第二章 歩寄
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適当に腹がいっぱいになると、酒が欲しくなる。仕事帰りなら尚更だ。
「大将、いつものヤツはまだあるやろか。」
北は意外にも清酒より濁酒を好む。毎日通うこの店には、必然的に彼好みの濁酒が常備されるようになった。今夜ももちろん、濁酒である。
「北さん、濁酒好きなんですか。」
治が運ばれてきた酒を見て尋ねた。
「おん。……なんや意外か。」
素直に頷く。意外そうに見る彼らの側には、日本酒が運ばれてきた。明日も仕事があるというので、女将さんと大将が気を利かせて軽めのモノを用意する。
手慣れた様子で、綾鷹は見慣れた酒瓶を傾けた。はじめに北の器へ酒を注ぎ、酌をする。トプトプトプ……と注ぎ終えると、北は彼女を見て小さく礼を言う。至って自然なやり取りを惚けた目で眺めていたアランが、綾鷹が徳利に持ち替えたことに気がつき、慌てて自分のお猪口を持ち上げた。北からアランへ。そしてアランから己へと移動する女を、侑はジッと不満そうな目で追う。そして、順当に回ってきた彼女が自分の器へ酒を注ぎ入れる寸前、彼はボソリと呟いた。
「自分、北さんの何なん。」
一瞬手を止めそうになる。しかし、綾鷹は侑の期待と裏腹に、踏みとどまることは無かった。
「別に、何でもありませんよ。侑様が気にされるような関係ではございません。」
トクトクと流れる無色の液体を見つつ、静かに答える。それを聞いて若い将校は、あからさまに納得していない顔をした。
「名前、知っとるんやね。」
「ええ、北様がよくお話くださいますから。」
それを聞いて、思わず動きを止めてしまったのは侑の方であった。数回、目をパチクリとさせて、再び綾鷹を見る。
「北さんが。」
「はい。」
「俺のことを。」
「ええ。」
「なんて。」
それはもう、大変優秀な部下がいると。なんだかむず痒いような気がして、侑は意図せず居住いを正す。
「さ、さよか。北さんが、俺のことを……。」
不穏な空気は一瞬にして飛散する。もじもじと必死に照れを隠す様を見て、まだまだ若いのだと、綾鷹は少しこの男が可愛らしく思えてしまった。よく考えてみれば、いくら少尉と言えどつい最近まで学生だったのだ。単純で純粋。そうして生きることが許されている彼を、同時に羨ましいとも思った。好きなものを、好きと言える。そのなんと素晴らしいことか。
「はあ、北が俺たちのことを話すんか。あんた、えらい信用されとるんやな。」
大変感心した様子で、侑と綾鷹の会話に入ってきたのは、一連の様子を見ていたアランであった。
「アラン様の事も聞いております。」
へえ、と今度はアランが驚く。
「なんて言うてたん。北は。」
向こうで大将と何やら盛り上がっている北をよそに、ここでは3人で話が進む。
「大変苦労されているようで、いつも心配されておりました。」
がくりっ、と机にかけていた肘が落ちたのも無理はない。何に苦労されているのか、アラン自身が一番よく分かっていた。それ故、彼の反応は侑と真逆である。苦笑を禁じ得ない。何も、そんなことまで話さなくても良いではないか。しかも、こんな美人に。
「そ、そうか。北が、俺のことを……。」
苦し紛れの返答に、だんだんと気分が下がってゆく。
北のやつ、俺が苦労しているのを知ってるんやったら、少しくらい助けてくれてもええんとちゃうか。つい、胸の中で独りごちた。しかし、次の言葉を聞いて、その不満も飛散する。
「師団一、皆様のことを見てくださると。大変感謝しておりました。」
「……そりゃ、ホンマか。」
例えるなら、唐突に豆鉄砲でも食らった気分だ。
「ええ。ホンマ、です。」
戯けたように綾鷹はアランの問いに返事をする。彼女が慣れない上方訛りを使ったのは、彼のご機嫌をとるために他ならない。
