第一章 再会
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小さな箱庭から見上げた、これまた小さな正方形の空を今でもよく覚えている。嫌に清々しく、吐気がした。
「綾鷹、こっちへいらっしゃい。またお空を見上げたりして、小鳥にでもなりたいの」
一等優しい笑い声がして、いつもの様に差し出されたその手に、自然な流れで小さな手を重ねた。
「おはようございます」
時刻はそろそろ夜の帳が降りようとしている頃。小さな店先に、真綿色の暖簾を出している大将へ声をかけた。
「おう、おはよう。今日もよろしく頼むな。」
恰幅のあるその大きな体を上下に揺らしながら、白い歯を見せて笑う。これが大将の癖だと気づいたのは、ここで働き始めてしばらくした頃だった。
元遊郭街の近くに位置するこの飲み屋は、周りの店に比べてこじんまりとしているものの、酒や料理もさることながら、この大将目当てで訪れる客も少なくない。それなりに繁盛している。私が働き始める前は、女将さんと二人っきりで切り盛りしていたらしい。子供のいないこの中年夫婦に甘える形で世話になっている。
「綾鷹ちゃん、いらっしゃい。早速だけれど奥の酒樽、数えてもらえるかしら。」
今日は週に一度、お得意先の酒屋から酒樽を受け取る日だ。昼前に届けられた酒樽は合計5つ。この規模の店にしては多い。それだけ皆に愛されてると言うことだろうか。力仕事はさせてもらえないが、最近は仕入れの仕事も任せてもらえるようになった。あの狭い箱庭の家で身につけた事が、まさかこんなところで活きるとは。誰が考えただろうか。
「綾鷹ちゃんに頼むといつもちゃんとした数字がでるからね。とっても助かってるよ。」
どっかの誰かさんと違って酒をくすねる様な真似もしないしね、と大将の背中を心なしか冷めた目で睨みながら呟いた女将さんを苦笑いで過ごしながら手を動かす。すると、表の方から両手を小刻みにこすり合わて、本日のお客がやってきた。飲み屋「呑んだくれ」は今日も何事もなく営業開始だ。
最初のお客が家内の愚痴を零し、最近娘が冷たいだの、勤め先の若造が生意気だのと思い思いに話し始めて、そろそろ足元が覚束なくなるほどに酒が入った頃。店の表で何やら男数人がもめ始めた。ここら一帯は元々遊郭街だったこともあり、お天道様の下を堂々と歩けない輩もいる。日常茶飯事とまではいかないが、殴り合いの喧嘩も珍しくない。久しくこんなことは無かったな、と他人事の様に思いながら大将が厨房から出ていくのを見ていた。
「お前さんら、いい加減にしてくれ。誰の店先でおっ始めようってんだい。」
大将が目くじらを立てて男共を怒鳴りつけた。飲み屋を始める前は力士を目指していただけあって、大将はがっしりとした体つきをしている。背もそこそこあるし、何より強面だ。こんな人と夫婦になった女将さんは相当できた女だと思う。いつもなら、大将の風貌に気後れし喧嘩は鎮火される。だが、今日は訳が違った。
「うっせえよ。俺らは客だぞ。酒が飲みてえって言ってんだい。それをこのババアが帰れって言うんだからたまったもんじゃねえよ。」
夜も更けてきた頃だ、店仕舞いの時間が近いこともあり、どうやら女将さんが入店を断ったらしい。よりにもよって大将の目の前で女将さんをババア呼びするとは、命知らずのやつらだ。
「なんだあ……、けっ、柄の悪い奴らだ。綾鷹ちゃんも気をつけなーな。あんたは別嬪さんなんだから、こんな奴らの餌食になっちまう……。」
呂律が回ってないお客の忠告を聞きながら、私の目は男共の手元へと向いていた。嫌でも気づいてしまう。不自然に懐に突っ込まれた右手。その先にあるのは恐らくーー
