第二章 歩寄
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約束の日がやってきた。先日、北様が部下を是非連れてきたいと相談してから、大将と女将がその日の品書きをうんうん悩んでいた事を知っている。とうとう、今夜、その努力が報われるのだ。と言っても、ウチは食堂ではない。北様には予め、治様にある程度食べてくるようにと伝えてもらっている。飲み屋の厨房で料理をするにはどうしても限界があるのだ。
この日は北様のご要望通り、店を貸切にすることにした。軍服姿のお方が数名集まるとなると、他のお客にとって居心地のいい空間というわけにはいかなくなる。そのため、今夜は暖簾を出していない。何時ごろいらっしゃるのか、正確な時間を聞いているわけではないけれども、いつも北様がいらっしゃる時間に合わせて準備を進めていた。
「なんでえっ。」
店の前、侑は大層困惑した表情で立っていた。ここは間違いなくあの時の店だ。正確には、あの女がいる店だ。
「なんでって言うても、ここが気に入っとんねん。北は。」
すかさずアランが庇う。大方、想像していた通りの反応であった。あの晩、北にとっては特別な人と再会できた素晴らしい日だったが、侑にとっては大好きな北に、ある意味裏切られた日でもある。そういう意味で、この店にはあまり良い思い出がない。ちなみに、北は少々遅れてくるらしく、この場にはアラン含め宮兄弟の3人しかいない。小さな店先でたむろする180センチ超えの大男たちを、道ゆく人々が不思議そうに見ていくが、そんな視線、今の侑にとってはどうでもよかった。
「せやかてアラン君、こんな仕打ちあらへんやん。ここにはあの女がおるんやで。」
その女目当てで北が通い続けているなんて、口が裂けても言えない。アランはなんと返すのが正解か分からなかった。
俺の幸せを返せ、だの、北さんの阿保、だの何だの騒ぐ侑をよそに、治は近くの屋台で買った鯛焼きを食べていた。ここへ来る前、北に何か腹に入れておくようにと言われていたからだ。眠そうな目でぎゃーぎゃー騒ぐ侑をぼうっとみていると、彼の向こう側から本日の幹事、改め北が歩いてくる。
「ツム、ええ加減腹括れや。北さんこっち来るで。」
「えっ。北さん。北さんどこや。」
両手が鯛焼きで埋まって使えないので、とりあえず顎でしゃくることにする。その方向に侑は勢いよく振り返った。
「おう、皆そろっとるな。」
片手をあげながらやってくる北に、三者三様の反応が返ってくる。
「遅いで、北。用事は済んだんか。」
「北さん。ちっす。」
「北さんっ。なんでこの店なんすかっ。」
順番に、アラン、治、侑である。それぞれに、北は返事を返す。
「用は済ましてきた。治、ちゃんと食っとるな。侑、不満があるなら帰りいや。」
「北さんっ。」
侑の顔が悲しみで歪む。あーあ、こいつ言いよった。とアランは側で見ていた。
「なんで言うても、ここが気に入っとるからや。」
「でも、ここにはあの女がいるやないですか。」
侑は北が綾鷹に惚れてるなんてこれっぽっちも知らない。先ほどとは違う意味で、あーあ、こいつ言いよった、とヒヤヒヤしがながらアランは北を盗み見た。なんともいえない表情だ。
「そないこと知っとる。この店は飯も酒も旨いが、あいつが居るからよく来るねん。」
あんぐり、と言う音の似合う顔がこれ以上にあるだろうか。そのぐらい侑は開いた口が塞がらなかった。堪らず、フラフラと治に寄りかかる。
「北さんが。あの、からくり人形みたいな北さんが……。」
嘘や、これは夢や、幻や。ぶつぶつと呟きはじめたところで、北が店の戸を引いた。
「大将、邪魔するで。」
いつもどおり声をかける。その声に、大将はじめ女将と綾鷹も入口を振り返った。
まず最初に女将が動いた。北達の前に歩いて行き、人好きのする笑顔で出迎える。
「北様、お待ちしておりました。お連れの方々も外は寒かったでしょう。さあ、お掛けになってくださいな。」
今日は特別と言うことで、店内の席の配置も少し変えている。何名引き連れて来るのか分らなかったので、席を中央に集めて大きな食台を作った。各々、好きな席に腰掛けてもらう。
全員が位置についたところで、大将が土鍋を抱えてやってきた。何やらぐつぐつと言っている。早速、反応を見せたのは治であった。
「なんや、ええ匂いするな。」
早く食べたくて、そわそわしだす。誰が誰だか分らない大将達も、彼が噂に聞く宮治である事を自ずと知った。そうすると、消去法で残りの面子も自然と推測がつく。ちなみに、入口を背にしてアラン、侑が腰掛け、それと向い合うように、北、治が厨房側の席へと座った。
「今日は大食らいの治様がいらっしゃると聞いていたので、とびっきりの料理を用意しました。」
そう言って土鍋の蓋を開ける。醤油の香ばしい、優しい香りが店中を満たした。彩鮮やかな旬の野菜達をはじめ、形よく丸められた肉団子。椎茸の微かな風味も相まって食欲を誘う。先ほどまで結構な量の鯛焼きを頬張っていた治の腹から、良い音が聞こえてきた。
「治、お前さっき食っとった鯛焼きはどこ行ったんや。」
すかさずアランが突っ込む。それを聞いて女将が驚いた。
「鯛焼きって、店の真向かいにある鯛焼き屋のですか。あそこのは大きいってことで評判なのに。」
「いやはや、北様がおっしゃる通りですね。」
穏やかな笑い声が店内に響く。
「大将、これは鍋か。」
ここで北が料理について尋ねた。たくさん食べる治にぴったりな料理、と耳にした時からこれが何なのか聞きたかったらしい。
「ちゃんこ鍋ですよ。」
ああ、と一同納得する。
「こお見えても私、若い頃は力士を目指してましてね。生憎、怪我で辞めちまったんですが。その時によく食べてたんですよ。ほら、相撲取なんかは皆、体が大きいでしょ。これを毎日食べて稽古に勤しんだものです。」
懐かしいな、とこぼしながら大将が料理の説明をしていく。ちゃんこ鍋の他にも、根野菜の煮物に卵料理、マグロのたたきや冷奴など酒のつまみに最適な品も用意した。何気に北や侑の好物も混じっている。キラキラと目を輝かせる治を筆頭に、皆箸をとった。
「うまっ。大将、めっちゃう美味いでっ。」
先ほどの死んだような目はどこへやら。尋常じゃない速さで治の口へと消えていく料理達を、皆唖然とした表情で見つめていた。これは、本当に舐めてかかっちゃいけない相手だ。
「治様、そんなに急いで掻き込んじゃあ、喉に詰まってしまいますよ。」
そう言う側からゴホゴホと咽せる治の背を女将が撫でた。すかさず綾鷹が茶を運んでくる。涙目で茶を流し込む治に皆笑わずにはいられない。ああ、なんて温かな空間なんだろう。
「梶、ありがとうな。」
北が彼の代わりに礼を言う。本当に律儀なお方だ。
「大将と女将が沢山悩んで考えた料理ですので。どうぞ味わって食べてください。まだまだ、お替りはありますので。」
「治様、どうぞ安心してくださいませ。もしご希望のものがあれば追加でお作りしますよ。」
治は涙が出そうなほど喜んだ。
「北さん。俺は天国に来てしもうたんやろか。」
彼の言葉にまた店内が沸く。各々の腹が満たされるまで、この和やかな雰囲気は続いた。