第二章 歩寄
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いつしか良二の気配はきれいさっぱり消えていた。外套の中で落ち着きを取り戻した綾鷹は、周りの様子を伺いながら顔を上げる。優しげな表情の北とバッチリ目があった。
「……お見苦しいところを……。」
そう言うと、ゆっくり抱擁を解いてくれる。
「安心せえ。この時間や、誰にも見られとらん。好きなだけ泣けや。」
北の言葉が身に染みる。しかし、綾鷹は身を離した。目尻を乱暴に拭おうとしたのを北に止められ、白いハンカチが差し出される。
「赤く腫れてまうやろ。使えや。」
「……なんだか、用意がよろしいのでは。」
こんなの身嗜みの一つや。と言われてしまい、返す言葉がなかった。できた男は違う。おずおずと受け取ると、軽く目元を抑える。その様子をじっと見られていた。
「……奴さん、消えよったな。」
言わずもながら良二のことである。いつの間に居なくなっていたのか知らないが、諦めてくれたらしい。これで問題なく家に帰れるとほっとした。ずるずると鼻を啜りながら頷く。
「ありがとうございました。これ、後日お返しいたします。」
少し湿ったハンカチを懐に入れながら再び北へ視線を戻すと、もらえや、と首を横に振られた。
「戴けません。でしたら、別のものをご用意いたしますので。」
「いらん。お前がもっとおけ。」
これは、譲気がない言い方だ。埒が明かないと大人しく言う通りにすることにして、再び礼を言った。なんだか、この男には貰ってばかりだと気付くのは、もう少し先の話である。
「……ほな、帰ろか。送ったる。」
帰りを切り出したのは、意外にも北の方であった。反対する理由もなかったので、何も言わずについていく。歩き出してしばらく、先ほどとは違い北の歩調がゆっくりであることに気がついた。
「あの、そんなにゆっくりでは日が昇ってしまいます。」
北が立ち止まって振り返る。
「じゃあ、梶が隣にきてくれたら考えたる。」
意地悪だ。そう思わずにはいられなかった。色々と話がずれてしまったが、結局、綾鷹は北の気持ちに応えていない。ギクシャクとした空気が再び二人の間を流れる。
痺れを切らしたのは綾鷹の方であった。小走りで北の隣に立つと、高い位置にある顔を見上げる。
「これで、よろしいでしょうか。」
少しあてずっぽうな彼女の行動に驚いた後、ふっと優しい顔になった。
「今は、これで許したる……。」
その帰り道は、いつに増しても静かだった。
家の近くまで来て立ち止まる。いつもこの辺りで別れていた。あの時のガス灯の下である。今日も変わらずここで別れるのだと思い、さよならを口にしようとした。
「今日は最後まで送ってく。……家、どこや。」
「……へ。」
たっぷり3秒。北の言葉を頭の中で何度か繰り返し、その意味を理解する。
「いえ、そんな。困ります、そんな……。」
良二にも知られたくなくて、彼の尾行からあらゆる手を使って守ってきた我が家である。本当に困ってしまった。
「泣いた女を、そのまま帰すわけにはいかんやろ。心配や。」
そう言いながらも、北の目は座っている。いやいや、その目は違うだろ。どちらかと言うと、腹括れや、とでも言いたそうだ。どうも断れる雰囲気ではない。しかし、家を知られるのは心底嫌だ。疲れ切った頭で必死に言い訳を考えた。
「いえ、北様にお見せできるような立派なものでは。」
「そないこと知っとる。こんな所に住んどる時点で、期待なんかしとらん。」
百歩譲って失礼である。そう言えばこの男、昔からこんなところがあった。しかし、今はかまっている場合ではない。何か別の言い訳を考えなければ。
「何もおもてなしできませんので。」