「どいつもこいつもうるせえ。とっとと中へ入れろ。じゃねえとぶっ殺すぞ。」
もはや人として矜恃のかけらもない。聞き捨てならない台詞を合図に、数人が懐から鋭い物を取り出した。酒を飲むだけなのに、そんな物騒な物を持ち歩く意味がどこにあるのやら。いや、それよりも先に体が動く。
「な、なんだ女。」
私も大将と同じく厨房を勢いよく飛び出し、助走をつけて男の一人に蹴りを食らわす。地面に倒れた男の後頭部を右手で鷲掴むと、目の前に持ち上げて他の男共に突きつけた。
「大将、お人を読んできて。」
極めて落ち着いた声色でそう言うと、大将は一つ頷いて隣の酒場へ駆けて行く。それを横目で確認しながら、男共へにじり寄った。
「そいつを捨ててちょうだい。然もなくばこいつがどうなるか知らないわよ。」
又次……と盾にされている男の名前を呼ぶ声が聞こえる。自然と男共の顔は悔しさで歪んだ。しかし、仲間を思う気持ちは残っているのか、じりじりと後退り始めている。もう少し、大将が人を呼んでくるまでの間だけ、そう自分に言い聞かせながら一等口が悪い男を睨み付けた。
「女の分際で……又次を離しやがれ。」
男尊女卑も甚だしい。その醜い一言で勇気づけられたのか、男共の顔に笑みが蘇り始めた。後ずさっていた体も心なしか前のめりになっていく。まずいな、と感じ始めたと同時に、拘束されている男が激しく身をよじりだした。
「離しやがれっ。この売女が。俺に気安く触れるんじゃねえ。」
口も汚ければ、その顔も決して誇れるモノじゃないな。と暴れ出した男の拘束を一瞬緩め、後ろから足を掛ける。そして、ブンっとわざと音が鳴る様に背負い投げた。再び地面とご挨拶を交わしている又次と言う男の上に片足を乗せ、投げた拍子に転がった、これまた男の器を表したような小刀を握る。
「言葉が分からないあんたらに、もう一度だけ教えてやる。刃物を捨てろ。そして去れ。」
こんな殺気は久しく出してない。なんだか懐かしい気もするが、同時に哀しくもなる。
何もかもが男共の予想を軽く超えてしまったらしく、投げられた奴も、それを見ていた野次馬共も呆気にとられて時が止まった様になっていた。
「綾鷹ちゃんっ。」
数人の足音を携えて帰ってきた大将が、この光景を見て絶句したのは、女将さんが彼女の名前を呼ぶのと同時だった。
「こりゃ……多勢に無勢やと思うたら、まさかの逆やないですか。」
飄々とした声が大将の後ろから聞こえてくる。心なしかこの場を楽しんでいるように思える声は、懐かしい上方のなまりだ。
「侑、少し黙りいや。お前が出るとややこしくなんねん。」
スッと前に出てきた男に見覚えがあった。陸軍の将校だ。大将、とんだ奴らを連れてきちゃったのね。よりにもよって軍人さんとは。しかも4人も。
「な、なんなんだよお前ら。この女といい……。」
明らかに男共にとって武が悪い状況になった。一人はたかが女と罵った相手に簡単に伸されてしまい、さらには軍人4人を相手にしなくてはならなくなったのだ。焦るに決まっている。
「とりあえず、手に握ってるモノ捨ててもらおうか。」
威圧感、その言葉がぴったりだ。態度や表情は上方特有のおっとりとしたものだが、その言葉には強制力が備わっている。いい子にできひんのやったら、その先はわかっとるよなあ、とでも副音声で入れようか。
「き、汚えぞっ。おい、今日のところは退いてやる。」
どの口が言うのか。行くぞ、と男の焦った声につられ残りの輩も走り去って行った。全く、最初から最後まで汚い奴らだったなと思いながら大将の近くへ寄る。
「綾鷹ちゃん、怪我はねえかい。たく、驚いたもんだ。急いで戻ったら野郎の上に足乗っけてんだから。」