ついつい「そうかそうか、あの北が」と有頂天になっていたが、ここで、はたと気がつく。目の前にいる女の思うがまま。踊らされるように自身の気分が浮上していくのを、アランは心の中で盛大に舌打った。
しばらく綾鷹の下心に悔しがっていたアランであったが、そこでふとある事に気がついた。この女、調子をモノにするのが不自然に上手い。と言うよりも、己のような人間が何を言われると喜ぶのかをよく知っていた。
「あんた、えらい話し上手やなあ。……なあ、ここで働く前は何してたん。」
調子に乗っていた侑もその一言で思い出す。忘れていたが、この女、大の男を投げ飛ばすだけの実力を持っていた。スッと表情が抜け落ちる。
一方、綾鷹は冷静にそんなアランの様子を捉えていた。とうとうきたか、と気を引き締める。己の素性を明かすなど更々考えていない。さあ、なんと答えようか。急速に頭が回転しだす。
「皆様のような立派な方に、お話しできるものではありません。少々、色んな方とお会いする機会が多かっただけです。」
まずは適度に濁して様子を伺うことにした。墓穴を掘る真似は二度としたくない。
「へえ、そりゃ特殊な仕事やんなあ。貿易関係か何かか。」
もちろん、簡単には諦めてくれるはずがない。隠された尻尾を探すように言葉を選ぶアランを、あえて真正面から見つめ返した。
「そう言った場面に遭遇する事もございました。」
石橋を叩いて渡る。
「なんや、商人ってわけじゃあなさそうやな。いやな、俺もあんたのことは北からちょっと聞いとんねん。」
その台詞に思わず後ろの北を振り返りたくなった。あの男、一体何を話したのか。もしかしたらこの男は、私のことを既に知っているのでは、と疑う。ゾゾゾッと鳥肌立つ腕を、さりげなく押さえた。
「随分昔に北と仕事したことあるらしいな。そん時に、ええ情報を流してくれたんがあんたやったと聞いとる。違うんか。」
訊問をされていると錯覚しそうになる。顔は笑っているものの、醸し出す雰囲気は随分と刺々しい。纏う空気と同様にして、問い詰められたものも、かなり踏み込んだ内容だった。
「そんな大袈裟な。当時、私もまだまだ新米でしたので……知り得る事をただただお話しすることぐらいしか出来ませんでした。」
嘘は言っていない。華夜叉五葉に上りたてであったし、捕物に直接協力をする様な真似もしていない。ただただ、得た情報を流しただけだ。
「……そうやったか。いや、あれこれ聞いてすまんかったな。こない美人、滅多にお目にかかれへん思うてな。どこで出会ったんやろかと。」
綾鷹の答えに満足したのか。それとも、諦めてくれたのか。真相はわからない。だが、数秒の間を挟んだ後、アランの声色は元に戻っていた。
「それにしても、北はあんたの何処に惚れたんやろなあ。……そない頻繁には会うてないんやろ。」
ぎくり、と僅かに表情が硬くなる。
どうした。
なぜ、そんなことを聞くのか。
終わりだと思っていたが、終わっていなかったのか。
それとも、これまでの会話で何か下手を踏んだか。
密かに記憶を遡る。比例するように、己の鼓動が一気に上昇した。
「……さあ、何故でしょう。私もそれは存じ上げません。ただ、人の縁とはいつの世も分からないものですから……。」
我ながら苦しい返しである。今のは食らうにしても、避けるにしてもギリギリだっただろう。次にくるアランの言葉を全力で待ち構えた。
「それもそうやな。人の気持ちなんか分からんもんや。いやあ、野暮やった。ほんまに堪忍な。」
ははは、と笑い声でこの話題は不自然に幕を閉じる。綾鷹も片手を口元に当てながら彼に倣ったが、内心、ほっと胸を撫で下ろしていた。
二人の笑い声に気づいた北と治が、こちらへ別の話題を振ったところで綾鷹は追加の酒を取りに厨房へと引っ込む。その後ろ姿を、彼らのやり取りを見ていた侑はただひとり、じっと睨みつけていた。