言ったあとで、しまったと思った。これでは、招き入れるつもりだったと思われるではないか。
「別に、家ん中まで上るつもりはない。……それとも、自分何かしてくれるん。」
瞬く間に北の目が何かを期待している様に輝く。いいえ。と首を横に振ろうとして、遮られた。
「せやったら、店であげた紅茶でも入れてくれや。」
完全に墓穴を掘った。懐にあるお茶の存在を忘れていた自分に、先ほど引っ込んだ涙が再び出そうになる。完敗だ。
今朝出て行った時と何も変わらない部屋へ客人を招き入れた。荷物を玄関側に置き、早速、薬缶に水を入れる。サクサクと準備をし始める様子を、北は寝台近くに腰掛けて見守っていた。
綾鷹の部屋は、おおよそ6・7畳ほどの一間である。そこに、簡単な台所と寝台が部屋の対角にあり、中央に火鉢が置いてあった。今はその火鉢の上で湯を沸かしている。窓は一つ。その真下に小さな文机があり、卓上に先日あげたクッキーの袋が置いてあった。手をつけた様子が見えて、嬉しくなる。しかし、女性の部屋にしては殺風景で、生活感があまり感じられない。まあ、北自身の部屋も似た様なものなのだが。
「えらい、片づいとるな。」
黙々と作業をする綾鷹に声をかける。
「あまり、見ないで下さいまし。いいものは何もありません。」
緊張しているのか声がかすれている。部屋に人を上げるのは彼が初めてであった。一人暮らしゆえに、モノの数も自ずと少なくなる。食器類も基本的には一人分。だが、以前、飲み屋の女将からいただいたお下がりの湯飲みがようやっと今日役に立つ。ありがたや。
「そないこと無理や。好いた相手の部屋におるんやで。見てまうやろ。」
この男は、本当に。無表情で恥ずかしげもなく言い放つ上に、いちいち人の痛いところをついてくる。もしや、私は本当に虐められているのでは、と錯覚してしまう程度にはひどい。何も言い返せずにいると、北が立ち上がった。どこへ向かうのかと顔を上げると、窓の外を覗いている。確か、そちからは洗濯場が見えるはずである。
「ここの人間とは、上手くやれとるんか。」
ご近所関係の話のようだ。綾鷹の勤め先である飲み屋は、昼過ぎから動き始める。それに合わせて、綾鷹の生活も回るため、他の長屋の住人達とはなかなか顔を合わさない。家を出る時分には皆、すでに家を空けていることが多いからだ。
「いいえ、なかなかお会いできませんので。」
これだけで北には通じたらしい。さよか、と短く返ってきた。
薬缶が高い音を立て始めたのを、さっと綾鷹が火鉢から下ろし湯を急須へ注ぐ。日本茶にはない独特な香りが部屋に充満した。ごとり、と北の前に出された湯飲みに、紅色の水面が揺れる。
「……湯飲みに入っとる紅茶を見るんは、これが初めてや。」
「……左様でございましたか。生憎我が家には、これしかございませんので。」
北自身、紅茶を嗜む趣味はないが、数回ほど口にした事はある。その時の器は、西洋から仕入れたティーカップだった。今回も理由なくその風景を想像していたのだが……。湯飲みを手にして微動だにしない北に、今度は綾鷹が声をかける。
「お気に召しませんでしたか。」
はっと体が揺れて綾鷹を慌てて見た。
「いや、なんでもあらへん。ありがたく戴く。」
ずず、と向かいに座る女が茶をすする光景を、なんだか不思議な気持ちで見つめながら、北もそれに続いた。うん、味は紅茶だ。しかし、器は湯飲みだ。
「紅茶を飲むのは、これが初めてです。普通のお茶に比べて甘味がありますね。」
美味しい、と漏れた言葉が無条件に北を幸せな気持ちにする。自ずと、この釣り合いが取れていない光景も気にならなくなった。何と単純なことか。ここでふと、文机の上にあった甘味を思い出す。
「せやろ。……せっかくやから、あれと一緒にどうや。」