戸惑いながらも心配してくれる大将の隣で、女将さんは少し涙目で立っていた。
「本当だよ。怪我でもしたらどうするんだい。こっちは寿命が縮んじまったよ。」
堪らなくなったのか、女性らしい白い手が私の両手を揉むように握る。本当にドキドキしたようで、掌がじんわりと汗で湿っていた。
女将さんの表情が落ち着きを取り戻した頃、一連の騒動を見ていたお客が、両手を叩きながら近づいてきた。
「いやあ、いいもんを見せてもらった。天晴だ。やっぱり良い女は違うなあ。俺があと10年若かったらあんたに惚れとったぞ。」
この雰囲気を壊すような呆けた声を皮切りに、野次馬を決め込んでいた連中からも拍手がおこる。とんだ1日だったなと、ようやっと気を抜いた矢先。今度は蚊帳の外だった将校の一人が声をかけてきた。
「あんた、やるなあ。男数人相手に、えらい強気でしたやん。」
飄々とした態度の男だ。胸の印は少尉。日本人にしてはやけに背が高く、大将以上に見上げるように男の顔を見た。なるほど、これはずいぶん女性好みの顔だ。
「何か、やってたん。」
動きに無駄がないねん。尋ねているのではないと直ぐに分かった。お前は何者だと問い質されている。
「……この街で、素性を聞き出すのは少し不躾ですよ。軍人様。」
きょとん、と男は驚いた顔をした。まさか言い返されるとは思っても見なかったのだろう。しかし、それも一瞬。それはすまんかったなあ、と直ぐに両肩を大袈裟に竦め、詫びを入れる。これまた、思わず許してしまいそうな甘い顔を添えて、だ。態とらしく、肩をすくめる仕草さえ様になっているのだから、世の中はとても不公平だと思わずにはいられなかった。
さて、そう口では詫びたものの、将校の男は一向に目の前から立ち去らない。まだ何かあるのかと、今度は不機嫌丸出しで見上げた。
「俺ら、ちょっと先の店で楽しく飲んどったんやで。ほなら、突然ここの大将さんが飛び込んできて、手を貸してくれっちゅうもんやから、何事やと思うて駆けつけたんや。したらどうや。あんたが男伸しとって、俺ら来た意味ないやんか。」
つまり、無駄足だったと言いたいらしい。楽しく飲んでいたのを無理やり切り上げて駆けつけてやったのに、結局何もすることがなかったと。この男はそう訴えにきたのだ。
「侑、ええ加減にせえ。何事もなかったんや。それでええやろ。」
侑と呼ばれた男と瓜二つの男が二人の間に割って入ってきた。双子だ。
「治、せやけど納得できひん。せっかくの休みやったのに。北さんとせっかく楽しく飲んどったのに。」
文句たらたらである。
「侑、治の言う通りや。誰も怪我なかったんや。これはこれでよかったやろ。」
双子よりもさらに背の高い、色黒の男が初めて口を開いた。顔立ちからして、外国の血が流れているのだろう。それにしても、流暢な。
「大将、うちのもんがすまんな。何事もなくてよかったわ。」
「北さんまで。可愛い部下よりも、この得体の知れへん女の肩持つんですかっ。」
お前はガキか。少尉の位を持つのなら、すでに二十歳は超えているはずである。幼い侑の抗議を一通り聞いたあと、不自然な沈黙が訪れた。皆して息を飲む。嫌な予感がする。そう感じた矢先、北と呼ばれた男が静かに言った。
「得体の知れへん女やない。」
その静かな一言で、確信する。
「俺がよう知っとる女や。」
頭の中で警鐘がなる。冷や汗が背中をつたった。やはり、私はこの男を知っている。
「久しぶりやな。元気やったか。梶……。」
ゆっくりと振り返り、そういい放った男を見て、ぼんやりと思う。
今日も昨日と変わらず、穏やかな1日になるはずだった、と。
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