ファーストキスを上書きしたい
私の日課は、毎日放課後に恋人のアズール先輩に会いに行く事だ。
彼は支配人だから、今日もきっとモストロ・ラウンジで仕事をしている。
一日の疲れを大好きな人に会って解消しようと、意気揚々と私はモストロ・ラウンジの扉を開いて、愛しい彼を探す。
ラウンジ内はまだ開店準備をしているらしく、店内ではスタッフ達が忙しなくモップやダスターを持って駆けずり回っていた。
「おや監督生さん、アズールをお探しですか?」
「そうです〜〜今日は勉強教えて貰う約束してるのですがどこにいますか?」
「すみませんがアズールは今、先生に呼ばれているので、用事が終わってから今日は来ます。なので暫くこちらでお待ち頂けますか?」
ジェイド先輩はニヤニヤとした表情を崩さないまま、私をVIPルームへと案内した。
ソファーへ腰掛け、両手で抱えていた教科書や筆記用具をローテーブルにどさりと乱雑に置くと、ジェイド先輩は『紅茶を淹れてきますね』と行ってVIPルームから立ち去って行った。
一人残された室内で、途端に手持ち無沙汰になり、ポケットからスマホを取り出してアズール先輩へ『先輩の用が終わるまでVIPルームの中で待ってます』とメッセージを送った。メッセージアプリを閉じた後はマジカメを開いて、適当に時間を潰そう、そう思っていた矢先、乱暴にVIPルームの扉が開かれて、その爆音に驚いて肩をビクッと揺らす。
「小エビちゃんだぁ♡ ジェイドから小エビちゃんが来てるって聞いたから会いに来たよ〜〜♡」
いつも以上に目尻を垂らした満面の笑みで、フロイド先輩はそのままの勢いで、後ろからソファー越しに抱きついて来た。
「ぐ、ぐぇっ…………苦しっ……苦しいですって!!!」
うっかり絞め殺してしまうんじゃないかっていう力強さで抱きついて来たので、ギブアップの意を示すためフロイド先輩の私を抱きしめる腕をバシバシと叩くと、ちぇっと言いながら抱きしめる腕を緩めてくれた。
肺の中の酸素がほぼ空っぽになりかけていたので、ぜーはーと息を荒げて、慌てて肺に酸素を取り込むと、フロイド先輩はそんな私の様子を見ながら、何が面白いのかはよくわからんが声を上げて、きゃははっと喜んでいた。お前は悪魔なのか??
フロイド先輩はひとしきり私を見て笑い倒すと、笑い飽きたのか突然すんっと無の表情に顔色を変えてきたので、その変化の違いについていけず私は乾いた笑いを溢した。
まだここに来てから10分も経過していないのになんだか異様に疲弊しているような気がする。まあそんな疲労も大好きなアズール先輩と過ごせば一瞬で吹き飛ぶ訳ですので、もうすぐ先輩と会える今の私は誰よりも無敵なはずだ。
「なんか今日の小エビちゃん唇がなんかちゅるんってしてるねぇ! しかもなんかピンク色だ〜〜!なんでなんでぇ?」
フロイド先輩はそう言って私の両頬をむぎゅっと両手のひらで押して強制おちょぼ口をさせられた。ちょっと力が強いぞ、痛いぞ。
「これ新しく買ったグロスなんです」
頬をぎゅっとされているのでなかなか喋りにくいけど、なんとか声を絞り出してもごもごと話すと、フロイド先輩は興味深そうに私の唇に親指を置いてぷにぷにと唇を弄り始めた。この調子だとアズール先輩が来る前にグロスが剥げそうだから、フロイド先輩がいなくなった後にこっそり塗り直そう。
「なんかすごい小エビちゃん美味しそう〜〜」
フロイド先輩なら捕食しかねないなと思って、パッと顔を逸そうとすると、後頭部を先輩の大きな手でがっちりとおさえられて、私は身動ぎひとつできなくなった。
目の前で揺れる蜂蜜とオリーブ色の美しい瞳に、吸い込まれそうになりそうな程見惚れてしまった。
