第二章 歩寄
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あれから3日、4日と時間が経ち、気づけば年も明けた。北はその間も店に通い続けた。大晦日、流石に女将が心配になって声をかけた姿が記憶に新しい。里帰りはしなくても良いのか、と尋ねたところ、彼の親戚は祖母一人だと。その祖母も数年前に他界し、今は本当に一人きりだと話た。なるほど、だから毎日ここへ通えるのか。
「今度、あいつらも連れてくる。」
「……以前お話くださった方々ですね。北様の部下っていう。」
ああ、と嬉しそうにする。そう言えば、北を家に上げて以来、会話の量が増した気がする。それと同時に、甘味を差し入れくださる頻度も増えたが。
「あら、いつ頃いらっしゃるんですか。北様のお知り合いは。」
女将が二人の会話に入ってくる。正月も過ぎた頃、客の数も落ち着いてきてゆっくりと北とも話ができるようになった。こうして女将も交えて会話を楽しむのも久しい。
「明後日あたりはどうやろか。部下の中にえらい食いしん坊がおってな、あいつの事を考えると貸切がありがたいんやけど。」
えらい食いしん坊。たまに北の話す言葉は幼さが全開になる。おそらくお婆ちゃんっ子であったためだろう。軍服を纏い、堅く無表情なその姿からは全く想像ができないが、発せられた時の破壊力は洒落にならない。まず最初に、女将がその犠牲者となった話はここだけだ。
「……治様、でしたっけ。」
「おん、覚えとったんか。あいつや。」
綾鷹と話が成立する度、花が綻ぶような笑顔も、ここ最近よく見るようになった。
「そんなに凄いんですか。その、治様の食欲は。」
「梶、なめたらあかんよ。あいつの胃袋はザル通り越して枠やからな。」
まるで酒豪の話をしているようだ。そんなに凄いのか。たかが飲み屋で飲むだけである。
「そのお方はどのくらい食べるんでしょうかね。」
話を厨房で聞いていた大将もとうとう輪の中に入ってきた。規格外の食欲を持つお客が来るとなると、その日の仕入れを調節する必要がある。具体的な話を聞きたそうだ。
「そうやな。まず1時間に一度は飯を要求する。その一度の量も2人前、3人前が当たり前や。」
大食漢の粋をいきなり超えてきた。これは凄いのがきそうだ。
「そんで、腹が減ると機嫌も悪うなる。そうなると、次の飯を補給するまで手がつけられん。」
何と燃費の悪いお方か。そして、何やら気難しそうなお人である。
「それはそれは、ウチで満足していただけますでしょうか。」
大将が腕を組んで唸った。北様の大切な方々である。「呑んだくれ」を選んでくださったことはとても嬉しいのだが、食べ足りなくてガッカリされては嫌だ。
「大将の出す飯は全部旨い。味であいつらを失望させる事はまずありえへん。」
相変わらず、ヨイショが上手である。うまいこと乗せられた大将がお約束のように照れた。
「せやから貸切がありがたいねん。金が足りひんのやったら俺が出したる。」
「いえいえ、それは申し訳ありませんよ。ね、あなた。」
「そうだな。北様にはウチをご贔屓にしてくださってますし。……よし、わかりました。ここは私らにお任せください。」
こうして、北様のお連れ様ご一行をおもてなしする準備が始まったのである。
帝国陸軍第2師団少尉、宮侑は頗る機嫌が良かった。それはそれは、周りの人間が気味悪がるほど。明日は槍が降るのではとの噂までたっていた。それもそのはずである。何せ、大好きな北少佐に飯に行こうと誘われたのだから。喜び以外の何者でもない。たまらず鼻歌まで歌い出す始末だ。かれこれ、こんな状態が昨日から続いていた。
「ツム、ええ加減にせえ。浮かれ過ぎや。」
彼の片割れである宮治は呆れ返って何も言えなくなっていた。それこそ、最初は注意していたのだが、如何せん、聞く耳を持たない。そんな侑にとうとう匙を投げたのである。
「せやかてサム。あの北さんがやで。あの北さんが、飯行こうなんて言うてきたの初めてやないか。」
興奮冷め止まぬ様子で話すその姿は、まるで遠出前の幼児と同じであった。うきうき、ワクワクが止まらない。宮侑少尉、御歳21である。それに対して、治は至って静かであった。まあ、自分にそっくりな男が、こんなにも浮かれている様子を目の当たりにすると、冷静にならざるを得ないというもの。何度目かわからないため息が溢れる。
「任務に支障が出たら、目もあてられへんで。そないことなったら、飯の話もぱあになってまうやろな。」
その様子を素直に想像したのだろうか。ふわふわ浮いていた侑が途端に青ざめ、カタカタと震え出す。
「あかん。あかんで。それだけは、あかん……。」
今度は譫言のように繰り返す。喜んだり、恐がったりと忙しい男だ。その様子を、頭を抱えながら見つめる別の男が一人。
「侑、治。頼むから、しくじるような真似だけはせえへんようにな。しっかりやるんやで。」
この師団一の常識人、尾白アラン、その人である。彼からの忠告を、果たしてちゃんと聞いたのかは分からないが、二人はいつも通りの時間に、巡回任務へと隊舎を出て行った。アランの心労は今日も絶えない。
「何や、えらい侑は調子ええな。何かあったんか。」
もとを辿れば、この男が元凶なのだが。双子と入れ違いで入ってきた北にアランは苦笑する。
「お前に飯誘われたんが相当嬉しかったみたいや。おかげでこっちは胃が痛い。」
ふうん。となんと思っているのか分からない返事を返す。自分用に設けられた机に腰掛け、いつも通り仕事に取り掛かった。
「あいつらも、ええ加減幼さが抜けんな。なあ、北、そう思わんか。」
アランをはじめ、宮兄弟とは小さい頃からの仲である。上下関係が厳しいこの世界で、ここまで砕けた関係でいられるのは、そういった特別な間柄だからだ。他の人間が同じような事をしようものなら、ただじゃすまない。
「ここだけやったら、ええやろ。他の奴らにはきちんとしとるみたいやし。」
もしも、彼らを家族に置き換えるのであれば、まず、北は母親である。仕事に関しては抜かりのない彼も、個人的な関わりでは宮兄弟のことを一等可愛がっていた。さしずめアランは父親か、ご近所のうるさいおばさんあたりだろうか。とりあえず、彼らは上司・部下以上の絆で結ばれていた。
「そんで、今日行く店はやっぱりこの前話しとったところか。」
アランは以前交わした、北との会話を思い出していた。やけに機嫌が良い様子に、堪らずそのワケを聞いたところ、お気に入りの店ができた事。そして、アランの見解ではそこの女給が目当てで通っている事。北信介という男の新たな一面を知った瞬間であった。
「おん。そこ以外考えとらん。」
清々しいほどの即答である。思わず、はははと笑い出す。
「ほんまに、好きなんやな。」
ほんのわずかな時間であったが、北の目が大きく開かれた。そして、瞬く間に細くなる。
「……ああ、好きや。」
おやおや。今度はアランが瞬きを繰り返した。これは、もしかしてのもしかしてではなかろうか。宮兄弟をお世話するのが半ば彼の仕事と化していた。今夜はいつも以上に手がかかりそうだと落ち込んでいたが、何も悪いことばかりではないらしい。我らが尊敬して止まない同い年の上司が、諦めきれずに挑み続けている女性。今夜、彼女に会えると思うと、その苦労も報われる気がした。