第二章 歩寄
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
北に連れられやってきたのは、春には桜の名所となる川辺。今の時期、ただ寂しい風景が広がるだけだが、今日に限っては素晴らしく見晴らしの良い、絶好の場所だ。隠れるものが何もない。良二にとって大変都合が悪いはずである。自然と彼の気配が遠くなるのを感じながら、足を止めずに進んだ。
「な、ええ場所やろ。」
悪意が見える。心無しかニヤリと笑ったような気がした。彼の言う「ええ場所」が何を意味するのかわかる分、私も共犯なのだが。時間も時間であるし、場所も場所である。自ずと声が小さくなった。
「……本当に、良い場所ですこと。」
「なんや、気にいらんかったか。」
とんでもありません。本心でそう答える。まだまだ新米だった頃の、北を知っている綾鷹にとって、この場所を選んだことは、間接的に彼が軍人として確実に成長している様を垣間見た瞬間であった。やはり、今も変わらず優秀である。
「お前も俺も、昔から尾行されすぎやないか。……なんや懐かしいわあ。」
いつの話をしているのか気づいた。確かに、お互い尾けたり、尾けられたり。何かとそう言う状況に縁がある。嬉しくなどこれっぽっちも無いのだが。再び過去の波に攫われそうになった時、北が立ち止まった。自然と並ぶように立つ。
「いかがしましたか。」
「……隣がええな。やっぱり。」
首を傾げて北を見る。
「後ろを歩かれるよりも、お前とは隣同士で歩きたい。」
数回瞬きをした。意味が分からない。
「その方が、良う梶が見えるやろ。せっかく一緒におれるんやったら、そっちの方がええ。」
ついでに手も繋ぎたい。何食わぬ顔でそう付け加える。あらゆる考えが綾鷹の脳内を駆け巡った。
「何が狙いです。」
何とか絞り出した答えだった。北の顔が呆れたような、寂しそうな表情になる。
「別に、何も企んどらんよ。そうしたい思うただけや。……ただ、
惚れた女に触れたいだけや。
一瞬の出来事であった。無音の世界でそのセリフだけがやけに響く。我が耳を疑うとは正しく今を言うのだと、場違いに感心してしまった。両目をこれでもかと開いて放心する綾鷹を、北は曇りない目で見つめる。嘘などこれっぽっちも混じっていない。
もはや、良二の存在など地平線の彼方に飛んでいってしまうほどの衝撃だったのである。
「……なんや、知らんかったのか。」
カチコチと音が聞こえそうなくらい固まってしまった。
「……ええ、存じ上げませんでした。一体、いつから……。」
本日2度目の溜息が聞こえる。
「最初からや……。」
そして、本日2度目の衝撃が走った。最初から。最初からとは、いつからか。いや、最初からなのだから、最初からなのであろう。しかし、北と出会った最初とは、一体どの時かーー。
「郭の女将に会うた時や。あの時、後ろに控えとったの梶やったやろ。」
本当の本当に最初からであった。いや、もしやこれは。
「一目惚れや。」
やはりそうであった。意外すぎる。この男、どこまで予想を突破してくるのか。経験したことのない状況に、綾鷹は思考を放棄する意外、己の精神を死守する方法を持ち合わせていなかった。
「どうして、私などに。」
「好きになるのに、理由なんかあらへんやろ。」
即答である。どこかで聞いたような台詞であるが、今はどうでもいい。しゃあないやろ、と少し拗ねる北を、綾鷹は苦虫を噛みつぶしたような顔で見つめていた。耳の後ろで、これはいけない、と警報が鳴り響く。めまいがしそうなほど清廉な告白に、意識が遠のく中、それだけはハッキリとしていた。
「なりません。」
意識が浮上したのは、粉雪が肩に少々積もった頃だ。今度、眉間に皺を寄せたのは北の方であった。
「なしてや。」
「お立場が違い過ぎます。それは、抱いてはなりません。」
完全なる否定であった。それどころか、半ば北を責めるような言い方である。
「関係あらへんやろ。」
「あります。」
「どこがや。」
「全てです。」