フロイド先輩の二重めっちゃ綺麗だなとか、現実逃避めいたことを考えていると、不意に唇に何か温かい物が触れた。
─── 秒針が時を刻む音だけが室内に響く。
カチリ、カチリ、カチリ。
時は確かに刻まれているはずなのに、私の中の時間は確かに止まっていた。
状況を飲み込めず、さっきよりももっと距離が近付いた美しい瞳に反射した自分の目を、呆然と見つめる事しかできなかった。
人魚って海の生き物だからもっと体温も低いものだと思っていたけれど、どうやらその考えは間違っていたみたいだ。だって現在進行形で唇を重ねているこのウツボの人魚の唇は私の唇よりも熱く感じるから。
やっとのことで状況を飲み込んだ私は慌ててフロイド先輩の腕から逃れて、距離を取る。こっちは冷や汗が止まらないと言うのにフロイド先輩は機嫌良さそうににこにこと目尻を下げて笑っていた。いったい何を考えているんだこのウツボは……。
直後、バサバサバサッと何かが落ちる音がこの部屋の入り口から聞こえ、恐る恐る扉の方へ視線を移すと、そこには真っ青な顔をしたアズール先輩が佇んでいた。足元には大量の書類。どうやら先程のあの音は、この書類を床にぶちまけた音だったらしい。
呆けた顔をしていたアズール先輩は、やっと我を取り戻したかと思うと、ズレた眼鏡を慌てて掛け直してコツコツと踵を鳴らし、ゆったりとした歩幅でこちらの方へ近づいたかと思うと、フロイド先輩の前で足をぴたりと止めた。フロイド先輩は相変わらずにこにこにやにやしたままで、それがアズール先輩の神経を逆撫でしそうで私の米神に冷や汗が伝う。
「フロイド」
真夜中の海のように冷たい声だった。いつもよりも低くずしりとした重みのある声に私の背中が粟立つ。
「監督生さんと何をされていたんですか」
「別に〜?ぎゅって締めてただけだしぃ」
「フロイド、あなたの唇なんだかいつもと違うように見えるのは僕だけですかね?どうしてピンクの唇なんです?」
「い、いつもと変わらなくね?」
「フロイド、どうして監督生さんと同じピンクの唇の色をしているのです?」
あ、これ絶対あのキスシーン見てたわ、アズール先輩。私はそう確信する。
私のグロスの色が映った唇を手の甲でごしごしとフロイド先輩は拭うと誤魔化すように、へへへっと笑った。
「ごめんごめんー小エビちゃんの唇すっごい美味しそうだから食べちゃった♡ ご馳走様♡」
「フロイド」
「だからごめんってばー!!じゃ、オレキッチンの仕込みやってくるねぇ」
「こら………! まだ話は終わってませんよ!?」
アズール先輩の叫びも虚しく、フロイド先輩は大股で歩いてこの部屋から逃げるように立ち去った。
残されたアズール先輩と私の間には重い空気が漂っていた。別れ話なんかされたら私はフロイド先輩を引っ捕まえて切腹心中してやる、だなんて物騒なことを頭に浮かべる。
「アズール先輩ごめんなさい」
「フロイドにキスされて気が変わったから僕と別れてくださいごめんなさいってことですか?」
「勝手なネガティブ翻訳やめてください」
バッサリ私がそう言うと、アズール先輩はウッと息を詰まらせたかと思えば、ぼろぼろと涙を流し始めた。好きな人にこうも泣かれてしまうと流石の私も焦る。泣かないでよー。炭吐き坊やにもどってしまいましたねってジェイド先輩にどやされちゃうぞ。
「どうしてフロイドにキスされてんだよ〜〜〜!!!! 僕ですらあなたとまだキスなんてしたことないのに〜〜!!!!」
泣きながら私の方へにじり寄ってくると、私の唇を一生懸命ごしごしと拭いはじめる先輩の姿を見て、なんだか可愛くて胸の奥がきゅんと疼く。申し訳ないけど可愛い。