立ち上がりクッキーを片手に戻ってきた。
「手、つけてくれたんやな。」
「ええ、せっかく頂いたものですので。ですが、口の中が乾いて沢山は食べれませんでした。」
なるほど、だからまだこんなに残っていたのか。包みを開いてみると、食べかけのものがある。それを手にして、おもむろに口に入れた。ああっ。と綾鷹が腰を上げる。
「わざわざ、食べかけを選ばなくても。きれいなものから食べればよろしかったではありませんか。」
「別にええやろ。どれも同しや。」
サクサク口を動かしつつ、紅茶を流し込む。やはり、西洋のモノ同士ゆえ、大変相性がよかった。
「梶も食うたらええ。美味いで。」
疑いの目を向けながらも、包みから一つ完璧な円を描いたクッキーを摘み、口へ運ぶ。数回咀嚼をした後、北に習うよう紅茶を含んだ。
「……納得が行きました。これなら、話題になるのも頷けます。」
得意な気分になった。クッキーと紅茶を土産にと勧めてくれた部下に感謝する。
「これを勧めてくれたんは、治や。」
はて、その名前は初めて聞く。
「分からんか。お前に久しぶりに会うた時、突っかかってきたデカブツとよお似た男がおったやろ。」
突っかかってきたデカブツによく似た……。ああ、あの時の生意気少尉と双子の男か。
「ええ、思い出しました。お顔がそっくりの。」
「せや。あいつら双子やからな。」
彼にも、もう部下がいるのか。それほど時間が経っているのだなと不覚にも感じてしまった。そんな綾鷹の気持ちには気づかず、北は喋り続ける。
「あいつらはほんまにオモロい奴でな、侑の方は優秀やのにどこかガキっぽさが抜けへん。任務は完璧にこなしよるのに、それ以外はからっきしや。治の方は狙撃の名手でな、新人やのにあいつの右に出る奴はおらへん。けど、食い意地も相当悪うて、食っても食ってもまだまだ食うんや。」
楽しそうに話をする。その姿が、何故だか綾鷹の微笑みを誘った。
「アランゆう奴もおるんやで。名前の通り、外国の血が混じっとるんやけど、喋るんはバリバリの関西弁や。最初にあいつに会うた奴らは皆度肝を抜いてまう。それを見るんが毎回楽しみで仕方ないんや。あいつは俺の幼なじみでもあるんよ。一等、隊の連中の事をよお見てくれはるんや。今はあの双子に振り回されとるけどな。そんでーー。」
気づけば己のみが話をしていた。慌てて綾鷹を確認する。
「すまん……。話すぎた。」
しかし、心配は無意味に終わる。
「大層、誇りに思っていらっしゃるんですね。」
ふわりと花が綻ぶような。北はその瞬間、綾鷹が初めて笑ったところを見た。
「……ああ、俺の誇りや。孫の代まで語れるくらい、大事な奴らや。」
そう答えながら、左胸を無意識におさえる。動悸がする。自然と呼吸が荒くなる。苦しい。夜なのに、目の前にいる女が輝いて見えた。心底呆れてしまう。ああ、本当に好きなんだ、とこんな所で再確認させられるとは。
「梶……やっぱり好きや。」
ああ、徐々に笑顔が消えていく。代わりに、悲しそうな顔が現れた。嗚呼、なんと勿体ない。
「今すぐ返事をくれとは言わへん。……考えてくれや。」
今はそれだけで十分。ほとんど嘆願するような形ですがりつく。我ながら情けない。しかし、こうして綾鷹が考えてくれるのなら、男として見てくれるのなら、いっこうに構わないと思った。
「……変わったお人だこと。」
良いとも悪いとも言えない返事。
その一言では判断がつかなかった。
結局、北が帰ったのは明け方近くなってからだった。幸にもお店は今日が定休日。不覚にも朝帰りのような状況に、気まずい思いをしながら、靴を履く北の背を見る。遠くで雄鳥が声高らかに歌い上げた。
朝焼けの中に消えていく北を、ぼんやりと綾鷹は見送った。