矢継ぎ早の応酬の果てに黙り込む北へ、さらに重ねる。
「私は一介の給士です。身元もはっきりしませんし、何より前職がいけません。ご覧の通り、私には何も無いのでございます。……ですが、北様は違います。貴方にはお国を背負う崇高な責任がございます。また、それを受け入れられるだけの資格もお持ちです。……私では釣り合いませぬ。」
再び沈黙が訪れる。重い重い沈黙が横たわる。
「目をお覚ましください。北様は何か勘違いをしておいでです。」
「……なにがや。」
地を這うような低い声がした。確かな怒気が含まれている。初めて見るその姿に、恐怖を押し殺した。
「これは夢でございます。」
「ちゃう。」
「幻想でございます。」
「どこがや。」
「錯覚でございます。」
「ええ加減にせえっ。」
「いい加減にしていただきたいのはこちらの方ですっ。」
だんだんと大きくなる声に気づけない程、お互い必死だった。とうとう、この男と再会して以来、胸の内で燻っていたモノが物凄い勢いで流れ出す。立場の違いなんて建前で、本音は別の所にあった。
「もう捨てたのです。全て、全て、私は捨てました。忘れたくて、忘れたくて、こんなに努力しているのに。やっと、人並みの生活が送れると思ったのに。それなのに、貴方が現れた。」
あの街でしてきた事が白紙になるわけじゃない。都合が悪いからといって、この手で消した奴らがいなくなるわけじゃない。そんなこと、遠くの昔から知っている。知っているけれど、それから逃れられずにはいられない。
「街が消えたあの日以来、私は誰とも連絡をとっていません。会えば思い出してしまいます。だから、誰とも会いたくなどありませんでした。私がしてきた事を知っている人には会いたくありませんでした。勿論、貴方にもです。」
感情に任せて話をしたのは、いつぶりだろうか。もう止まれない。
「過去は消えへんやろ。」
「存じております。」
「逃げられへんのも知っとるやろ。」
「身を以て知っています。」
「諦めんといかんこともある。」
「できません。」
正論という武器で北は攻めてきた。形勢逆転である。
「北様にはわかりません。わかるはずがございません。いいえ、分かってたまるものか。」
もう視界は霞きって、北の輪郭さえも見えなくなっていた。嗚咽だけは吐かないよう必死に耐える。
「……それを言うんやったら、俺も同じや。」
「違います。」
「ぎょうさん、人を殺した。」
「比べないで。」
「同じや。梶と同じように、手にかけてきた。」
「一緒じゃない。」
「一緒や。」
「違う。」
「人の命はどこも一緒や。」
ハッとする。
「先の戦でぎょうさん仲間が死んだ。けど、それは敵も同じや。」
どぎどぎと嫌な心臓の音がする。そうだ、先ほどの激しい遣り取りですっかり忘れていたが、このお方は軍人であった。
「国の名前で殺人するんが戦争なだけや。結局、蓋を開けた中身は変わらへん。」
綾鷹は己の息が止まるのを感じた。
「……眠れへんのやろ。あの頃から。」
その通りだ。華夜叉として初めて仕事をした日から、綾鷹は眠れない体質になった。目を閉じれば、葬った奴らが綾鷹を襲う。それが苦痛で仕方がない。きっとあの日、遊郭街が火の海にのまれる様を絶望の眼差しで見ていたものの、心のどこかでは喜んでいたのかもしれない。やっと解き放たれると。逃げることが許されると。
「戦争から帰ってきた兵士は、命は助かっても心は病んでしまうんや。」
静かに耳を澄ませる。
「手始めに、皆眠れんようになる。飯が食えんようになる。そして精神を少しずつ少しずつ蝕まれていく。」
そんな彼らの姿が、己と重なる。
「だんだん生きる意味がよお分からんくなって、最後は自分で命を断つんや。」
戦争精神症と言われる病である。せっかく生き残り、命からがら帰国しても病を患ってしまった兵士たちは国の恥とされた。故郷に帰りたくても帰れず、結局、病室で息を引き取る最後を迎える。
「梶、負けたらあかんよ。」
その一言で全てを悟る。ああ、このお方は何もかもご存知だったのだ。
暖かい外套が体を包んだ。