっ。もうお上りよ。北様待たせちゃ悪いわ。」
肩をぐいぐい押され、あれよあれよという間に身支度をすまされた。気づけば、ぽいっと店から出される。女将の、それはそれは洗礼された無駄のない動きに圧倒されつつ、綾鷹は退勤したのだった。女将が大変嬉しそうだったのは、気のせいだろうか。
思っていたよりも早く出てきた彼女に、ついつい嬉しさがこみ上げる。が、その顔を見て途端に引っ込んだ。びっくり顔で出てきた綾鷹に、北は尋ねる。
「どないした。驚いた顔して。」
ギギギと隣の北に首だけ向けて、綾鷹は目をパチクリさせる。
「いえ、女将の無駄のない動きに少々圧倒されただけです。」
彼女の言っていることがよく分からない。しかし、とりあえず頷いておくことにした。北信介はできた男である。
「それよりも北様。先ほど皆様と一緒にお帰りになったではありませんか。どうしてわざわざお戻りに。」
「いや、いつも一緒に帰っとるやろ。何や、今日だけ梶を置いて行くんが変な気いしてな。」
迎えにきた。何とまあ。世の中の婦女子たちが悶え苦しむ場面である。だが、綾鷹にとっては理解に苦しむ状況だ。
「そんな、申し訳がありません。明日もお仕事でしょうに。……そんなことなさらなくても、北様は私が一人でも平気な理由をご存知のはずです。」
以前にも似たような話をこの男と交わした気がする。気のせいだと思いたい。
「そないこと、よお知っとる。せやけど二人なら尚更無敵やろ。」
意地悪が成功した子供のような顔に、何も言えなくなる。肯定的とみるか強引だとみるかは、受け取る側の器にもよるだろう。少なくとも、綾鷹には無意味な行動に思えた。しかし、そこに好意がある事も知っている。無下に断る勇気も無い。ではどうするか。黙って受け入れるのが吉だとその場は結論した。
二人してすっかり慣れてしまった道のりを歩く。何となく、あの日以来、綾鷹は北の隣に立つようになった。そうしないと、北の機嫌がいささか悪くなる事を学習したからだ。
「ほんまにおおきにな。治達のために、あないぎょうさん料理を用意してくれて。」
久しぶりに楽しい飯やったわ。と北は話始めた。いいえ、と簡単に返しておく。がんばったのは他でもない大将達だ。自分は細々とした雑用をこなしたに過ぎない。きっとこの男のことだから、すでに大将達にも同じように礼を言っているのだろう。
「治様は本当によくお食べになりますね。驚きました。」
お決まりのように北が笑う。おそらく、彼と初めて会った人間は、皆、口を揃えてそう言うのだろう。
「な、言ったやろ。あいつは無限に食べ続けられる才能を持っとるんや。」
才能か。それは素敵な見方だ。燃費が悪いだの、気難しいだのと思っていた自分が、たちまち恥ずかしくなる。こう言うところで、きっと、人間として出来上がっている北に、密かな思いを寄せいている女性は多くいるだろう。彼が気づいていないだけで。そう考えると、この男、意外にも損をしているのかもしれない。いや、そうに違いない。なぜなら、私なんかに惚れてしまうようなお人だ。、何と勿体無いことか。
「ところで、アラン達と何を話てたん。」
「……ああ、大した事ではありません。北様が以前、お二人の事を教えてくださったと申し上げただけです。」
嘘はついていない。都合の悪い部分を取捨選択したまでだ。アランに訊問まがいな真似をされたとか、侑に睨まれたとか。決して口にしてはならない。
「さよか。あいつらには色々と世話になっとる。今日、連れてこれてホンマに良かった。」
男の横顔が柔らかく微笑む。その表情を壊してはならない、と何かが私に訴えていた。
ガス灯の下まできた時、北が懐を探り出した。この動作には見覚えがある。今回は何が出てくるだろうか。
「今日の礼や。受け取ってほしい。」
現れたのは、甘い甘味でも、評判の良い茶でもなかった。今までで一番、値が張りそうな紙に包まれている。
「これ……。」
「ん。ハンカチや。この間、持っとらんかったやろ。」
食べて無くならない贈り物は、これが初めてであった。
「ハンカチくらい持っておけ。ええ女の必需品やろが。」
受け取れない。それだと、形として残ってしまうから。いつまで経っても、腕を持ちあげない綾鷹にため息を吐きながら、北は手を取った。反射的に腕を引こうとしたが、力で及ばない。
「他意はない。ほんまに今日の礼や。そない、警戒せんでもええ。」
無理やり握らさせる。ここだけの話、今日の集合に彼だけ遅れてきたのは、これを選んでいたからだった。
「梶、貰えるもんは貰っとき。いつか、お前にとって役立つ時がくるかもしれへん。」
幼子に諭すような口調で、綾鷹に聞かせる。
「使うも使わんも、お前の勝手や。せやから、受け取って欲しい。」
ずるい。その言い方はとてもずるい。いつもなら、きっと流されていただろう。しかし、今回はそういう訳にもいかない。
「いただけません。これだけは……いただけません。」
握らされた包みを、逆に北の手へ載せ返す。顔が見れなかった。
軽く会釈をして、北とは別れた。家はすぐそこだというのに、逃げるように駆け足になる。急いで部屋へ入り、後ろ手で戸を閉めた。ずるずると背中から崩れ落ち、嗚咽がもれる。北のどこまでも透き通るような真っ直ぐな想いが苦しい。
今はただ、その痛みに耐えるため、膝を抱えて泣いた。