私だって不意打ちでキスされた訳だし、フロイド先輩としたかったわけじゃないので言われっぱなしは癪に障る。
「私だって……私だってファーストキスはアズール先輩が良かった!!」
大声で喉の奥に引っ掛かっていた本音を吐き出すと、我を取り戻したかのように目を見開いて、先輩はぎゅうっと私を抱き締めた。
「すみません、あなたは悪くないというのに。フロイドには後で僕からキツく言っておきますので」
そう言うとアズール先輩は、片手で私の顎を柔く掴んで引き寄せた。スカイブルーの瞳が私の目を奪って離さない。愛しい者を映す柔らかい眼差しに、なんだか照れ臭いし背中がむず痒い。なんだか今日は人魚の瞳を間近で見る日だな、なんて的外れなことが頭をよぎる。
「ユウさん」
「ハ、ハイッッッッ!!!!」
神妙な面持ちでアズール先輩は私の名前を呼んだ。これ、最悪、別れ話でも持ちかけるんじゃね?
そのくらいアズール先輩の顔は真剣で、唇はぎゅっと真一文字に結ばれていた。
「……キスしたいです」
予想外の言葉に腰が抜けそうになるけど、咄嗟のことで言葉が出ず、こくりこくりと何度も縦に頷いて了承の意を示す。
恐る恐ると言ったようにアズール先輩は唇を寄せ、触れるようなキスをした。触れ合ったのはほんの一瞬だったけどあまりの恥ずかしさに身体中の血液が沸騰したかのように顔が熱くなる。
さっきフロイド先輩にキスされた時はこんな風にならなかったのに、アズール先輩との、ほんの一瞬啄むようなキスをしただけで、私の心臓は爆死するんじゃないかってほどドキドキしていた。
「……お、おかわりです」
私が譫言のようにぼそっとそう言うと、アズール先輩の顔までみるみるうちに耳まで真っ赤染まっていく。
「消毒と思い出の上書きのつもりですので、いくらでもしてあげますよ」
格好つけてそうは言うけど目線は一切私とは合わなかったので、だいぶ重傷だわ先輩。いつ恥ずか死んでも可笑しくない。
あまり無理しないてください、と口を開こうとした瞬間再び、アズール先輩の唇が私の口を塞いだ。
一体何秒の間私たちは唇を合わせていたのだろうか。その間ずっと息を止めていた私は限界が来てしまい、ぷはっと自ら先輩の唇から距離を置いてぜーはーと急いで酸素を肺に取り込んだ。
「キスしてる時ってみんなどうやって呼吸してるんですか……エラ呼吸でもしてんですかね……」
と、私が息も絶え絶えにそう言うと、アズール先輩はくすっと笑った。年相応な愛らしい笑みに不覚にも胸がきゅんとなった。やっぱり大好き。
「じゃあ今日はユウさんが上手にキスができるようになるまでじっくり練習しましょう。僕も今日が初めてなので今後のためにもお互いしっかり練習しましょうね」
そんなん心臓がいくつあっても保たない。なんとか反発しようと口を開くけど、またもやそれもアズール先輩の唇によって言葉を呑み込まれてしまう。
今日はもうきっと何を言っても聞いて貰えない気がする。
潔く諦めて彼の背に腕を回してすべてを委ねることにしよう。
「ジェイド〜〜アズールにちゃんとけしかけてきたよ〜〜!!」
「おやおや、いったい何をしてきたんです?」
「えっとねぇ、小エビちゃんにキスしてきた!」
「ふふふっ、フロイドそれはちょっとやりすぎでは? そうしたら次は僕が監督生さんをベッドに引き摺り込みましょうか?」
「キスだけでも泣き虫タコちゃんになってたのに、それはガチでアズールに殺されそう」
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